前書き Preface

 2023.2.14 第二ステージ・第四部「東大百年祭闘争 」を上掲するに当たっての前書き

昨年7月「「前書への追加」への追加?」<私の釣りの終わり>」22/7/'22を書いたときに「私の第三ステージ」には、週1回か2回の近所の低山の山歩き以外書くことはなくなったと思った。2016年3月にHPを最初に立ち上げたときには、第三ステージについて、それも「釣り」についてしか書こうと思っていなかった。<釣りの終わり>という「前書」は、HPの「後書き」としてもよかった。
私はその第三ステージの第三部「考える」第5章「釣りの回想」で、開高健が言っていたarmchair fishermanという言葉を使って、体が弱って釣りができなくなったあとでも、armchair fishermanとして釣りを楽しむことができる、と書いた。

「体が不自由になったときに---には、ベッドの中であるいは安楽イスに腰をかけ、のんびりと音楽を聴いて楽しむのもいいかもしれない。ビデオでドラマを見るのもいいかもしれない。いや、それよりも、自分が書いた日記や回想文を読もう。日記や回想文を読むことによって過去の釣りを思い起こし、再度、釣りを楽しむのだ。安楽イスに腰掛けたまま、あるいはベッドに横たわったままで、ときどきウトウトしながら、もう一度「釣りをする」のだ。
かつて釣りをして楽しんだ私は、どんなに体が不自由になり、どんなに酒や食事が制限され------ていたとしても、過去を回想することができる限り、楽しかった釣りを思い起こし、幸福な時間を持つことができる。」

だが昨年5月の段階では、「後期高齢者」になってはいたが、まだ、安楽椅子にもたれて自分の書いたHPの釣りの記事を(スマホでは読みにくいからタブレット端末を買って?)読んで、自分の釣りを回想して楽しむ、というほど年老いたとは感じられなかった。

そして、私の回想は第三ステージの一つ前の第二ステージに向かった。第二ステージは、私の区分では高校を卒業してから、仕事につき退職するまでの時期であり、私は、「迷い・闘い・働き・子供を育て」た。そしてその中で最も重要な出来事は東大の百年祭に反対する闘争の経験だと思う。

東大百年祭とは、1977年4月に東大開学百年を祝う記念式典を行い、開学以来輩出してきた「優れた人材」、「輝かしい研究業績」(「募金趣意書」)を宣伝することによって、百億円の募金(その6割を企業)を行い記念建造物を建てまた研究資金にあてるというものである。
東大が1877(明治10)年の開学以来、近代国家日本において様々に大きな役割を果たしてきたことは確かだと思われる。しかし、東大は多くの官僚と技術者を輩出することで、日本が軍国主義を志向し、アジア諸国の侵略の戦争へとつきすすんだ点でも指導的役割をはたしてきたのではなかったか。敗戦後はベトナム戦争で米国の北爆を支持するなど、米国の帝国主義的世界戦略に進んで加担し、国内的には司法の反動化を進め治安を強化し、産業優先のもと、公害を隠蔽し多くの被害者をうみだすのに中心的役割を果たした、多くの政治家、官僚、裁判官、学者を生み出してきたのではなかったか。百年祭-百年記念事業はこうした負の側面の反省もなしに、政財界ー支配層にむけて業績を誇り、好き勝手な研究をやるために金を集めようとすることではないのか。

安保闘争の高まりを経て学生運動をおさえる必要を感じた自民党政府と大学のボス教授たちは、大学当局自らの手で学生の自治活動を抑えるという協定を結んだ。これが、当時東大の学長茅誠司が会長を務める国立大学協会の「自主規制路線」と呼ばれる学生管理の方法だった。学生をもっぱら「教育を受ける存在」と規定し、大学の教育・研究のありかたを決めるのは教官(教授会)であり、学生の活動は「大学の機能の遂行に妨げのない限り」で認める。
大学の管理・運営のやり方を決めるのは、政府・文部省ではなく、「教授会・評議会」であるということが「大学の自治」だとされており、大学とは教官・研究者が教育と研究を行う機関であり、学生のストライキなど「大学機能の遂行に妨げとなる行為」は、学部教授会が厳しく処分することで秩序を保つ。国大協自主規制路線とは教授会の独裁体制であった。
東大闘争はこうした体制の下で、自治活動を抑圧すべく学生活動家に加えられた不当な処分の撤回を要求する運動/闘争であった。

