ほんなら・・・ ほんでも・・・ 28回目 『樹村みのり』さん。・・・]Z ・・・・・2005年2月12日・・・・・ |
今回で”樹村みのり”さんはおしまいです。 |
『夏を迎えに』 樹村みのり 著 プチ・フラワー 8月号 1985年発行 |
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『夏を迎えに』 若者達が有機栽培野菜の販売を共同経営しているお店に、誰彼ともなしにではなく、この人と思った人には「悪霊が取り付きやすいから髪を切って額を見せなさい」と言いまくる”悪霊ばあさん””髪切りばあさん”と呼ばれている一風変わった婆さんがやって来る。 常連客の水上さんは挿絵画家・イラストレーターと言う仕事柄、胃がおかしくなり、診てもらうと胃潰瘍・十二指腸潰瘍。 いつか婆さんに会うだろうと思っていたら、その機会がやって来た。 婆さんは額を指差しながら「ここに悪霊が憑いている。あんたは良い人だ。親切で優しい立派な人です。でも、その髪は良くない」と言いまくった。 その真剣な婆さんの顔を見て水上さんは涙が出た。 「今日は取りあえず前髪をピンで留めて寝なさい。悪霊は寝ている間が一番入りやすいのだから」 そう言われたのを思い出した水上さんは「まぁ、して寝るか」 その晩、お臍の辺りから黒い虫が出て行く夢を見た。 翌朝、婆さんから電話が入り「お祓いしたあげたので、大半の悪霊は出て行った」と言う。 水上さんは髪を短く切った。 良く見るとお店の従業員はみんな短髪だった。 白い球が十二指腸が有る所に入り込んだ夢を見た。 五月晴れのある日、身体の調子がすっかり良くなった水上さんがお店に行くとお婆さんがいた。 この婆さん、水上が独身だと知り「良い相手を見つけてあげる」と言う。 ある朝、婆さんから電話が入って「昼過ぎに来い」と言う。 一人でマンション暮らしをしている部屋には子供や孫の写真が飾ってあった。 額を出している者はいなかったのでそう言うと「あんた達は 他人だから何を言っても良いの。『他人ならわたしがイヤだと思えばわたしから離れていけばいいでしょう?身内はそうはいかないのよ』『嫁さんはみんな立派な人達ですよ 立派ないい人達なんです でも親子というのは相性というのがあってね』」 「別に結婚はいいんです。三匹猫も居るので寂しくないし」 「その猫が原因だわ。すぐに猫を捨てなさい」 立腹して帰った水上さんだった。 その晩、胃が痛み出した。 朝方、婆さんから電話がかかってきたが、少し悪いと思いながらも邪険にした。 以来、お店で婆さんと会うことはなかった。 梅雨入りした日、隣に住む山野さんに誘われてお茶を飲みに家に行った。 婆さんの話を聞いた山野さんは「悩んでいたりする人と思うと、放っておけない人じゃないかしら。でも、そんな思った通りの事を言う婆さんなら嫁さんが大変だわね」 水上さんは気がついた。 婆さんは嫁さんとは上手く行かず、かと言って自分の性格を変える事も出来ず、一人暮らしを始めたのだと。 お店は気兼ねなく好きな事を言え、大切に接してくれる所だったのだと。 髪を切った。 婆さんに親しみを覚え、信用したからだった。 それは、初めて会った時、婆さんが褒めてくれたからだった。 『わたしは いわば自分自身に対するウヌボレから』婆『さんを信用したのだ』 婆さんに会いたいと思った水上さんは、手作りクッキーを持って雨の中を訪ねたが、留守だったので「よかったら、今度、一緒に拙宅で食事しませんか?」のメモを郵便受けに入れて帰った。 婆さんから「クッキーの御礼」と電話が入った。 婆さんの口さない物言いに「はい はい」とにこやかに応じる水上さん。 女医さんの再診の結果では、潰瘍は完治していた。 帰路、梅雨空の中を歩いていて、晴天の南の島の観光ポスターに眼が行った。 1967年頃、ベトナム戦争が泥沼化している頃、米国で反戦志向・自然志向(反都市・半文明)を旗印にした若者達=ヒッピーが現れだした。 このヒッピーの流れから自給自足の共同生活集団なんぞが出現したりもし、七十年代に入り”無農薬””自然食品”に拘る人々向けの”商売”が始まり出したと記憶する。 (例えば、藤本敏夫さんは(加藤登紀子さんの配偶者)1976年3月「大地を守る会」会長に就任し有機農業の普及活動を始め、翌年には有機農産物・無添加食品等の流通会社”大地”を設立。 