THE GREEN MILE

  グリーンマイル

2000年3月31日
日本劇場 上映時間3時間8分

スティーブン・キング原作の6冊に分かれた小冊子(新潮文庫刊)を読んだのは1998年の秋、受験を控えながら病気で入院中の時でした。
点滴を受けながらベッドに横たわり、気をまぎらわすのに読みふけったせいかとても印象に残るものでした。
刊行された形式と同じように一冊づつ病室に差入れされた『グリーン・マイル』の小冊子。一冊終えるごとに次が気になって仕方がない。スティーブン・キング自身が、どんな結末を迎えるか自分にも分からないと書きだした分冊形式の小説。完成本として一冊になった本とは違い、間をとばして結末を覗き見ることが出来ない小説。

映画『グリーンマイル』については、ビデオで『ショーシャンクの空に』を観たあと、やはり多くの影響を受けた『プライベート・ライアン』でミラー大尉を演じたトム・ハンクスとジャクソン上等兵を演じたバリー・ペッパーが出演する映画が制作されるという記事を読み、『ショーシャンクの空に』と同じくスティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督ということでとても興味をもちました。

ホラーが苦手なわたしはスティーブン・キング原作の映画化作品はほとんど観たことがないのですが、観る機会に恵まれた『クローネンバーグのデッドゾーン』『ショーシャンクの空に』『スタンド・バイ・ミー』『ゴールデンボーイ』はとても思い出に残っている作品です。

この作品の原作と映画を観た時、とても3時間8分では語り尽くせない深い話をまとめあげた映画。 原作を知らないと、その場面場面に隠されたメッセージを読取れないもどかしさ。これは一緒に観にいった母が原作を読んでいなく、帰宅してから原作を読みはじめ、ああ、そうなのかといろいろな場面の奥に潜む闇を感じていました。

原作と映画を照らし合わせて観ることが果たして良いことかどうかは、わたしには判断しかねますが、そんな風に感じました。

マウンテン刑務所E棟の人間模様、コーフィのたどりついたグリーンマイルとコーフィのおこした奇蹟を中心にまとめられ、表現されたこととその奥に潜む闇の部分のメッセージを送る、原作にそって忠実に描かれた作品だと思います。ただ、それと同時に描いてほしかったいくつかのエピソードがないのを少し寂しくもの足りなさを残して終わったのも事実でした。
そして、もしかしたらもっと長編の完全版があるのではないかなどとも思ってしまいました。

原作を読みふけったわたしには、この作品を映画の上で観たものだけで観ることは出来ませんでした。これから書く ―『グリーンマイル』を観て感じたこと― は、原作と少し連動した感慨になっています。


敵意と畏れをいだいた男たちが手に手に武器をもって山狩りをしている映像。

「おまえが騒いだら姉さんを殺すからな」「さわぐと妹を殺すからな」

― 愛を利用して殺した ―

― 愛を利用して殺した、まいにち世界中でおこっている ―

人は、自分にとって身近な人、大切な人を守りたいという気持ちから自らの身を危険にさらすことがあります。また、愛する人のために罪を犯すこともあります。
そんな人間本来の心の中にある純粋な気持ちを利用して行われた卑劣な犯罪。
これを許すことが出来ない憎しみの気持ちは、形をかえて

― 憎しみを利用して殺した ―

という形で扉を閉じます。

映画では「さわぐと妹を殺すからな」という卑劣な言葉にうなされ、目を覚ます老人。
同じ老人施設にいる老婦人に心にためこんだ思いを話し聞かせる形で、元マウンテン刑務所E棟看守主任だったポール・エッジコム(トム・ハンクス)の回想がはじまります。

死刑に値する犯罪を犯した者の終着点であるオールド・スパーキー(電気椅子)までの通過点として存在するマウンテン刑務所E棟。他の棟とは隔離され他の棟の囚人のように労働を強いられるでもなく、心の平静が重んじられ、独居房でその時を待つ死刑囚たち、白人も黒人も同じ棟で生の時間を過ごす。

今の時代でもおこっている事実には変わりがありませんが、奴隷時代がまだ身近にあった時代では黒人や少数民族が、白人に比べて十分な審議をされずに刑を言い渡されることや、重い刑を言い渡される事が多かったのでしょう。