学生処分の撤回を求めて安田講堂を占拠していた学生たちに「血の大弾圧」をくわえることによって「紛争を収拾」したのは総長加藤一郎と彼を掣肘して弾圧路線を勧めた文学長林健太郎(率いる文学部教授会)であり、林は加藤の跡を継ぎ73年に総長になった。 百年祭の計画は東大闘争で中断されていたが。職員・労働者、学生・院生の声を一切聴くことなく、75年3月、林総長下の評議会によって、再スタートが決定された。

私たちはこの百年祭の記念式典や企業募金の中止を求めて闘った。その報告が以下の第二ステージ第四部第1章から4章である。(第二ステージは全部で五部からなる。その第一部から第三部は今準備中であり、第五部もできれば書きたいと思っている。) この百年祭闘争では79年2月14日、自治会の委員長S君とハンスト中の活動家学生のM君、そして大学院の博士課程にいた私が大学構内で逮捕される弾圧「2.14弾圧」があり、M君は学部長に対する暴行傷害というデッチ上げ事件で起訴された。

私が持っていたこの裁判の『冒頭陳述書』はホチキスが錆び、紙の傷みが進んできたため、4年前に、PCに打ち込んでCD化して、M君、二人の弁護士、仲間の何人かに送った。他にも、闘争に関連したパンフレット類を(紙の)フォルダにとじて持っていたが、開くとパンフレットの表紙がポロポロと崩れて落ち、折り曲げられた個所ではわら半紙が破けて、字が読めない。このままでは全てダメになる。数年間ではあったが若者が自分の進学や就職をかけ、つまり、人生を賭けて(自殺者もでた)取り組んだ活動の記録が時の流れの中で消えてしまうのは残念だと私は思った。

そこで昨秋、『冒陳』同様、PCに打ち込み、電子化して、残そうと考えた。
最近はスマホでもスキャンできるらしいがパンフレットは活字印刷の「学友会常任委員会報告」(資料A-5)一つを除き、文字はすべて手書きであった。やすり盤上においた原紙を鉄筆で切って文字を書く70年代初めくらいまでのガリ版より少し進んだ方法で、上質紙に細いペンで文字を書いて輪転機にかけるやり方で印刷したが、やはり手書きの文字で、スキャナーでは読めるかどうか怪しいと思った。

『冒陳』は活字で印刷されていた。4年前の打ち込み時には、音声を文字に変換するPCのアプリを使ってやってみたが、語彙が十分でなく、変換ミスが多いため、文字の書き直しに手間がかかり、結局自分で読みながら打ち込む方が早かった。
改善されているのだろうが、試すのも面倒で、結局、手で打ち込むことにした。確かに手間はかかり、別の資料で同じ問題を繰り返し扱っている場合には省略したものも少しあり、印刷が悪く文字が全く消えていたりかすれていて読めない箇所もあった。しかし、文章のスタイルで書いた人物の顔が浮かんでくるものもあった。誰が書いたかわからないが、学年も年齢もずっと下なのに、私よりもはるかによく情勢や理論を知っていたことがわかる文もあり、感心させられるものもあった。書き写すことが目的なのだが読むことが楽しかった。

そういう次第で、資料として今回、全部で10種類ほどの資料をすべて手でPCに打ち込んだ。本文の第1章から第4章までは、それら資料を参考にし、私の考えを付け加えながら書いた、3年ほどに渡る闘争経過の報告である。
第4章はM君裁判の控訴審判決のデタラメさを知ってもらいたく書いた判決批判であるが、もちろん、遠藤直哉、今村俊一、二人の弁護士によりかかれた「控訴審趣意書」の丁寧な議論なしには書けなかった。
裁判に関する当時の私の記憶がほとんどなくなっていて、(闘争が続いていた学内の現場での活動に私が追われていたという面も多少あったが)救対活動をほとんどやらなかったのではないかという気がし、M君にすまなかったという思いがあったが、控訴趣意書、判決文などを送ってもらい、コピーをとった際に、改めて聞いてみると、救対活動もやっていたということもわかり、少し安心することができたたことも、今回の作業をやってよかったと思えることの一つ(大きな一つ)である。

この第二ステージ第四部の掲載予定のファイルの用意ができたとはいえ、リンク付けや誤変換のチェックなどやるべきことはまだあり、上掲していても「試運転」中なのだが、気が付いたら、明日はバレンタインデー、つまり2月14日であり、我々の百年祭闘争における大きな事件「2.14弾圧」が加えられた日である。そこで、トップページの「更新履歴」では2023年2月14日を第二ステージ・第四部「東大百年祭闘争 」の上掲日とした。
なお、今回のトップページの模様替えなどについては、最初にHPを上掲するにあたって(「謝辞」に書いているようにそもそも「釣り日記」のファイル化のときから)お世話になった森川孝允(たかよし)さんに、また、お世話になった。感謝したい。

