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資料Aー8 東京大学文学部学友会救援対策部『文闘争裁判勝利 2.14弾圧完全粉砕! 無罪要求署名を集中しよう!』1980年1月

(須藤の注:文中で、傍点または傍線で強調されている箇所は太字で表記した。文中の( )は原文のもので、〔 〕は須藤による追加。印刷のかすれで読めない語が一つあり、○○とした。縦書きの文を横書きにした関係で、漢数字を算用数字に、またその逆に変えたところがある。)

序章 「百年」と文闘争裁判―冒頭陳述書から「無罪」上申要求署名へ―

★〔19〕79年2月14日からちょうど10か月目の12月14日、その間閉鎖され続けていた文〔学部〕学生ホールの開放がかちとられた。2.14弾圧(文ホールロックアウトと逮捕・起訴による刑事事件化攻撃)の一角は崩れ去った。それは未だ完全な解放ではない。しかし教授会側が数々の不当条件を課そうとしたことに示される彼我の力関係の中で、それらの条件のほぼすべてを粉砕してこの文ホール奪還がなし遂げられたこと、さらにこれがハンストや三波のストライキを始めとする様々な闘争の展開の中でかちとらられた事をみるならば、この「開放」とは勝利を意味し、また2.14弾圧の一角が崩れさったことをはっきり確認できるだろう。5月の今道退陣に続くこの文ホール奪還は、さらに2.14弾圧の不当性を暴き出す。それは2.14弾圧の一方の柱としてある刑事事件化攻撃の不当性をも告げている。

★〔79年12月〕現在文闘争裁判は6回を数えている。法廷の中で、膨大な冒頭陳述書の中で、我々はこの裁判自体が文〔学部〕闘争に対してかけられたものであり、全く不当なものであることを暴露してきた。だが、裁判は断じて中立なものではない。いわゆる司法の反動化、さらにある「事件」のみを取り出してその他の一切を捨象する裁判の在り方は、そのまま裁判所の階級性をさし示している。そしてそのことから逆に、我々がそのような裁判を打ち破るにどれほどの厚みと幅を持った運動を構築しうるか、もまた問われている。その質において、我々の担ってきた闘い―百年、募金、移転再編、研究至上主義、管理強化、新たな再編合理化を射程に入れ、さらに司法機構として現れた国家に対峙していくことが問われている。

★反百年の闘い、それは東大百年、日本近代百年を告発するとともに、それらの破産を暗示した。そして東大の移転再編攻撃にクサビを打ち込んだ。それ故、反百年闘争と当局者との対立は非和解的であり、弾圧もまた烈しかった。「処分に励め、告訴に励め」という美学者今道〔文学部長〕の叫びは従ってアナクロニズムの産物ではない。「百年の評価は、それ自体学問の中で問え」と今道が言うとき、彼ははっきりと東大百年―日本近代百年の擁護者として立ち現れたのだ。

★だが「栄光の帝国主義」を鼓吹する者はもはやなく、大衆収奪と合理化・治安管理再編によって四苦八苦のかじ取りを行なわんとする支配者の状況は、そのまま大学の状況に照応する。その偉業をしのぶべき「百年」が崩れるとき、反百年闘争に対して当局者に残っているのは弾圧―管理強化以外にない。こうして処分が目論まれ、処分が無理となるや刑事事件化(デッチ上げであろうと厭わぬ)攻撃が行なわれてきた。そしてその攻撃は向坊総長室の管理強化路線―78.8.31「東京大学所属国有財産取扱規程」と80年末を目標とする新処分制度制定の強行―の中にぴったり組み込まれている。

★こうして幾重にも重なる展開が要請されている。裁判闘争の全面勝利をかちとっていく闘いとともに学内管理強化を粉砕する闘い、その両者が相まってこそ真の勝利がかちとれる。また破産した「百年」に対して我々の側の歴史を構築することによってこそ、階級的裁判を葬り去り、「百年」を葬り去ることが可能となるだろう。