樹村みのりさんとかなり同質の匂いがする落合恵子さんは1976年12月に”クレヨンハウス”を立ち上げ”商売”としては1992年にようやく本格的に乗り出しているが・・) 商店になじみのお客さんは付き物だけれど、ある種のお店ではことに”なじみ”が出来易い。 一種の聖域に集う人々とも言える無農薬野菜を扱うお店ではそうだろう。 ここには共通項からくる排他的な要因を秘めた人々が訪れる。 お店の人達の受けさえ良ければ、訪れる人達同士の交流がしだいに成立するのは自明の事だろう。 何処か中産階層向けの新興宗教ポイ匂いが漂う自然食品屋さんです。 喰う事にあくせくしている所得が低い層は、高価格の商品が「身体に良い」と思っていても行かない。 いや、行けない。 詣でする余裕等ない。 余談だけれど、知人の奥さんは餓鬼が小さい頃「私達はもうこれまでに嫌と言うほど口にしてきたけれど、せめて子供にだけは・・」と言う事で 自然食品に懲りだした。 懲りすぎるぐらいの奥さんの旦那が「そんなもん、学校行くようになったら給食、喰うようになるし、小遣いで喰物、買いよるようになるねんから・・・」奥さんのいない時、私の前で言いよった。 「あんたの 勝ちぃ〜」そう思いましたね。 その後、奥さんは”チャネリング”の世界に行ったようで・・・。 独居老人の孤独を判り易い事例で描いている事に拍手したい。 これまでに描いているのかいないのか勉強不足で知らないのだけれど、樹村みのりさんにもっと”老人”を描いて欲しい気が多々する。 老年の入り口に立った彼女の感性が 描く”老人の世界”を視てみたい。 |
『彼らの犯罪』 樹村みのり 著 ROSA 12月号 1992年発行 |
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『彼らの犯罪』 千九百八十九年三月、当時十七歳の女子高校生を少年達が四十一日間にわたり監禁し、数名により獣欲を満たすため強姦し、暴行、ライターの油をかけて火をつける等、鬼畜と言える程の烈しく執拗な暴行と陵辱を行い、全身殴打により腫れあがり、酷い栄養失調状態のまま、残虐非道の仕打ちを与え、惨殺し、犯行の発覚を恐れ、死体をコンクリートに詰め、遺棄した事件。 猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人が『彼らの犯罪』 犯行の中心となった四人の少年達は、事件の残忍性から成人と同様の刑事裁判が妥当とされ、高裁判決で主犯格のA少年(十八歳)は懲役20年、準主犯格のB少年(十七歳)は控訴を棄却され懲役五年以上十年以下、C少年(十六歳)は懲役五年以上九年以下、D少年(十七歳)は五年以上七年以下と実刑判決を受け少年刑務所に送致された。 東京高等裁判所判決文です。 (読むのに辛気臭いけれど、下手な小説や『ほんなら・・ほんでも・・』よりかははるかに、不遜な言い方ですが、胸糞が悪くなるほどに面白い) 「脅しと暴力により、事件現場の家から逃亡を試みる勇気が萎えた被害者(作中人物名は、花田)」と少年達を見て思い、「被害者の彼女は”自分”だったかも知れないと多くの女性は思っただろうが、男は自分も加害者になりえたと思っただろうか」と話し、「少年達の溜まり場化した家と言うのは、家族・家庭を維持出来ないと言う事ではないか?」と呟く。 「”男”のプライドを自己の存在そのものでこてんぱに踏みにじる女を、性的侮辱によって押さえ込む、その究極が強姦じゃないだろうか」と仮説する。 主犯格の少年の”彼の際立った自発性”と視た『目標を持ち自発的に努力する時、彼の人生はいつも達成を約束してくれた』点から、この少年が法廷で述べる殊勝な反省の言葉と犯行との差を理解した。 怒りまくり、悲しみに包まれて描かれた中で、傍聴時に視た準主犯格の少年が泣きながら話す『まったく 自分勝手っていうか・・・花田さんは あの頃生き地獄の中にいて もしかしてぼくに助けを求めていたかもしれないのに・・・ぼくは・・・』で「彼だけが彼女を救えたかも知れなかった」と思い、D少年の『自分に暴力をふるわれるのが怖くて他の人を止められなかった 今は誰でも止められますが やりたくないことは死んでもやらないと決めました』の言葉を聴きたくて法廷に通ったと描く。 二審の高裁では、少年達の一年間の身体的な成長に感動し、初めて少年達を痛ましく感じた。 事件現場は更地になり、裁判中によく出てくる公園は目の前にあり、子供への愛情から、この地に家を求めたC少年の両親の気持ちが判るような気がした。 