原文:『総合人間学部報』(No.27) 2001/2
  
カンニングのすすめ


  夏から秋にかけて、歯科医師国家試験問題の漏洩とか、学内でも教官の論文盗用、きわめつけは埋蔵文化財ならぬ文化財埋蔵と、学界におけるモラルハザードがマスコミを賑わした。

  5、6年前になるが、試験中に左手の下に忍ばせてあった縮小コピーの束をそっと預かったところ、当の学生から 「ガラスを割ったり電子掲示板を壊したりする行為を放任していておいて、このような微罪の取締りにだけやっきになる教官の神経がわからん」 と周りの援護を得ようとてか大声で食ってかかられたことがあった。

  これは初めての体験であったので思わず興奮し、 「ねつ造、改ざん、盗作、盗用、隠ぺい、手抜き、....これ全てカンニングの成れの果て。学問の世界では絶対あってはならないことだ。薬害エイズを見よ。最初の隠ぺいという 『微罪』 がどれだけの人の命を脅かすことになったか」 と、大演説をぶってしまった。

  同席していた学生諸君の反応は 「たかが定期試験のカンニングごときに大仰な」 と、シラッとした空気が流れただけであったが、私は懲りずに今でもこの信念を捨てていない。

  相次いだ事件の中でも宮城県上高森遺跡における旧石器ねつ造は、怒りを通り越して、自己を取り繕わなければならない人間の哀しさを鏡中に見る苦々しさという点でも、カンニングと共通している。この行為がいかに罪深いものとして扱われたか、自浄能力を欠いた学界に代って浄化のために毎日新聞が払った努力のあとを追ってみよう。

  まず、考古学界の過熱した発見競争の中で、ねつ造の疑いはあるが学術的に論駁が不可能となると、発掘現場に隠しカメラを設置して張込み、これによって初めて確保できた 「科学的論拠」 でもって崩すという、おとり捜査顔負けの苦心の取材。

  言わずもがな 「開放されている遺跡の発掘現場に限定し」 と、この際に誰も咎めはしないであろう張込み場所の合法性をわざわざ 【おことわり】(11/5) したことに、その苦悩の跡がうかがえよう。

  次に、日付を追ってみれば、すでに10月22日にF氏のねつ造現場を撮影していたにもかかわらず、5日後の27日の発掘調査団の発表を看過し、購読料を払っている読者に対して そ知らぬ顔 で、「60万年以上前の旧石器発見」 と大々的に報道。決して順序は逆ではない。そして11月4日になって初めて、F氏に証拠のビデオを見せているのである。

  慎重に慎重を期したからに違いないのだが、傍目には、大々的な報道の後、ホテルに呼び出した氏に過去の業績と今回の 「快挙」 を語らせて氏を得意の絶頂まで登らせておき、おもむろに 「見ていただきたい映像がある」 と証拠を突き付け、一瞬にして奈落の底に突落すという、実に効果的な演出と映る。

  有頂天になって快活に熱弁をふるうF氏に向けられていたであろう、記者たちの冷ややかな視線、想像するだけで背筋が寒くなるような場面である。そのクライマックスは後日、特集の初回 【もうだめだ、埋めちゃった】(11/14) で得々と再現された。

  この見出しそのものも、「ゴッドハンド」 の異名をとった過去の栄光を一瞬にして失ったことを悟ったF氏の、憔悴した様を生々しく映し出し、読者の嗜虐性を誘発する効果は絶妙である。先の作為的な報道順序とあわせ、ジャーナリストのお手並みには舌をまかざるを得ない。

  さらに、氏が過ちを認めた後も 【これが石器を埋める現場】 と称し、氏の顔・姿が撮られた14枚にも及ぶ禍々しい写真が、インターネット上を全世界に向けて毎日流され続けているのである(11/27現在、2001年5/13現在、同12/1現在)。

  このスクープによって、過去の数々の 「新発見」 を含めて誤った道に踏み込みかけていた日本の考古学・古代史が救われたことは事実である。あくまで考古学界の浄化のために、許し難きねつ造現場を暴き告発し続ける報道倫理には敬服するほかない。

  しかしながら、いかなる凶悪事件においても、かほどサディスティックな報道が行われた例や、犯人の逮捕後も証拠写真が捜査当局の手で公開され、いつまでもさらしものにされた例は、少なくとも私の記憶にはない。[注)用語「モラルハザード(=倫理の欠如)」は毎日新聞11/6 『社説』 より借用]

学生諸君、決して微罪とあなどるなかれ!