★文ホール奪還によって2.14弾圧粉砕の闘いは最終的局面を迎えている。われわれはいまこそ文闘争裁判勝利に向けた「無罪」要求署名を提起する。署名に結集し、裁判闘争に向けて前進しよう。文闘争裁判の勝利は2.14弾圧の弔鐘として鳴り響くだろう。そして3.27総長声明の基盤を大きく突き崩して全学的管理強化体制の挽歌を奏で始めるだろう。

第一章 文闘争裁判とは何か

1. 2.14弾圧の位置―刑事事件化攻撃の意味するもの
昨79年2月14日午後10時、文学部周辺は続々と入ってくるパトカー、機動隊の投光車、放水車の群れに囲まれた。反百年闘争を断固として闘ってきた学生たちの思想の突き付けに対し、ついに国家権力が直接手を出してきたのだった。
文学部においては、78年5月、9年ぶりに学生大会が成立するなど、反百年闘争が大衆的高まりを見せていた。学科討論を重ねつつ大衆団交をかちとっていった運動の力に恐怖した今道は、9月、10・26確認空洞化に抗議して継続されていた坐り込み闘争の現場・学部長室から火災が発生するや、これにとびついた。学生ホールロックアウト、立て看破壊などの弾圧を集中する一方、「失火」キャンペーンをばらまき、学生処分策動に乗り出したのである。しかし処分反対の声は全学からまき起こり、多くの学生、職員、教官が処分反対運動に結集した。さらに79年1月には全国から500人の学生が集まり、反対集会がかちとられたのである。また消防署が原因不明の結論を下すや、密室でのデッチ上げを狙って裁判所・警察・検察一体となってかけられてきた「証人召喚」攻撃も、全学そして法曹界からの抗議により破産した。このようにして「失火」デッチ上げ、「不法占拠」処分等の闘争つぶし策動が次々に粉砕される中、しだいに孤立していった今道は、ついに警察にゲタを預けるに至ったのである。
全学的に孤立する中、文当局―今道は、学外逃亡教授会で処分案上申を強行決定した。2月13日、処分対象者と目される3名がハンストに入り、同時に文ホール24時間解放闘争が始まるや否や、東大当局は機動隊導入を要請した。そして14日、150名の警官・機動隊員は形ばかりの退去命令を読み上げ、すでに退出し抗議デモを行なっていた学生を暴力的に拘束、一人一人の顔写真をとり、東大当局の協力のもとに特定して3人を逮捕したのである。当時の学友会委員長を始め、反処分闘争を中心的に担っていた学生、院生3名という顔ぶれをみてもわかるように、学生運動つぶしとという目的で一致した、今道らと警察・検察とのあからさまな結託であった。
逮捕容疑は78年「12・26暴行事件」であった。処分を公言していた今道に対する討論要求を「暴行」にデッチ上げたのである。勾留中には、最初から警視庁の公安担当官が1日10時間にもわたる拷問的取り調べを行なってきた。しかも尋問内容は、12・26や11・7「事件」についてではなく、闘争の内容に関するものだった。そこには逮捕の持つ政治的意図のロコツな表われがあった。しかもM〔三好〕君は12・26現場には居なかった。起訴などできよう筈がない。3名全員が処分保留になったが、M君に対しては、期限ぎりぎりになって急きょ別の「11・7傷害事件」をつくり出し起訴してきたのである。その直前に、今道は日夜検察庁に日参し、言いたい放題の被害届をだし膨大な供述を行なったといわれる。