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2022.7.22 「「前書きへの追加」への追加?」<私の釣りの終わり>

2021.7.22「前書きへの追加」では、書き忘れていたことがある。それは去年2021年の3月、私の釣りの拠点だった愛南町家串の家を譲渡したことについてである。

そして、「前書きへの追加」を書いたあとでのことであったが、私は船も手放した。あちこち傷んでいるが、まだ乗れるから、と地元の親しい人に引き取ってもらった。 家と船を手放すことにより、私の愛南町を拠点とした私の釣り、「私の第三ステージ」は終わった。

このことを書いておかねばならない、そう思ってファイルを開けてみたら、まったくの偶然だが、前に書いた「追加」の1年後に当たっていた。

このホームページを最初に掲載した2016年の夏には、第一部は家串港から出て「釣る」こと、第二部は家串で釣りをしながら「暮らす」こと、第三部は釣りについて「考える」ことを内容としており、「四国の漁村で船釣りを楽しむ―私の第三ステージ」をタイトルとしていた。

その後、2018年頃から始めた山歩き/山登りについての報告を追加して、2020年の夏に第四部としてアップロードした。
この時、HPのタイトルを現在の「四国の漁村で船釣りを楽しむ―私の第三ステージ そして今山へ」に変えた。また「考古学散歩」(第五部)も加えた。
これらの変更について、昨年2021年7月の「前書きへの追加」で書いた。

ここでは、この「前書きへの追加」で書き忘れたこと、そこで触れてなかったことについて書きたい。

私は2006年に、住民票を松山から愛南町に移して家串に住み始め、自治会費を納めて、家串で生活していた。(ただし、松山と家串に世帯を分けると国民健康保険料が高くなってしまうため、住民票は2年か3年で松山に戻したが。)
毎日毎日、漁師同様に、暗いうちに海に出て釣りをし、昼に家に戻って昼食をとって昼寝をし、買い物や洗濯などの用を足し、それから再び暗くなるまで海に出た。→第一部「釣り」参照
自治会の例会への出席、草刈りはもちろん、盆踊りの準備作業、10年に一度回ってくる宮当番の仕事など、住民と全く同じようにおこなった。→ 第二部「暮らし」第三章「家串の年中行事」参照

2006年から2010年頃までは、年に数回松山に戻るだけで、ほとんどは家串で暮らしていた。
2010年から2016年頃には、家串と松山の生活はほぼ半々であった。

2017年は家串行きは月1回程度だったが、一回の滞在日数は短くて3日、長ければ1週間程度だった。

2017年秋に、終活として訪れた故郷の新潟で、小学校時代からの同級生の案内で弥彦山に登ったのをきっかけに、私は山に行きだし、釣りに行く回数と家串での滞在日数がそれ以前より大幅に減った。
しかし釣りへの興味を失ったたわけではなく、2018年にはほぼ毎月1回、2~3日の釣りに出掛けた。南アルプスの北岳―間ノ岳縦走をし、富士山より高い台湾第二の山、雪山(シュエシャン)に登った2019年には、釣行回数が減って、隔月の計6回にとどまった。

私は車を持たず運転もしないので、松山‐家串間の移動にはバスを利用していた。乗車時間は3時間。乗り換えなしで由良半島の入口まで行けて便利だった。

ところが2020年になると新型コロナウィルス感染症が流行り出した。3時間のバス旅行は感染リスクが高いと思われ、釣行を控えることにした。(北アルプス槍ヶ岳、北海道の旭岳などに登る計画もあったが、途中の長旅と満員の山小屋での宿泊を考え、あきらめた。)

2017年頃から、私が家串に滞在している日数が減ったのを知ったMさんが、家を譲らないかと言ってきた。隣りの平碆の住人で、海外で仕事をしていた兄弟が退職後は日本に戻って暮らしたいと言っており、近くに家が欲しい。すぐでなくてもよい、5年くらい先ではどうか、というのであった。
私は72になっており、いつまでも釣りを続けられるわけではないと思っていた。特に船の管理は骨が折れた。→第一部「釣り」第7章「舟の維持管理に伴う苦労」参照。

あと何年やれるだろうかなどと思い始めていたところだった。また、同じころ私が買い取って使っていた「屋形」(筏上の作業小屋)の船の係留装置(ロープ+アンカーなど)が具合悪くなり、屋形の使用をやめ、船を波止に係留することにした。その屋形の解体・処分は自分でやるのは無理で、慣れた人に頼む必要があった。家を譲らないかと言ってきたMさんは本業は大工で建物の解体工事なども請け負っていた。
彼の提案は、家を30万円で買う。5、6年先に明け渡すということでどうか。屋形の解体処分もやってくれる、という。私はOKした。