しかし、両親のまっとうな価値観に対し自己の脆弱さを知る子供は反抗し、親と子はすれ違ったまま犯行に至る。 二審判決当日の法廷で、主犯格の少年、いや二十歳を越えた青年の力の抜けた後姿を見た。 彼の裁判での努力は実を結ばなかったが『そんなにガッカリすることはない 今のきみの挫折など きみ達が花田さんに与えた「生」の挫折に比べたら何程のものだろう 花田さんは還らない それは きみときみ達がしたことだ』 表紙に”セミドキュメンタリー”と打ちながらも、一ページ目の欄外下には”この作品はフイクションです。”と。 実録物なんか、創作物なんか、ハッキリせんか!って言いたい。 どちらにしても実在の事件で、地裁と高裁での傍聴記録を素にして描いたらしい。 強姦の場合、と言っても実行した事ないので推論ですが、確かに上記の「生意気な女に対抗する究極の方法」と言う仮説は言えそうだ。 だが、この年代の男の性欲のおぞましさと言えば、例えば何かの小説に書かれていたのだが「コンセントに電器プラグを差し込むのを見た。これだけで性交をイメージしてしまう」程のモノを身につけている者が多い 少なくとも、男子校だった阿呆坊の見聞きした範囲では、十代後半の男のかなりの者はそうだった。 女を押さえつける意図だけでは、強姦に至らない。 作品では、『あてのない不安定な日々を送っていた彼らにとって 卒業も決まりアルバイトに通っていた花田さんは とても眩しい存在だったでしょうね 兄弟のいる彼女にとって 同じ年頃の男の子達のコンプレックスもよく理解したと思うの 彼らにとっては花田さんはますますかなわない相手になり 彼らは自分がますます情けなく感じてきたでしょうね』と書いた上で『そんな女を性的侮蔑によってへこませてやりたいと願うのが強姦願望という病的な衝動なのじゃないかしら』と書く。 高裁判決文によれば、 『1 Eを猥褻目的で略取、監禁するに至った経緯 被告人Aは、同Cと共に、昭和六三年二月二五日夕刻、通行人からひったくりをし、あるいは若い女性を狙って姦淫をしょうとしてEを脅迫して関係を迫り、同日午後九時五〇分ころ、タクシーでEを原判示のホテルへ連れ込み姦淫した。・・・(略)・・・ 被告人Aは・・・(略)・・・翌二六日午前零時三〇分ころ、原判示のI公園へ赴いた。同所で・・・(略)・・・被告人Bと・・・(略)・・・意思相通じて、Eを猥褻目的で略取、監禁することとした。・・・(略)・・・同月二八日ころの深夜、被告人らのほか、不良仲間・・・(略)・・・Eに襲いかかり、必死に抵抗するEの口や手足を押さえ付け、Eに馬乗りになるなどの暴行を加えて、その反抗を抑圧し、』 との事なので”そんな女”と認識する以前に、少年達は「はじめに強姦(=性欲)ありき」だった。 となれば、樹村みのりさんは、はじめから「男(少年)は”敵”とみなす」視点から描いたようだ。 人並みの性欲にさいなまれていた頃、”強姦”を思考の上で考えた事はついぞなかった阿呆坊としては、少年達=自分と置き換える事は出来ない。 他の犯罪の場合では、この置換えが出来得るものがあるが、出来ない。 これって、ほとんどの男がそうだろうと思う。 しかし、単なる”暴行”に関しては、無いとは言い切れないものが有る。 でも、これって、ほとんどの”男”と言うよりも”人”に有るだろう。 ”輪姦”となると性欲外の因子が働く要素も多く、仲間意識が実行に移すかどうかの分水嶺だろう。 人間は何処まで残酷になれるのか? 生物の中で人間が一番残酷でしょうね。 人間から視て他の生物の残虐行為と思える行動でも、その行っている動物が”残虐”な行為を行っている認識を持っているとは言いがたいですね。 残酷行為はすべからく、人間の文化的な行為、後天的に修得されたモノなんですね。 三十年ほど前に事ですが、八重山群島石垣島の民宿で離島への船待ちのあいだ連泊していた時、寝転びながら本を読んでいる目の前に天井から守宮がよく落ちてきた。 気持ちが悪いので掴んで庭に放せば良いのだけれど、都会育ちの悲しさで・・・。 そのまま「傍によるなよ」と念じていると、猫が忍び足で来て守宮をいたぶりだした。 仮死状態になり、少し手足が動くと猫は前足で払う。 見ている私は、気持ち悪いなぁと思いながらも「おい、もう止めかいな、まだ生きとるやんけ もっとせんかい」と猫に加勢していた。 守宮が落ちてきた時、近くに猫がいないと「つまらんなぁ」とすら思った。 少年達は仲間としての集団に帰属している意識が大きければ大きいほどに残虐はさらに増長するんでしょうね。 