2.裁判そして裁判所とはなにか―公訴棄却の論理
こうして我々の闘争は裁判所の「裁き」と対決することになった。まずはっきりと見ぬいておかなければならないのは、裁判所とは「公正中立」などではないということである。
想起してみよう。79年1月の「証人召喚」とは何だったのか。それは、それまで「被疑者」と目されていた者を黙秘もできず弁護人もいない「証人席」につかせようとするものであり、とりもなおさず、何が何でも「事件」を作り上げたいという警察・検察の意を受けたものであった。そしてまた反動的「弁護人ぬき裁判」の先取り攻撃でもあった。そして逮捕後二度にわたって勾留延長し、さらに起訴後の保釈申請を「逃亡のおそれ」「罪証隠滅のおそれ」があるとして却下してきたのは獄内外を疲労させようという警察・検察の意図を満足させるものでしかない。一体、闘争を担うものがどこへ逃亡するというのだろう。このような弁護人の反論に対しても「裁判所の決定だから」と居直るばかりだった。
このような裁判所が行なう「裁き」とは何なのか。11・7「傷害」事件の起訴状には、闘争の背景は一切捨象されている。そして裁判は「起訴状一本主義」で行なわれるため、ア・プリオリに「傷害事件」なるものが存在し、それについて有罪か無罪かを問うという構造になっている。これはある意味で裁判そのものが「傷害」デッチ上げに加担していることにならないだろうか。また、このために背景たる闘争の流れ、状況に関する尋問は「合法的」に切り捨てられるのである。「傷害」を闘争から切り離せば、処分にいきづまった今道が、弾圧の奥の手として刑事事件化をはかったということは語られない。検察にとって実に都合のいい制度なのである。
裁判所は「思想は裁かない。事件を裁くのだ」という。だが、闘うものを「暴力集団」と決めつけるキャンペーンに乗っかった「傷害」デッチ上げは、闘争に対するイデオロギー的攻撃の側面を持つ。このような矮小化をそっくり受けついでしまう現行裁判制度そのものが、結局思想に対するパージを助ける側に回っているのである。即ち、裁判所の裁きは、直接的には闘争つぶしをはかる検察側に都合のよい点を持つことによって、間接的にはイデオロギー的攻撃を助けることによって、闘争の背景にある思想を攻撃しているのである。我々は事実を闘う局面においても、常にこのことを頭において、あくまでも裁判を闘っていかねばならないのだ。
我々は、(一)政治的目的(政府・文部省、東大当局の意を受けた処分の代行)をもった違法な起訴である。(二)根拠なき勾留延長、12・26で逮捕、11.7で起訴という別件逮捕等の違法な逮捕・勾留手続きにもとづく起訴であるという理由で公訴棄却を申請した。しかし裁判所はそれを却下して来た。ここに至って、裁判所は政治的弾圧の一端を担う役割を持つことがはっきりする。この制度は現在ほとんど実効していない。すなわち、裁判所は本裁判に限らず、弾圧者として機能することに甘んじていると考えられないであろうか。我々は一連の司法の反動化の波が我々にも及んでいることを見きわめることができる。
このように我々は文闘争裁判を実際に闘う中から、現在の裁判制度そのものの持つ政治的反動的側面を次第に見抜いて来た。我々は何よりもまず、M君の無罪をかちとらねばならない。しかしそれと同時に、裁判そのものへの視点を深くし、これを打ママってゆく闘いであることをしっかり確認しよう。

3. 文闘争―反百年闘争と裁判
最後に、学内の闘争が裁判になるとは何なのかを見ておきたい。反百年闘争はそもそも、我々を含む東大百年の歴史と現状を批判的にとらえなおそうとするものであり、その中で現在の矛盾に目をつぶって研究に埋没する教官、体制の管理者たる当局に対して突き付けを行なって来た。しかし、それに対する答えは刑事事件化による弾圧であった。気に食わない学生はパージし、処分し、自らの研究を守るために国家―資本主義社会の利害に迎合する管理体制を容認してもよいのか。我々の批判をまた批判し、反論する態度もあり得たはずである。しかし、今道ら教授会・当局の姿勢は、一貫して居直りと弾圧であった。そして自らの手にあまるとみるや、その「裁き」をもっと「上」の裁判にゆだねてきたのである。それはまさに政府直轄の「官立大学」たる東大の内実を露呈している。そして裁判所はその役割を忠実に受けついだのである。我々は裁判を闘いつつ我々の反百年闘争の思想を深め、このような教授会・当局の姿勢を糾弾していかなければならない。東大製といってもオーバーではない裁判所やその反動性と闘う裁判闘争は、東大の百年を糾弾する学内の闘いの中にしっかりと位置づけられるのである。