約束を交わしたのは2018年1月のことで、私は山歩き/山登りをやりながら、月一回2~3日の釣りを、当分楽しむつもりだった。

だが、2020年になると、新型コロナ感染症が流行し始めた。
<「前書きへの追加」 2021.7.22 >で書いたように、本州のアルプスや台湾の高い山に登る計画がとん挫したのと同様、愛南町までバスで通う釣りも控え、「巣ごもり」せざるを得なくなった。
家串にいったのは4月、5月、10月の3回で、5月の家串行きは「小型船舶検査機構」による船検を受けるためだった。もちろん行ったからには釣りもしたが。

愛南町の家にはあと3年ほど住むことができたが、その間に、コロナが終息し、釣りに通えるようになるとは思われなかった。また、家は閉めたままにしておくことはできず、時々は風を通してやらねばならない。北條さんの奥さんに頼み、月に1回程度窓を開けて風を通してもらうようお願いしたが。

こうして、私は2021年春、司法書士に依頼して、Mさんとの間に、正式に家の譲渡契約を交わした。

一方、船についてはしばらく家串に置いておくことも考えた。船があれば、前夜、宇和島のホテルに泊まるなどして、釣りをすることができるからである。

船も動かさずに係留しておけばエンジンがダメになってしまう。そこで、毎月来れなくなってからは、月に1回エンジンをかけてもらうよう、源さん(前田源一氏)に頼んであった。

しかしコロナ終息の見通しが全くないまま船をもっていてもしようがないと思い、船も手放すことにした。まだ乗れるので、業者に買い取ってもらうことも考えたが、それよりも、地元の親しい人がもらってくれるならそのほうがいいと考えた。Kさんがもらってくれるという。船も譲渡するための手続きがあるが、私は彼が送ってきた書類に判を押すだけで、それ以外の手続きははすべてKさんがやってくれた。

そういう次第で、私は、2022年には愛南町家串に持っていた家と船を手放した。私は、払暁とともに船を出し、潮を見てアンカーを打ち、仕掛けを入れて当たりを待つ、「私の釣り」はできなくなった。
釣りはもちろん、愛南町まで行かなくてもできる。自分の船がなくても、乗合船に乗って釣りをすることはできる。船に乗らなくても自転車で30分ほど走れば防波堤で釣りはできる。そうした可能性もなくはない。
しかし、私の「第三ステージ」とほぼ同じであった漁村での暮らしと私の釣りが終わったことは確かである。

以上はHPの「前書きへの追加」でなく、むしろ「後書き」とすべきかもしれないが。

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2021.7.22 「前書きへの追加」<山にも行く>

2016年に、HPを立ち上げ、退職後の10年間の暮らしを書いたエッセーを掲載したが、そのHP作成過程で私は自分の「終わり」が近づきつつあることをはっきりと意識し、私が生まれ育ち、小学校1年の6月まで暮らしていた、新潟の「生家」の跡を見に行きたくなった。つまり「ルーツ」に行ってみたくなった。人生の終わりの時期になって自己の根っこを確かめる活動は終活であろう。

2017年10月、生まれ故郷の新潟に行き、生家跡を訪ねた。その際、登山家で地元のボランティア・ガイドを務めている友人の堀川大輔氏に案内を頼み、小学校の時の遠足で登ったはずの弥彦山に登った。

私は還暦を機に退職し、釣りを始めた。これが私の第三ステージで、第四ステージというものは考えてなかった。「職業を持ち仕事をする」時期である第二ステージと対比して、第三ステージとは、子供の時期・第一ステージに戻り、最終的には動物・植物に返る時期とすれば、第四ステージというものは存在しない。そして、終活は第三ステージ末期の活動である。

郷里の新潟に旅行したのは、「終活」のつもりだった。だが、弥彦山に登ったのがきっかけになって、私はまだ活動する元気があり、海から山へと方向を転換して、もう少し活動する気になっていた。私は「山に登り/山を歩く」新たな楽しみを発見することになった。

こうして2018年夏に富士山に登り、2019年夏には北岳ー間ノ岳を縦走し、秋には台湾の二番目の高峰で、富士山より100m高い雪山(シュエシャン)に登った。2020年には槍ヶ岳と台湾の最高峰玉山(ユイシャン、旧日本名・新高山3952m)に登ろうと考えていた。

だが、この楽しみは翌2020年、年明けから始まった新型コロナ感染症の流行によって挫折させられた。 (すでに1年半経過したが現在でも)コロナの収束は見通せず、山小屋に安心して泊まれるようになるまで、後期高齢者に入って数年たつ私の体力が果たして残っているかどうか怪しい。