大男の黒人ジョン・コーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)がマウンテン刑務所E棟にやって来た時にE棟にいたのもフランス系南部人のエデュアール・ドラクロア(マイケル・ジェター)、ネイティブ・アメリカンのアーレン・ビターバック(グラハム・グリーン)死刑囚となるに十分すぎるほどの犯罪を犯した面々。
その後やって来るウイリアム・ウォートン(サム・ロックウェル)は白人だけど原作では19歳という年齢のため数々の凶悪犯罪を犯しながら、刑が確定せず上訴中という黒人では考えられない待遇の中にいる人物。

原作の中ではE棟で暮らしながら、終身刑などの減刑となり他の棟に移っていく囚人の話しがあります。しかもそれは白人に多いことも書かれています。

人種差別の考え方は、文化人ともいえるコーフィの官選弁護人だったバート・ハマースミス(ゲーリー・シニーズ)でさえ、自分の子供を襲った愛犬と黒人とを同等に考えた上でしか話しをしていないことからも、黒人に対する蔑視感が根強くあることを伝えています。

のちの場面では、希望的事実が出てきても黒人では再審の請求がむずかしいことなどもいわれます。

作品中で3回登場する死刑執行シーン。その意味するものは何なのか。

最後の時に向かうグリーンマイル、色褪せた緑色の床を歩いていき、行き着いた先でオールド・スパーキー(電気椅子)に腰をおろす。
その瞬間に、たしかに地を踏みしめ歩いてきた足はその役目を終える。電気抵抗をなくするために体毛を剃られた足をベルトが固定する。もうその足で二度と地を踏みしめることが無いことを本人は悟る。電流がより早く強く突き抜けるように塩水に浸した海綿が使われる。

処刑が終わり、かつて凶悪犯罪を犯した囚人はその罪を償い終えて横たわっている。それを辱めようとする行為にブルータス・ハウエル(デビット・モース)がすかさず「彼は罪の償いをした。もうだれにも借りはない」とその手をはねのける。

処刑の前には囚人の最も望んでいることをかなえようとする。処刑の日を迎える囚人は楽しい時間をすごすべくその場から離れた場所に置かれ、その間にグリーンマイルの行き着く先にある儀式に間違いが起こらないように入念な予行がおこなわれる。


当時のオールド・スパーキー(電気椅子)による死刑は、法廷関係者、ジャーナリスト、被害者の家族、一般の希望者などの立ち会いによる形で行われていたようです。

自分の犯した罪の重さを知り、その罪を悔いたものは、自分と自分の犯した罪を憎んでいる人々の前に出たとき、だれもがその時までの平静を失い動揺する。看守がそっと耳打ちする、「おまえのことで、この連中があとまで覚えているのは、おまえがどんなふうに旅立っていったかということだ。だから立派な態度をみせてやれ」と。


原作ではドラクロアの犯した罪は少女を強姦したあと殺し、その犯行を隠すためその少女が住んでいたアパートの裏で少女に石油をかけ火をつけた。その火はアパートまで燃え広がり二人の子供を含む六人のアパートの住人を焼き殺したというものでした。

ドラクロアの処刑の日、殺された女性の妹とドラクロアが放った火のために焼け死んだ子供の母親が公開処刑の場に立ちあっていました。
女性の一人は、恐怖をあじわうといい、たくさん脅えるといいと、ドラクロアの姿を見捉え言い放ちます。
被害者の家族は哀しみと怒りの行き先を失い、その苦しみを与えた犯人の断末魔の苦しみ、罪の報いを受けたことを確認するためにその場に立合うことを希望するのでしょう。
このドラクロアの犯した罪と、ドラクロアが味わった最後の審判が重なりあいます。(原作の中には神がドラクロアの犯した罪に対して下した審判だとうけとれるかもしれないという表現があります)

異様な結果となったその時間を身じろぎせず見据えていた女性もついには、「やめて!もうやめて! そいつが充分な報いをうけたことがわからないの」と叫びだし、その場から逃げ去ろうとします。


ドラクロアとパーシーの確執は原作ではドラクロアがこのE棟に到着したときからあったことが書かれていますが、映画の中でとりあげられていた話しは、パーシーがドラクロアの指を怪我させたこと、パーシーがドラクロアの鼠であるミスター・ジングルスを嫌っていたこと、そしてパーシーがウォートンを怖れ、憎悪する結果となった事件、ミスター・ジングルスに対する暴挙などが描かれています。