第二章 経過と総括 

第一章において、この裁判が仕組まれた政治的弾圧であることを確認した。ここでは、現在(80年1月)まで6回を数えた公判の過程を追うことにより、我々の2.14弾圧完全粉砕への闘いの軌跡を示していきたい。
<〔79年〕5・15 第一回公判 >検察の起訴状朗読及び証拠申請、被告M君・弁護人の意見陳述
「傷害」の存否に関し、最も重要な証拠申請である「診断書」と「カルテ」が弁護側に不同意されると、検察側は「診断書」と〔78年〕11月8日、30日以外の「カルテ」を撤回した。つまり「傷害」を立証する「物証」は今道の訴えをうのみにした「カルテ」だけになったのである。
意見陳述においてM君は反百年闘争の正当性と大学当局の弾圧姿勢、それを支える政府-文部省の動向を述べた。また弁護人は公訴権濫用を指摘し、公訴棄却の申し立てを行なった。

※ 5・19M君保釈奪還、5・22学生大会 〔79年〕5月19日、70日間の勾留の末、獄中闘争を貫徹した学友の保釈をかちとった。また22日文学部学生大会においては、2.14弾圧完全粉砕の救対部提案が圧倒的な可決を見た。その提案内容は(一)公判への結集、(二)裁判闘争についての学習会、シンポ〔ジウム〕開催、(三)向坊総長、文〔学部〕教授会の無罪上申獲得であった。(また、2.14弾圧の一方の柱である文ホールロック〔アウト〕については、自主管理運営委員会の設立決議と同執行委員の選出が行なわれた。

<7・12 第二回公判 >”今道が来りてほらを吹く”=検察側証人今道証言
検察側立証は、「カルテ」以外、今道ただ一人に対する証人尋問ですべてであり、さらにその尋問でさえたったの30分で終わらせてしまったのである。何とお粗末な立証であろうか。その内容も〔78年〕11月7日「事実関係」に終始し、今道はただ「痛かった」と巨体をゆすってお涙頂戴とばかりとぼければいいだけ。処分問題など最後に一言触れただけだった。
しかし、弁護側反対尋問において、今道の証言のいいかげんさは次々と明らかになっていった。現場付近の図に正確な位置を最後まで示せず、人数の確定・人間の特定は「覚えていない」の一点ばりでありながら、現場に全然いなかった学友を「居た」と断言さえした。そしてしまいには「覚えていないが記憶している」等の謎言をはき、裁判官さえ苦笑させる始末だった。それは12・26逮捕と同様、弾圧がための証言であり、何が何でも有罪にしたいという企みのあらわれだった。
また後の弁護側証人の証言に真っ向から対立するものとして、
(一)現場にS君が居た。(二)11・7当日、〔今道の乗った〕公用車は三四郎池側からアーケードに入った。(三)トラブルの後、事務長室へ行った。(四)痛くて階段の上り下り等に杖は欠かせなかった
と証言した。以後の公判では、この今道証言のいい加減さ、うそ加減を明らかにし、11・7当日「傷害事実」が全くありもしなかったことが立証されていく。
さらに弁護側が逮捕事情、背景立証に至ろうとすると裁判長が時間切れをたてに尋問を打ち切り、再度の尋問要求も拒否したことを弾劾せねばならない。

  ※ 公判前7月6日には「裁判を暴く」シンポジウムを東大裁判闘争自立社の田尾陽一氏を招いて開いた。ここで裁判所に対する批判の視点が再確認された。また、卒業生との連帯、法〔学部学生〕有志を始めとする全学的裁判闘争の陣型ママが整えられつつあった。

