Eiko
きのうにつづいての更新で〜す♪
ほんとはヘルパーさんとお出かけのつもりだったんだけど、体調イマイチのためパソコンに向かっています♪
いま来てもらっているヘルパーさんは22才のかわいい彼女♪ ほかにも同じ年のひとが何人も。それに30代、40代、50代、60代のひとたち約10人が入れ替わりで起床から就寝までのあらゆる介助をしてくださっています。
この体になるまでヘルパーさんのお世話になることがなかったので、とても新鮮な感覚。Eikoのいうことは何でも聞いてくれて、お風呂やトイレの世話もイヤな顔ひとつせずしてくださる。そしてEikoみたいなものをちゃんと人間として尊厳してもらえて、Eikoのイヤなことはしないし、言わない。もしEikoが失礼なことを言っても平気な顔で受け流し、笑ってくれる(さすがにプロ♪)。Eikoはなんにも気を遣わなくてイイし、ハンディのあるものにとって、これほど有り難い存在はないくらい♪ 親がいなくなっても一人暮らしが可能だな、と思うほど。
でも、Eikoはね、こんなに優しく親切な人たちばかりに接していると、なんだかコワイ気になるんですよね。これが「ふつう」という感覚になってしまうと、体がよくなり、社会復帰できたとき、世間のキビシサに適応できなくなるような不安におそわれるのです。。。いまは、体が思うように動かず、体調も悪いからなんだけど、こんなに甘やかされていいものか、と。
このあいだテレビで「幸」という字の成り立ちを言っていたんだけど、それは意外なものでビックリしました。罪人がはめている「手かせ」が元の形なんだそうです。
何故そんなものが「幸」になったのか? つまり、人間が地球に出現してから、ついこの間まで不幸が当たり前(世界の中では今もそれは続いている)の生き物だった。そんな自分の思う生き方ができないという「手かせ」をはめて生きていても「幸せだ」と思える能力のあるひとが本当の「幸」なんだとか。
むかし、アウシュビッツで過酷な労働をしているひとたちが夕焼けを見て「ああ、なんて美しいんだ」とつぶやいた話を、ふと思い出してしまったのだけど、ひとの幸せって、どんな状況にあっても「美しい」と感じたり、「うれしいな」と喜べる心でありつづけること、なのかな、と。
さあ、ちょっと体調がよくなってきたみたいだし、かわいい彼女と若々しい緑のなか哲学の道でも散歩にでかけましょうか♪
Mog
そうそう、きょうの哲学の道はきっと気持ちがイイよ♪♪♪ ぼくもついて行こうかな♪
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