  かように、学問の世界におけるモラルハザードにあっては、刑罰がないかわりに人権なんて甘ったれたものもなしと心得よ。敬称の 「氏」 は形ばかり、市民社会・マスコミによる法の保護なき執拗な制裁が君を待っているのだ。これにより社会復帰はおろか家庭も破壊され、孤立して自ら命を絶つところまで追いこまれてしまうケースさえあるのだ。

「輿論よろんは常に私刑であり、私刑はまた常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。」  (『侏儒の言葉』) 



  さて本題。総合人間学部では卒業に必要な単位数を128単位と決めてあるが、この単位とはいったいどのような定めによるものだろうか。これは 『大学設置基準』 において

 「1単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成することを基準とし」

とされ、授業の方法に応じて実際の授業時間数の基準が定められていることによる。つまり半年2単位15回の科目ならば全90時間、

週1回2時間の講義なら自修時間を含めて各自が毎週6時間学修

することを前提としているのである。

  これは法のたてまえと言えばそれまでであるが、講義をする側から見れば、たとえ講義ノートが完成していても毎回講義前に1時間ほどは準備しているし、講義ノートを作成する段階ではその数倍の時間を費やしていることからして、初めて聞く学生がその内容を理解するためには平均6時間くらいかかるだろうというのは、あながち大げさとも思えない。

  さらに私の経験に照らせば、カルチャーショックの激しい解析学や哲学は、とてもじゃないがそんな生半可な学修なんぞで追いつける代物ではなかった。そうすれば並の人間が1週間で頭の中に収容できる科目数は自ずと決まってくる。4年で128単位なら1年で32単位、科目数にして週10科目前後というのは順当なところだろう。

  最近、週5日の朝から夕方までぎっしりと履修科目で埋め尽くしている勤勉派をよく見かけるが、これはどう考えても無理なスケジュールであり挫折は目に見えている。小学校以来の時間割の慣れで 「ともかく埋めなければ」 という強迫観念にかられているとしか思えない。

  中には 「数打ちゃあ当たる」 式に気楽に履修登録している人も相当あるようだ。何とか単位を掠め取ろうとする迫力が全く感じとれない、いさぎよくあきらめた淡白な答案が多すぎるのである。この安易な履修登録が定期試験の教室確保のために事務担当者に大変な苦労をかけていることも知ってほしい。

  要は、卒業に必要な単位というものは、定められた必要数を精選して揃えるだけでよろしい。しかもそれを全部が全部シャカリキと 「毎週6時間の学修」 なんて無理も言わない。

  大学の授業には、その場で頭を捻ればクイズを解くような楽しさで修得できる実習科目もけっこう用意されている。ヘタに縮小メモや同類の近隣なんかに頼らなくても、新聞の記事を見て毎日ほんの一瞬ずつ、他人や世界との関わりについて自分の頭で考えてみる癖が身についておれば、知恵を絞って何とか答案が書けそうな試験もある。

  そのかわり必ず年に1科目か2科目かは、あるいは授業に関係ないことでもいい、大学生である以上たかが単位をとるくらいのことで満足せず、知力を尽してモノにする体験を4年の間しっかりと積むこと。そのためのヒントやネタを提供するのが講義である。

  これがカンニングのすすめだ。 [注)手元の辞書のcunningには、同義語としてskillful、cleverも書かれ、いわゆるカンニングはcheating、cribbingとなっている。]


  世に 「IT革命」 が叫ばれる中、京大生の間で行き交うのは 「楽勝科目」 「過去問ゲット」 情報。

── 『○学のMの講義は専門の3回生が聞けばウソだらけ』 これはよろしい。批判精神は大いにけっこう。

── 『 Tの○○学は一回も講義に出ず過去問で通った』 これはいただけない。 [ついでながら私の過去問ファイルをダウンロードし、全て自分の頭でこなすだけの甲斐性があれば、それはそれで大歓迎。]