< 9・13 第3回公判 >弁護側冒頭陳述、証拠調請求
夏休み中に作成された冒頭陳述書は
「 序章 反百年闘争の論理と意義
  第1章 反百年募金阻止闘争の高揚と展開
  第2章 9・22火災以降の諸弾圧と処分策動の挫折
  第3章 2・14弾圧ー刑事事件化による攻撃
  第4章 本件公訴事実の不存在
  第5章 本件逮捕及び起訴の不当性           」
からなる全90頁に及ぶ力作だった。この日は、冒陳朗読は第2章まで行われ、残りは次回にまわされた。承認申請も27人を数えた。
また第3回公判に先だって、公訴棄却申立書が提出された。
この膨大な冒陳のつきつけの意義は大きく、その後証人を次々とかちとる力ともなった。そのうちでも第7回公判(80・1・7)に今道をふたたび引きずり出してきたことは、大きな成果として確認できるだろう。しかし一方で、公判の内容が冒陳の第4章「事実の存否」に限られていて、討論要求の正当性、文闘争の論理とそれに敵対する今道の不当性を十分に主張しきれていないことも、現時点(80年1月)においての不十分さとして確認しておこう。

< 10・26 第4回公判 >冒陳朗読に続きM2、S2君証言
11・7当日現場に居合わせた2人の学友の証言から、今道の証言のデタラメさが再確認された。すなわち
(一)二人ともM君が「殴った」どころか腕の動いたことすら見ていず、また今道もいつもと変った様子は全くなかった。(二)今道の乗った公用車の入ってきたのは今道証言では三四郎池側からとなっているが、銀杏並木側からだった。(三)今道は事務長室に逃亡していったのではなく、大声でののしりながら二階へと上がっていった。(四)S君は現場にいた事実は全然ない
等の証言があった。
また闘争キャンプ等に関する証言で、闘争の正当性と今道の弾圧の不当性があらためて浮き彫りにされた。しかし裁判長はこの背景立証たる闘争キャンプ関係の尋問を打ち切ってきた。

※ 10月23日文・学生大会では、団交実呼びかけによる16日間のハンスト闘争を受け、文ホール解放・自主管理に向けた10日間のストライキ提案が圧倒的に可決された。

< 11・8 第5回公判 >”カルテは嘘をついている”、”杖をつけばより痛い” 弁護側証人保健センター所長佐々木智也、同助手沢井広量証言
この日は、傷害デッチ上げ唯一の「物証」たる「カルテ」のいい加減さが暴露された。まず、佐々木が11月8日、30日の診察を中心に、次に沢井が7・7団交前後や11月10日、14日、1月8日の心臓病について尋問された。
佐々木は11・7「傷害事件」後、8日に今道を診察し、30日に至って診断書を作成した人物だが、7・7団交の際、今道を診察してその〔団交からの〕逃亡を助け、東大闘争のさ中には大河内総長(当時)の団交逃亡に一役かったという名うてのワルである。それで前もって相当練ってきたらしく、証言はつじつま合わせに終始した。弁護人に追いつめられると医学用語を駆使することで巧みに言い逃れようとし、ついに言葉につまると裁判長が助け舟を出すありさまだった。
しかし、いかにつじつまあわせをしようとも、他の証言との対比から、また医師としてのあり方からそのウソは破綻する。第一に「痛む」という部位が弁護人の追求ママにより二転三転する。そもそも「痛い」というのも今道の主訴のみによってカルテに記載されたのであり、その部位の形状も記されていない。外見上の所見では「事件」翌日の時点でさえ何の異常もなかったというのだ。第二に、その圧痛も、心電図に異常が出ているのを認めながら、持病の心臓病によるのか、外力によるのか、はっきりさせていない。いやむしろ佐々木は沢井に心臓病の詳しい診察を依頼しているのだ。第三、それなのに外力によるとの断定もできず外見上何も異状ないのに、今道に依頼されたから、30日に診断書を書いたのである。また8日には薬を出さず、後になって、直接会うこともなく電話での本人の依頼だけによって心臓病の薬から湿布薬パテックスまで出すというお粗末さだった。
また今道に会ったのは78年夏が初めてでしかも一回だけという。だが、それらの証言は後に証言台に立った沢井にもはっきり否定された。(一)すでに、反募金団交のうちから今道と佐々木はしばしば連絡をとりあっており、また団交の都度〔佐々木は〕待機していたのだった。そして沢井は(二)11月10日の時点で今道から外傷を受けたという話しは聞いていない。(三)さらに、今道が気分が悪いという時、持病の心臓病の症状と考えるのが「医師としての常識」と証言した。(四)また、外傷には気がつかず本人が痛いというから軽い症状のときのパテックスを与えた、ということだった。
そして検察側に、今道が階段の上り下りに大変で「痛くて痛くて」杖をつかねばならないほどだったと証言していたと尋問されると、佐々木は前鋸筋は階段の上り下りに影響はなく、またそれは肩甲骨とつながっているので、杖はかえって痛みを増すだけだと、ボロを出した。これには法定中笑いの渦となった。専門用語と権威の駆使により、デッチ上げ弾圧に加担する佐々木のような輩もまた、徹底的に糾弾、追及していかなければならないだろう。
他方、この公判では他の公判を理由とした警備によって傍聴に来た学友が入構拒否されたり、持ち物検査されたりの過剰な警備にあい、また被告人抜きで開廷されたりしている。ここにも反動化する司法の姿をはっきり見てとることができる。

