ゆっくり走ろう 疲れたら歩いていいよ 他人と競争しなくていいよ 


『身体がいのちと脳をはぐくむ』

跡見順子(あとみよりこ)東京大学教授(身体運動科学)
                         2000年12月19日朝日新聞「論壇」より

 運動する子どもが減っている。九月末の「教育改革国民会議」中間答申では、人間性の育成のため、実体験を伴う学習・演劇、スポーツ活動や奉仕活動の重要性が指摘されたが、奉仕の義務化に反発する声も多い。なせ問題が提起され、なぜ反発を受けるのだろうか。IT(情報技術)革命、遺伝子解読、遺伝子組み換えなどの進展と裏腹に、人間が生きている実体、「からだ」の視点が見えない。生きている実感が希薄である。
 ヒトにとって「運動」とは何なのだろうか。私は、身体運動科学の立場から生命の本質は、運動するシステムにあると考えている。そして、生命は繰り返しの刺激に対して適応変化を起こす機構を持つという問題を一貫して追求してきた。適応してしまったことは、もう意識下で自動化してしまい、その結果、「からだ」が重要視されない土壌ができた、と思う。
 しかし、運動することによって、ヒトは身体の快適さ、面白さ、心の切り替えなどを身をもって感じ取ることができる。自分で歩いたり走ったりした道や町はなかなか忘れない。そういったことの重要性を最近、ますます切実に思う。
 脳は、「からだ」の環境との相互作用によりはぐくまれる。「からだ」を介した実体験は、計り知れない意味をもたらす。それによって、さまざまな問題を有機的につなげる主体的な概念が形成できるのではないか、と思う。
 大学院研究室で、生物の身体運動への適応機構を遺伝子や細胞の原理から研究する一方で、大学では、一・ニ年生を対象に「スポーツ・身体運動」の教養教育にも携わっている。昨年秋から「スポーツサイエンスコース」として、運動する自分の「からだ」に動的生命を発見する授業を試みている。
 体育館での授業にニワトリの心筋細胞が入ったシャーレを持ち込む。自動的に動く細胞などを見て、「からだ」の細胞を想像する。そして体を動かし、心拍モニターで運動時の自分の脈拍を自分で見る、走るスピードとの関係をグラフ化する、心臓の自動性と脳による制御を考える。
 学生は、「私の身体はかくも美しい応答をするのか」と感じる。知識として教室で習うのとはまったく異なる理解がここにある。自身の「からだ」のシステマチックな応答機構を実感する。身近な、わが「からだ」で脳を、そして細胞や遺伝子を理解することができる。
 動的な生命の本質を動的にとらえるられる時代である。運動、つまり時間による変化を理解するには、やってみるのがよい。努力や習慣として「からだ」で生活を営んでゆくことは、遺伝子・DNAへの働きかけである。
 「からだ」あるいは「身(み)」とは脳をも含むあるがままの身体である。他人事ではない、自分自身の「からだ」を主体的に実感し、その中の客観的「理(ことわり)」を学ぶ。意識して知識と実体を結ぶ努力があって初めて、両者の間を結ぶネットワークが形成される。
 東洋の風土は禅やヨガを生み「心身一如」のことばをはぐくんできた。日本人はこころとからだは一つである世界観・自然観の中に育ってきた。一歩進めて、脳と生命をつなぐ「からだ」の理解は、自己と他をもつなぐのではないか。
 運動する状態の「からだ」の変化を学習する必要性は、いみじくも学生が発言したように、運動が遂行出来るように私たちの「からだ」がつくられているからだ。客観的に知ることにより、生きていることの素晴らしさや安心感を感じることが出来るようになり、それは生きることへの実感をはぐくむ。
 少子高齢化、子どもの心身の不安定化、生命科学とは無縁の体育・健康科学、スポーツの商業化。いずれの問題にも「からだ」のとらえ方がかかわっている。
 運動と「からだ」を通じて科学に出会い、生命に出会う。自分の「からだ」をみずからの下に取り戻し、みずから育てていくような教育体制をつくりあげることが大切だと思う。

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