自分の努力で直すこととの出来ない身体や精神に障害を抱えている人への蔑視感を持つのと同じように、人間として決して犯してはいけないこと、哀しみ、怒り、畏れ、羞恥の気持ちを感じている人に対してそれを追い詰めたり、増長させるような行為や言動、これは人間として、してはいけないことだと思います。

ドラクロアは日ごろの鬱積した気持ちを爆発させるかのように、ここぞとばかりに、ウォートンとの事件で畏れと羞恥の気持ちでうちのめされているパーシーに追い打ちをかける言葉をあびせ嘲笑します。 これが引きがねとなって、いくつかの不幸がおこったのかもしれません。

ドラクロアの処刑が終わった後、不思議な力をもつコーフィは、大きな苦しみを感じて旅立っていったドラクロアの苦しみを自らも感じ「かわいそうなドラクロア・・」とつぶやき、そして「ドラクロアは逝った・・・あいつは幸せ者だよ。なにがあったかはともかく、あいつは幸せ者だ」と涙をためた目で語ります。

コーフィの目はいつも涙でぬれている。たくさんの哀しみや苦しみをその身でうけて、それにじっと耐えるような目をしている。

マウンテン刑務所E棟に着いたとき、自分を辱める言葉をはき続けるパーシーをその場から去らせ、求めた握手にこたえてくれたポール・エッジコムにおこした奇蹟。

死刑囚の時を過ごす場所において、こころあたたまる存在だったドラクロアの鼠ミスター・ジングルスにおこした奇蹟。

自分に好意的に接してくれている看守たちポール・エッジコム、ブルータス・ハウエル、ディーン・スタントン(バリー・ペッパー)、ハリー・ターウィルガー(ジェフリー・デマン)の願いを感じて、そして何よりも、ポール・エッジコムやミスター・ジングルスに奇蹟をおこした時と同じ、「助けたい」と思う本能的な思いから、メリンダ・ムーアズにおこした奇蹟。



メリンダはコーフィに「夢の中であなたに会ったのよ・・・夢で見たあなたは、わたしと同じように暗やみをさまよっていた。そしてわたしたちは出会ったの」という。
自分の意思とは関係ないところで自分をおそっていく病のために暗闇の中に迷い苦しんでいたメリンダが暗闇の中で出会ったコーフィ、彼の苦しみとはなんだったのだろう。

コーフィの事を知った人たちは、何とかコーフィを助ける道はないものかと思う。でもコーフィが、願ったのは

「もう行ってしまいたいんだ」

コーフィはどこから来てどこへ行こうとしているのか。
自分の意思とは別のところでそなわっていた力、人の苦しみや哀しみ、憎しみをも感じ取る力、暗闇を怖がるコーフィ、それほどまでに多くの憎しみや苦しみ哀しみの渦巻く世界、もう耐えることが出来なくなっても不思議ではない。

― 愛を利用して殺した、まいにち世界中でおこっている ―

もう耐えることができない。

コーフィはオールド・スパーキーに座る。
コーフィに、犯した罪というものがあるとすれば

― 憎しみを利用して殺した ―

こと。

処刑の日、望んでいた自由になる道へ進んでいくコーフィが脅えはじめる。
双子の少女を殺した犯人に対する憎悪の渦巻く場所。人の心を感じ取ることが出来るコーフィが感じた恐怖心。

最前列には、少女たちの両親であるデタリック夫妻がすわり、母親のマジョーリー・デタリックはありったけの、やり場のない苦しみと憎しみの言葉をあびせる。(娘たちが襲われることになったポーチで寝ることを許した事を後悔した日々もあったかもしれない)

彼女は、苦しみ悶え自分の犯した罪の重さを感じながら断末を迎える犯人の姿を見るまでは、救われることがないのでしょう。それを見たからといって心が救われるわけではないのでしょうが、救いを求める精いっぱいの気持ちなのだと思います。

ブルータス・ハウエルは怯えるコーフィの心をつつみこむように「おれたちの気持ちを感じとってみるんだ。おれたちはおまえを憎んじゃいない・・・ほら感じるだろう」と言う。