< 12・6 第6回公判 >弁護側証人、文学部中村事務長、柏原事務長補佐、松原学生掛長証言 ”暴行の事実は存在しない”
11・7当日現場にいた3人の証人は(一)ごく近くで見ていたにもかかわらず、M君が今道に「暴力」をはたらいたことなど全く目にしていないと証言した。第4回公判での2名の学友の証言とあわせて考えると、これは11・7の現場にいた誰一人として「傷害」の事実を見た者がないことを意味する。11・7「傷害」が今道によるデッチ上げであることはますます明らかになった。また(二)当時の学生が討論要求の過程で、殴る、蹴るといったことは決してなかったし、その日も特別な変化はなかった。(3)今道は表情も変えず、いつもの通り平気な顔で大声でののしりながらスタスタ階段を登っていった。(4)後にあらためて現場にいた者を集めて事情を聴く必要がある、あるいは手当をしたりするような異常な事態であるとは思わなかった。(5)今道が「やられた」と言ったけれども何を「やられた」のか見当がつかなかった
等の証言を得ることができた。
しかし、またもや裁判長は、11・8告示の作成過程や12・26「暴行事件」に関する尋問に対し、何の説得的な説明も加えずに、本件の範囲外として認めようとしなかったのである。弁護人、傍聴人の強い抗議の前に、結局それを認めざるを得なくなったものの、このような吉岡裁判長の不当な訴訟指揮を断固糾弾しておかねばならない。

以上、公判の過程を要点だけ述べたのであるが、冒頭陳述と第4回~第6回公判での証言は今道のデッチ上げを明かにし、さらに今道の再尋問を勝ち取ってきた。次回第7回公判では、ゆらいでいる今道証言を徹底的に○○〔読めず。破産か?〕させねばならない。またこれまでの公判においては、一定「事実の存否」を巡った次元でしか展開されていないことを踏まえ、再度の今道尋問においては、背景立証、今道の弾圧の不当性、闘争の正当性を立証していかねばならない。そして2.14弾圧以降、5・22、10・23の二度の学生大会で決議された無罪上申要求の具体化や学習会、シンポジウムなどによる深化・共有化なども追求していかなければならない。
文ホールを、ストライキー公開交渉により奪還した現在、2.14弾圧完全粉砕、文ホール完全解放、3.27体制―新処分制度制定策動完全粉砕へ向け、80年夏にも、地裁判決が予想される文闘争裁判勝利―M君無罪奪還の闘いを再度強固に構築していこうではないか。

