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脳性マヒ・二次障害レポート

Eikoのひとりごと
      Mogのつぶやき



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2011/06/05  ご報告
Eiko
みなさま、ご無沙汰しております。その後お変わりなくお過ごしのことと思います。
 
ご存じの方も一部いらっしゃいますが、このたび、ここにも時々登場する「クソジジイ」こと我が父が、5月27日、86才9ヶ月という長寿を全うし、天に旅立ちましたこと、ご報告申し上げます。
 
父はこれまで何の病もなく、ただただ「努力」「忍耐」がキライなワガママジジイでしたので、こんなにもあっけなく逝くとは思っていませんでした。原因は尿路感染による敗血症。
 
5月はじめ、母が過労のため歩けなくなり、近くの老人施設に父を緊急で入れてもらって2週間、5月21日の夕方、急激に体調悪化。救急車で病院へ。母が駆けつけたときにはもう意識不明危篤状態でした。
 
前日の20日に、父から「アメがなくなったから持ってこい」との電話で、Eikoがいろいろ買っていきました。家にウィスキーボンボンのアメもあったので、それもいっしょにね。しばらくつまらないことをしゃべってEikoは帰宅。6時すぎに「ウィスキーボンボン食べ過ぎて夕飯たべられないし、もう寝るわ」と携帯からかけてきました。21日も午前中母が行ったのですが、少ししんどそうにしていたくらいで、母に「早く帰って寝てろ」と。それからEikoの携帯に「今おかあさん帰ったからな」とかかってきました。それが父の声を聞いた最後になりました。
 
それから亡くなるまで、母はお風呂の日以外はずっと病院に寝泊まり。Eikoは父のことより母の体の方が気がかりでした。母が26日お風呂に帰ってきて、翌朝病院へ行くつもりをしていたら、午前3時に電話が鳴りました。そして、その日の午前9時35分永眠しました。
 
Eikoも病院で一泊付き添い、出来る限り顔を見せていたので、それにこれまでからも口では憎まれ口をたたいていましたが、父の思っていることはほぼ全部解っていました。母もEikoも口では文句を言いつつもそれに沿うよう努力してきたつもりです。なので、後悔も思い残すことも何もありません。母と、我が家でいちばん最後まで父が残ったらそれは可哀相、と言ってましたので、それだけはよかったなあ、とつくづく思います。
 
父は、丹波の農家の出身で、12人兄妹(弟1人、妹10人)のいちばん上の長男でした。小さな頃からワガママで悪いことばかりする常習犯。汽車を止めたり、川の流れを変えたり、それはそれは悪ガキでした。旧制中学での成績は国語だけは10点その他は全て落第点。100人中98番2人長期欠席だったことを自慢気によく話していました。そして東京の大学に進学。文学活動をしていたとか。その頃の小さな住所録に太宰治の名を見つけたときには思わず「ヒェ〜〜〜!」でした。
 
それから学徒動員で戦争に行き、復員後卒業。その後は新聞記者をしながら、詩作に励み、井上靖氏らと活動。でもね、あるとき「自分は詩を書かなければ死ぬか」と自問自答して「死ねない」と思ったそうな。「それで筆を折った」と父はエエカッコして言ってたけど、Eikoは、自分を追いつめる苦しさに耐えかねたのだ、と思うのだけどね。
 
それからは、芸能記者や社会部記者として仕事ひとすじ??? いやいや「飲む」「打つ」「買う」の生活をエンエンと。その頃のおもしろい写真がいっぱい。力道山と野球をしてたり、ニューフェイスの高倉健がいたり、でも常に父は若いキレイな女の人とくっついている!
 
Eikoが父の話でいちばん羨ましく思ったのは、ヘレン・ケラーに取材し、ガガーリンと食事をした話。もし、Eikoが健康に生まれていたら、絶対マスコミへ行っていただろうとそのとき思ったわ。
 
そして、Eikoがいちばん感謝していることは「左腕」を残すため、手術室の前まで先生とケンカしてくれたこと。ガンで左腕切断しなければならない、と宣告されたとき、とにかく一度は患部摘出だけにしてくれ、と毎晩毎晩一週間、先生とやり合ってくれました。おかげで、再発は何回もしたけど指先から腐ることもなく、左腕は今も生きています!
 
 
もうひとつは、2005年9月のある日、新聞を手にニコニコしながらやって来て「Eiko 思い切ってこれに乗らへんか?」と。それは、Eikoが言い出すのをためらっていたピースボートの乗船募集広告でした。そのときの驚きと感激は、今もありありとよみがえります!
 
まあ父の良い話はこれぐらいで、その他、家庭人としては最悪と言っても過言ではないひとでした。仕事は定年もない役職だったのに、母に「働かなくてもなんとか食っていけるか?」と尋ね、なんとかなると知るや58才で仕事を辞めてしまい、そこからは晴耕雨読ならぬ「晴遊雨読」三昧。少しは映画を撮ったり、短大の講師をしたりしたけど、80才を過ぎても哲学の道での若い女の子のナンパぐせは治まらず、家に連れて帰ってきては母にお茶を出させて楽しく時間を過ごし、合コンに誘われれば意気揚々と出掛けていきました! まったく! 
 
それから、あまり歩かなかったもので、足腰が弱ってきました。でも「努力はキライ」の一言で、まったく歩かず、そのまま車イスに… その車イスも自分で漕ぐことは一切せず、体力の衰えている母に押させて平気なひとでした。そのあげく手も動かなくなる始末。それでも口だけは「おかあさん、愛してるよ」と言い続けたクソジジイでした。
まあ、天国? いや地獄へ行ってるとしても地獄のちょっとキレイな鬼をナンパしていることでしょう♪
いまはまだ母もEikoも、父が亡くなった、という実感はなく、看病につづくお葬式や事務手続きなどで、だただ疲労困憊。寂しさや悲しみはいつ訪れるのかなあ、と思う日々です。
それでも、きょうあたりから時間がゆっくり過ぎるのを感じ始めて、ちょっとのんびりしようや、と。
Mog
おとうさん、おねえちゃんの予想を裏切って天国に来てるよ。ぼくたちの大好きなジャーキー持ってきてくれて、トンボもクロにいちゃんも、もちろんぼくも大喜びだった。
 
でも、いまはもうキレイな天女さんたちを次から次にナンパしてる。おとうさんの口車に乗せられる天女さんなんてあまりいないと思うんだけど。とにかく、こういうことだけはガンバル父だよ。
 
まあ、クロにいちゃんとぼくは遠くから見守ることにしてるから安心してね。 トンボ? ハハハ、トンボは何匹も彼氏を従えて遊び回っているよ!
 



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