首謀者は指導力の維持の為、引率して事を行い。 止める者は排除され、更に過度な行動を取る者がその場で賞賛をあびる。 被害者を嬲り殺す少年達に情状酌量の余地を見る事など出来ない。 しかし、傍聴席での樹村みのりさんは怒りや悲しみを持続させない。 D少年の『自分に暴力をふるわれるのが怖くて他の人を止められなかった 今は誰でも止められますが やりたくないことは死んでもやらないと決めました』また、準主犯格の少年Bが泣きながら話す『まったく 自分勝手っていうか・・・花田さんは あの頃生き地獄の中にいて もしかしてぼくに助けを求めていたかもしれないのに・・・ぼくは・・・』に心を動かされる。 どこまでも、人に優しいのだ。 だが「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか、一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい」と最終意見陳述で涙ながらに言ったらしい少年Bは、昨年七月二十八日逮捕監禁致傷罪の被疑者として裁かれようとしている。 法廷では裁判長、弁護士に礼をする真っ当な人間を演じているようだが、被害者の同居人の話では(だから、信憑性に欠けるが)「実はオレが主犯だった」などと自慢し「捕まっても警察をだますのは簡単」「簡単に刑務所から出れる。精神鑑定にひっかかるフリをすればいい」等とほざいていたらしい。 (補) 三月一日、東京地方裁判所で逮捕監禁血致傷罪に問われ、懲役四年(求刑七年)の実刑判決が 出た。その時、被告は量刑に満足したのか席に戻ると笑顔すら見せたらしい。 ・・・・三月七日記 樹村みのりさんの怒りと悲しみは少年達のみならず、犯行現場の家の母親にも向けられる。 彼女からすれば、少年達が花田さんを帰すと十二月に連れ出した以降、二階での惨状に気がつかず、疑いを持たなかった母親を信じられないのだろう。 これは家庭ではない、家族ではない、と烙印を押そうとする。 『五〇〇〇万円を贖罪のためEの遺族に提供』 『Eの遺族に対する賠償金の積み立てを続け、現在では一六一万円余に達していること(遺族は、現段階ではその受領を拒絶している)』 『被告人の両親が、自宅を売却し、その中から一〇〇〇万円をEの遺族への賠償金として提供するため積み立てていること(遺族は、現段階ではその受領を拒絶している)』・・・(高裁判決文より抜粋) 作品では、職場を替え、兄は学校を退学し、家を売り謝罪に当て、『家族も充分に社会的制裁を受けたわね』と描く。 両親が職場を替え、家を売り払うのはまだしも、兄が退学する事に対しても”社会的制裁”の範疇に入れて良いのだろうか? 過度の社会的制裁を認めているのだろうか? そんな認識を樹村みのりさんが持っているとすれば、悲しい。 世間沙汰になり、世間雀がいて、世間の口にのぼる事は避けられず、世間の口に戸は立てられぬので、世間をさわがせた事に対して、ただひたすら世間に申し訳ないとなり、世間に顔向けができないので、世間の眼から逃れるために引きこもり、世間にわびると言う行動をとる。 世間の風は冷たい。 |
こんなに長く樹村みのりさんの著作を書くつもりはなかったのですが、次に転載している日本出版販売のHPを見ると、多くの人が手にする事が出来ない現状なので、かなり細かく筋を記したらこうなってしまった。 二度とするまい、筋書きは。 |
先日、部屋を片付けていたら 『夢の入口』 ROSA3月号。 『ちょっと寄り道』 キネマ旬報 1984年10月1日に第1回で第27回まで。 『風のささやき』 コミック・アイ 1987年7月号。 『リカちゃん以前の女の子達』 不明。 『誰かさん見ぃつけた』 ビッグコミック・スピリット増刊1984年12月5日号。 の切り抜き・コピーが出てきた。 画像を載せて追加するべきなのかどうか? 二年近く経っているので・・・・その気が失せた。 2007年1月16日 五十五歳の誕生日 |
29回目は、『行って視て見、聴いてみて見』です。 |
この車に乗って往き、 ”本”の事でも、 ”わんこ”の事でも、 何でも書いて(掲示板)おくんなはれ。 |
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」 |
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