第三章 文闘争裁判勝利の展望

<2.14弾圧後の文闘争>
昨年度文学部学友会は、2.14弾圧以降春休み中という困難な情況にもかかわらず、連続的な評議会追及闘争を貫徹し、今道の最後の野望=処分発動の阻止を克ちとっていった。
と同時に学生大会での再度にわたる今道退陣要求決議と、文学部学生の半数近くにのぼる署名を力に、ついに今道を学部長の座からひきずりおろしたのである。
2.14弾圧以来一方的にロックアウトがつづけられていた文ホールについても、ハンスト闘争や強力なスト体制を背景に教授会に話合いを要求し、彼らを公開交渉の場に引きずり出し、文ホール開放を克ちとってきたのである。
今道の退陣、文ホールの解放ママという昨年の成果は、今道が学部長就任以来路線化してきた話合い拒否・強権的弾圧の姿勢を一定改めさせたものとして、大きく評価されねばならない。この話合い拒否・強権的弾圧路線の頂点に位置したのが今道の学生処分策動であり、そして全学の処分反対の世論の高まりの前に処分強行が困難となるや、それにかわるものとして闘争弾圧の手だてとしたものこそ、「傷害」をデッチ上げ刑事事件化することだった。従って、教授会との話し合いの結果、文ホール奪還をなしとげたということは、2.14弾圧に至る文・教授会の基本姿勢そのものに対して、端緒的ではあれ、その自己批判をを克ちとってきたということである。

<文闘争裁判の課題と展望>
現在文闘争裁判として闘われているこの裁判闘争は、今道の話合い拒否・強権的弾圧路線を継承する「最後」の砦を掃討する闘いである。今や我々は、この裁判闘争に勝利すること、否、裁判自体を完全に粉砕することにより、2.14弾圧完全粉砕の地平を獲得していかねばならない。
我々はまず、裁判そのものの中で「傷害」がデッチ上げであることを(それはこれまでの公判において暴露してきたが)さらに明らかにしていかねばならない。そのためには曖昧というよりはむしろデタラメな「診断」をつじつまをあわせることによって今道を援護せんとする保健センター所長佐々木の政治的証言を―医学的にも厳密に―粉砕していくことも必要であろう。またそれにもまして、かつそのデッチ上げ暴露を足場として、文闘争及び(当時の)今道への話合い要求の正当性の立証を克ちとらねばならない。こうして法的にも、本件公訴事実の不存在を完全に実証し、本件立件の政治性、すなわち闘争圧殺のための逮捕・起訴であったことを明らかにしていくことが、法廷の場における課題である。
だがこの裁判闘争は、単に「無罪」判決を獲得するだけでは不十分である。即ち、前述の如く、「傷害」デッチ上げ―刑事事件化は今道の路線の帰結だったに過ぎないのである。我々は、この今道に追随しこの弾圧を追認してきた文・教授会に対して明確な自己批判を表明させねばならないし、この2.14弾圧も含む管理強化攻撃総体を撃っていかなければならない。これこそ我々が法廷外において担うべき課題である。
これら法廷外で闘われる裁判闘争の中ではまず第一に、東京地裁刑事13部(文闘争裁判担当)に対する「無罪」要求署名への結集を呼びかける。文学部学友会委員会・同団交実・同救対部呼びかけのこの署名は裁判そのものに我々が介入していくこととして、法廷内外の闘いを結びつけるものとして機能する。この署名に圧倒的に結集し、裁判所を包囲していくことを、全文学部生に、全学の学生・労働者に呼びかける。
また二度の学生大会や学友会委員会の決議を踏まえ、文・教授会に対して地裁への被告の無罪上申を克ち取るべく、2.14弾圧の明確な自己批判を迫っていこう。
他方、学習会・シンポ〔ジウム〕等による裁判闘争の深化・共有化と、各公判への結集もまた、より拡大していかねばならない。
<文闘争裁判勝利―2.14弾圧粉砕から全学的管理強化粉砕へ>