  ホラ吹きでなくたとえ本当であっても、「自分はいかにsmartに楽勝したか」、この類の話を公衆の面前で声高に自慢するのは、大人の世界では座のシラける恥さらし以外の何ものでもない。

  ましてや弱みにつけ込んで情報を売りつけ、仲間から小銭をまきあげるなんて、インターネットの精神に反し、学生の風上にも置けない。

  できることなら 「難解なこの本を半年の間、必死でかじりつき苦心の末クリア。◎」 そういう 『おすすめ情報』 こそ大いに自慢して紹介してほしいもの。でも、そういうのってクソおもしろくもなくアクセス回数ゼロ、今のIT文化になじまないことも事実だ。

(基礎科学科情報科学論講座 とみたひろゆき)



[皇紀二千六百年記念−−職員生徒一同]の石碑(現在、東北門南庭)
「険しくも良き学究の時代かな。」 20世紀には国をあげての歴史ねつ造もあった。

「皇紀」の部分がずいぶん削られてしまった。気に入らないかもしれないが、20世紀半ばという現代史における恥部を消し去るべきではない。未来における貴重な考古学史料として遺しておく価値はあると思う。

 
                念 記 年 百 六 千 二 紀 皇
                  同 一 徒 生 員 職
と刻まれている。

<追補>--- 私もそんな歳ではないのだが 『広報』 の掲載記事に 『なぜ捏造なのか?』 という質問が寄せられたので補足しておこう。

【皇紀】 日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として1872年(明治5)に定めたもの。 [岩波 広辞苑第五版]

【紀元節】1872年(明治5)、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、2月11日。第二次大戦後廃止されたが、1966年、「建国記念の日」 という名で復活し、翌年より実施。 [同上]


  1940年(昭和15年)は建国2600年にあたるとして、国をあげて 『金鵄(きんし)輝くニッポンの 栄えある光 身に受けて 今こそ祝え この朝(あした) 紀元は2600年 ああ一億の胸はなる』 と歌い奉祝した。金鵄(金色のトビ)は 神武東征 神話のシンボル、「金鵄勲章」 の金鵄 。 もっとも巷では 『金鵄あがって15銭、栄えある光30銭、今こそ呪えこの値上げ、紀元は2600年、ああ1億の民は泣く』 の替え歌が流行したという。

  (余談  こちらの 「金鵄」や 「光」 はタバコの名前。 「ゴールデンバット」 が敵性語のためか、戦時中は 「金鵄」 と呼ばれたようだ。実家がタバコ屋をやっていたので、子どもの頃、 「きんし おくれぇな」 と言ってゴールデンバットを買いに来る年配のお客さんによく応対した。ついでであるが、終戦前はタバコは配給制になっていた名残で、買いに来る客の方が頭を下げ頗る低姿勢であり、 「おおきに」 とていねいに礼を言って帰って行くので、無愛想な子どもの私でも店番が勤まったのだ。

  これも余談になるが、何故か突如として1980年頃、この歌の替え歌がゴムとびのはやし歌として各地でさまざまなバージョンで流行したようだ。近くの児童館で女の子たちが 「きーし かがやく ニッポンの 中国・イタリア・ヨーロッパ アッチョンパリアの兵隊さん 戦争やめましょ アッチョンパ...」 「きーし きしきし きしけいこ ...」 と熱中していた。 こういうはやし歌の類は意味不明のものが多い。

  また、西暦(文脈上いたしかたない)2000年にはミレニアム騒ぎに対抗してか、生徒に配る文書に 「皇紀2660年○月×日」 と記した勇猛な小学校長の話が報じられた。ふだん不便な元号を用いる政府や自治体までもが、「平成13年」という何の変哲もない年を前にして、異口同音に 「来る21世紀には云々」 とはしゃぎまわる始末だから、日頃から文部省・教育委員会と現場の教員・生徒の狭間で苦しむ管理職の中に、激昂する人が現れたのはわからぬでもない。)