ポール・エッジコムは暗闇が怖いというコーフィの願いを聞き、顔に黒いマスクをかぶせることをやめる、コーフィは自分のことを憎んでいない彼らを見つめ、その気持ちを感じながら旅立つ。

とても心に重たい作品です。
でも、とても大切なことをたくさん教えてもらえる作品です。

映画があえてマウンテン刑務所E棟の人間模様、コーフィのたどりついたグリーンマイルとコーフィのおこした奇蹟を中心にまとめられていることが、表現されたこととその奥に潜む闇の部分のメッセージを知りたいと思う気持ちにさせてくれると思います。

なぜ3回もの処刑シーンがあるのか、好感のもてるキャラクターとして描かれるドラクロアの処刑シーンをなぜあそこまで映し出すのか。映画を見終わった時、そんな声が聞えてきました。

これは原作の中ではさらに長く描かれているシーンなのです。

原作ではポール・エッジコムのその後のことが、たくさん描かれています。
この話をきいてもらった老婦人との心の触れ合い、老人施設の中でおこってる様々なこと。

映画の中ではマーサ・サンドリッチ監督の『トップ・ハット』(1935年作品 フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース)が効果的に使われていましたが、原作の中にはヘンリー・ハサウェイ監督の『死の接吻』(1947年作品 ヴィクター・マチュア、ブライアン・ドレンビー、リチャード・ウィドマーク)が登場します。

一番心をうたれたのは、ポール・エッジコムの妻ジャニスが1956年にアラバマで事故にあったときの話です。

もし、機会があれば、この作品の原作を読んでみてほしいと思います。


「おまえが騒いだら姉さんを殺すからな」「さわぐと妹を殺すからな」

― 愛を利用して殺した ―

― 愛を利用して殺した、まいにち世界中でおこっている ―

マウンテン刑務所E棟にあるグリーンマイルを歩き人生の終わりを迎える死刑囚たちを最後までとらえることによって、生きること、そしてその終焉を迎えるすべての人々の中にあるグリーンマイルをしめしているのだと思います。
すべての人が、人として生きるためにもっているたくさんの闇、自分はどこから来て何処へ行こうとしているのか、自分は何者なのか、たくさんのあやまちを犯しながら、そんな葛藤や迷いを感じて行き着く先
映画をとおして感じたことを、もう少し考えてみたくなりました。


監督・脚本……………フランク・ダラボン(FRANK DARABONT)
原作……………………スティーブン・キング(STEPHEN KING)

CAST
ポール・エッジコム………………トム・ハンクス(TOM HANKS)
ブルータス・ハウエル……………ディビット・モース(DAVID MORSE)
ジャン・エッジコム………………ボニー・ハント(BONNIE HUNT)
ジョン・コーフィ…………………マイケル・クラーク・ダンカン(MICHAEL CLARKE DUNCAN)
ハル・ムーアズ……………………ジェームズ・クロムウェル(JAMES CROMWELL)
エデュアール・ドラクロア………マイケル・ジェター(MICHAEL JETER)
アーレン・ビターバック…………グラハム・グリーン(GRAHAM GREENE)
パーシー・ウェットモア…………ダグ・ハッチソン(DOUG HUTCHISON)
ウイリアム・ウォートン…………サム・ロックウェル(SAM ROCKWELL)
ディーン・スタントン……………バリー・ペッパー(BARRY PEPPER)
ハリー・ターウィルガー…………ジェフリー・デマン(JEFFREY DeMUNN)
メリンダ・ムーアズ………………パトリシア・クラークソン(PATRICIA CLARKSON)
トゥート=トゥート………………ハリー・ディーン・スタント(HARRY DEAN STANTON)


ギャガ・ヒューマックス共同配給

プログラム(定価600円)
東宝(株)出版
(株)ギャガ・コミュニケーションズ

原作 新潮文庫刊 1〜6巻
グリーン・マイル
スティーブン・キング 著
白石 朗 訳
第一巻 ふたりの少女の死
第二巻 死刑囚と鼠
第三巻 コーフィの手
第四巻 ドラクロアの悲惨な死
第五巻 夜の果てへの旅
第六巻 闇の彼方へ

2000.4.2
ADU
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