とりあえず、巣ごもりのなかで、日記やメモ類をもとに文章にしたのが第四部「山に登る/山を歩く」である。HPの最初のタイトル「エッセー:四国の漁村で船釣りを楽しむ―私の第三ステージ」の後に、「そして今山へ」を付け加えた。

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FC2を利用して掲載し、「リンク」してある。FC2では「山を歩く/山に登る 私の第三ステージ後半」というタイトルになっている。

また、2019年6月に娘と八丈島に旅行し、私は三原山に登ったが、町の民俗資料館で八丈島に7千年前にヒトが存在したことを知って驚いた。考古学に興味を持ち、八丈島に最初に上陸したヒトがどこから、どのようにやってきたのかについて、私の考えを書いた。

同年7月に国立科学博物館の海部陽介チームによる「3万年前の航海の徹底再現」と題する、台湾から日本の先島諸島与那国島への丸木舟実験航海が行われた。海部自身の論文も含め少し調べてみると多くの疑問が浮かんできて、一文を書いた。

これらは、第五部「考古学散歩」としてHPに追加した。

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2016年3月末、HPの上掲に当たっての前書

常識では、人生を、仕事をしている時期とそれ以後という風に2つに分け、退職後の生活を第二の人生、セカンドライフと呼んでいます。この考えによれば、子供の時期は人生の中に含まれないことになります。しかし、私は、子どもの時期を重視し、人生には三つの段階があると考えます。子供のときに私たちは遊びを主とする生活(人生)を送っていました。これが第一の人生です。生まれたときに動物=自然であった人間は、遊びを通じて、少しずつ人間社会に入る=引き入れられます。遊びの延長上に教育があり、教育を受けて、自立した人間として社会の中で生きていく方法を身に付けるのだと考えます。

第二の人生においては、職業を持ち社会のなかで仕事を中心に生きます。そして、第三の人生のなかで、半分子供に帰って、遊び中心の生活を送るのです。この時期、人間は遊びながら、次第に自然に近づきます。やがて、食べ、徘徊するだけの動物となり、さらには、ただ横たわって、息をし、排泄するだけの植物的な存在となり、そして最後は、無機物質になっていくのです。私たちの始まりが、元素や水や土から作られた小さな細胞にあったように、最後に元素に帰っていくのです。
私は少し早く退職し、退職後は年金暮らしをしつつ、半分子供に帰ったつもりで、釣りという遊びを中心にして、生きていこうとしているのですが、今述べたような仕方で自分の一生を概括できるように思います。

この「エッセー」の第一部は私の釣りの経験に基づく釣り随筆です。どうしたらうまく、あるいはたくさん釣れるようになるかを教えるものではありません。私は退職と同時に「教えること」をやめたのです。これは退職以後の自分の「思い出」つまり一種の「自分史」として、自分の楽しみのために書いた「随筆」なのです。何らかの釣りの本だとすれば、どこにでもいる老人がこれまでにやった釣りの思い出話を書いたもので、暇なので寝転んで何か読んでみようと考える人がいればそのような人のために書かれたものです。

第二部では、私が退職後暮らしてきた愛媛県南部の漁村、家串地区とその周辺の自然と文化について、私が行った経験と私が感じたことを書いています。伝統的な文化を残し、時に荒々しい自然に囲まれた漁村を、定年後の移住先として都会の人々に宣伝しようというような考えはありません。定年までサラリーマンをやってきた都会暮らしのひとが漁村で生活するのはそう簡単なことではないと思うからです。しかし、いくつかのハードルをクリアーして田舎で暮らすことができれば、人生を大いに楽しむことができるということもまた事実なのですが。

第三部では、釣りの快楽について、遊びと人生について、幸福について、哲学者や社会学者、文学者などの諸説、考え方、生き方を参考にしながら述べていますが、決して「倫理学書」でも「哲学書」でもありません。しかし、釣りは他の遊びと比べて特別な種類の遊びで、幸福な人生を実現するのに大いに役立つと考え、やや理屈っぽい考察をしてみました。

この「エッセー」は私が今生きている人生の第三段階における個人的な経験のごった煮であり、愛南町家串という小さな海辺の集落で釣りをしながら考えたことの「私的報告」ということになるでしょうか。目次を見て、興味をそそられるところがあれば、パソコン画面で、あるいはスマホをお持ちの方は寝転んででも、読んでみてください。「本」として出版しなかった理由については「開設経緯」の中で書いています。        2016年3月末

第三ステージ・全体の目次へ

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