我々は2.14弾圧を全学的管理強化攻撃の頂点として位置づけてきた。事実、装いを新たにした管理強化を告げた3.27総長声明は、今道の行なってきた処分攻撃等一連の弾圧、とりわけ2.14弾圧を大きな基盤とする声明であった。そしてこの3.27管理強化路線の二本の柱は、78年8月31日評議会で決定された「東京大学所属国有財産取扱規程」(注)(占拠への対処だ!)と、80年末を目標に制定されんとする新処分制度(闘うもの=異分子のパージだ!)である。
この管理強化が政府-文部省の78年4・20通達(建物管理強化、学生・職員の規律保持、警察の捜査への協力etc. )の実質化であることは言を俟たない。そしてこの二本の柱は、文ホール・ロックアウトと(挫折した処分に替わる実質的処分としての)刑事事件化としてあった2.14弾圧にぴったりと重なっている。まさに2.14弾圧とは3.27管理強化路線を補充し、かつその路線に組み入れられたものであることは明らかである。
この全学的管理強化攻撃は、教育〔学部〕、農学部ににおける二学友に対する日本育英会奨学金の政治的「停止」処分として現れている。また駒場での「サークル共用施設」に対する当局管理策動、五月祭教室使用制限-念書攻撃、法〔学部〕演習室の使用制限等々として現れている。そしてそれらの集約点としてかつ80年代再編合理化に向けた予防弾圧として新処分制度制定策動がある。
こうして2.14弾圧完全粉砕の闘いとは、すなわちこの全学的管理強化の基盤を突き崩し、その攻撃を打ち破って〔いく〕闘いの一環である。文闘争裁判勝利―2.14弾圧粉砕なくして全学的管理強化粉砕なく、全学的管理強化粉砕なくして2.14弾圧の真の粉砕―文闘争裁判の真の勝利もまたないことをはっきり確認しよう! 
                               80・1・10

(注)「東京大学所属国有財産取扱規程」とは78年8月31日評議会において制定されたものである。とりわけ第5条において ” 国有財産の用途等の阻害に対する措置及び報告 ” として「不法占拠」等(のおそれも)ある場合に「すみやかに、必要な措置を講ずる」と定めている。それは政府-文部省の78・4・20通達を実質化するものである。78年8月23日、今道(当時文学部長)が8.31までに坐り込み闘争をやめろと恫喝し、9月1日からこの坐り込み闘争を「占拠」と呼び始めたことを想起せよ! 

〔須藤による注〕我々文有志は当時、話合いを要求して文学部長室に坐り込みを行なっていた。話合い拒否・弾圧路線をとっていた今道は学部長に就任以来学部長室に来ようとしなかったが、8月23日突如姿を現わし「傷つかないうちに出ていけ」と恫喝した。おそらく彼は8月31日の評議会で「東京大学所属国有財産取扱規程」が決まる予定であることを知り、これが彼の弾圧路線に役立つと踏んで、23日の行動に及んだということはまず間違いない。
しかしこの「規定」があるからといって話合いを要求する坐り込みが直ちに「国有財産等の阻害」を意味するわけではないことも明らかである。今道と文教授会が10・26「文学部募金非協力確認」空洞化/破棄について「募金非協力」を求める学生たちと話し合いを行なえば、坐り込みがなされている学部長室と会議室は話合いの場として「正常な使用」がなされるのであり、(不法)占拠も「国有財産の用途の阻害」も何ら生じない。今道が坐り込みを9月1日から不法占拠と呼び始めたとしても、それは客観的に、正当なことだったのではなく、話合いを拒否し弾圧したいという彼の主観的な姿勢に基く、「規定」の悪用だったのだ。同じころ医学部長・病院長は、赤レンガ精神科病棟の自主管理を続けていた精医連(精神科医師連合)の医師たちと話し合いを行なっていた。そして総長は病院では話合いが行われていて問題はないが、文学部では学部長が占拠とみなすことにしたというのでそれに従ったという主旨の発言を行なっている。詳しくは近刊予定の『第二、第三の東大闘争―臨職闘争と反百年祭闘争 』〔仮〕「第4章 79年3月27日の「総長声明」=文学部処分の断念、その批判」を参照。

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