  さて、寄り道がすぎた。真理探究の学府でまさか、大昔の晋の時代にあらぬ風説を流行らせることから禁止されたという、古代の讖緯説(しんいせつ)を本気で信じたわけでもなかろうが、『第三高等学校80年史』(1973年) に 「皇紀2600年記念碑建造」 と記録があり、写真の石碑がそれに違いないと思われる。これは元々、総合人間学部(旧三高、前教養部)正門東側にあったものらしい。

  同史には、その前々年の1938年に 「ヒトラーユゲント来校」 と、その歓迎集会の大きな写真が掲載されている。そして翌1941年には太平洋戦争突入、1944年には学徒動員令...と、栄えある光 を身に受けた歴史が続く-----。

  同じ1940年に建造された折田彦市像は、この 栄えある光 の時代に、自由を希求する最後の抵抗であったかもしれない。氏を慕う第三高等学校基督教青年会は、(旧制高校の時代、つまり大日本帝国の時代の) 「2月11日」 に結成集会を催したという。「険しくも...」 は、その事実を知ったときの感想である。

  (追記:折田彦市像) 人の作品に執拗にペンキを塗りたくるという、およそ創作の自由とは相容れない異様な行為を、背後から弁護するかのごときM学部長、「胸像なんぞになりたがる(建造したがる?)人の気持ちも知れぬ」 と 平和な現代において 玉虫色 の物わかり のよさを誇示するのはたやすいが、折田彦一は決して 「自由の学風」 を標榜する者にカリカチュアの対象にされるべき人物ではない。 (弁護しておくが、このM先生、「キャンパスクリーン作戦」 の 「作戦」 が戦争用語で気に入らぬと公言される平和主義者だから、あらゆる権威がお嫌いなのだろう。会議が終わってから、ラグビーの 「作戦」 も言い換えられたとか換えられなかったとか、皆で笑いあったものだ。)

  胸像は損傷を避けるため撤去され、現在は三高同窓会に返還されたはずである。今では毎年入学試験の時期になると、代わりにへたくそな張りぼて折田人形が現れる。入試に付き添ってきた母親達が暇つぶしに、次々とその前で誇らしげに記念撮影するという、いかにも今日の京都大学を象徴するかのような、なんとも気恥ずかしい風景に変わってしまった。

  ある年には別の新参らしきグループによる手の込んだ作品が登場したが、低劣な 内容の 抗議 の貼り紙が貼られたと思いきや、ヒステリックに叩き壊されて近くの生協の平屋の屋根に投げ捨てられ、「本家」と思われるマンネリ人形だけが残ったこともあった。これが毎年マスコミにもてはやされる 『自由』の学園 の実態である。明らかに「カッコつき自由」の揶揄に違いなのに、「自由」と言われたとたんに嬉々としてうれしがる御仁もいるのだ!

  同じ年に似たような場面に出くわした。どこかのサークル団体が合格電報を受けつけていたところへ、毎年これを独占している京都大学新聞社の腕章を付けた学生がやってきて、「誰の許可(えっ?)を得て受け付けているんや!責任とれるんか!」 と大声でヤクザまがいの恫喝を始めたため、先のサークルはすごすごと引き上げたのである。学園の「自由」 は、こういう強力な自衛力で守られてきたのだ....

  受験生同伴両親に折田人形の前で 「シャッターを押して」 と頼まれ、鼻先でせせら笑って無視した私も大人げないが、この親あってこの子あり。小学生なみの丸太小屋の基地ごっこや、露天こたつにお鍋の おままごと と同様、いかにも京大生とその親らしい 無邪気さ。なんと、卒業して大の大人になってからさえ 「我こそ折田○○マンの作者であった」 と得々とネット上で自慢する勇者が現れるかと思えば、「自由の象徴がなくなった」 と本気で懐かしむ元教員も出てくる始末である。もっとも京大教員とて多くは京大生のなれのはて、.....。 

  最近、総長室に乱入した学生たちによって須田国太郎の「学徒出陣」の絵が持ち去られたことがあった。数日後に学内某所に秘かに返されたのであるが、なんとそれが教員の間では「良い子、良い子」と言わんばかりに美談としてもてはやされたのだ。そういう過保護のエリート大学なのだ、ここは! 誇るべき 自由の学風 はもっと底の方で目に見えない根をはって脈々と息づいていることを願う。


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