日本に見殺しにされた開拓団の悲劇 2017年1月 志村英盛

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された
『ソ連参戦の衝撃-満州開拓民はなぜ取り残されたか』は、
「当時、中国東北部
(満州)に住んでいた満州開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、
多くの家庭が母子老人家庭となっていた。
戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭
避難民は、戦闘に巻き込まれて
約3万人が死亡した。
その後、病気と飢えで
約21万人が死亡した」と放送した。

この番組では放送されなかったが、
合田一道『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の終焉』(扶桑社 2000年8月発行)は、
満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、
殺害されたり、集団自殺に追い込まれた悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
満蒙終戦史 全928頁(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)
第812頁~第813頁は次のように述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)
すべての運命であった。

もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように
悲惨深刻を極めた。

この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。

敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。

ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、
原住民の蜂起などが相次いで、
いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、
したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、
関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、
開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、
開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが
混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して
集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、
ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、
全滅した開拓団、及び
1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、
100以上を算える。
開拓団の死亡者は十数万人!



2016年8月14日午後9時から、NHKスペシャル
『村人はなぜ満州へ送られたか』が放送された。
日本敗戦の翌年に自殺した当時の長野県の或る農村村長の
膨大な日記資料を中心にした事実に基づいた放送内容に
深い感銘を受けた。

①現地・満州の事情、日米戦争での敗北状況を
 まったく無視して、一旦決めたことは変更しないという、
 今も変わらぬ日本政府の高級官僚たちの無知・無能・
 無責任を、改めて、嘆くばかりである。

②当時の関係政府機関の高級官僚たちは、現在の
 日本外務省の高級官僚の北方領土問題についての
 姿勢と同じく、ひたすら国民を騙すことに徹していた。
 それに対して、現在に至るも、なんら反省していない。


参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満州開拓団」2009年8月

日本の関東軍は、開拓団の老人、婦女子、
小学生、幼乳児を、見棄て、見殺しにした


日本敗戦と同時に、これら【匪賊】(土地を奪われた中国農民)たちは、
日本人への報復のため、一斉に、開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。

開拓団の成年男子(18歳~45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本の関東軍の【根こそぎ動員】で徴兵されていた。
(彼らは、その後、極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。)当時、開拓団には成年男子はいなかった。

徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦直前、関東軍は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で、夫や息子を徴兵されて、頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児について、関東軍は
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。


ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかった。


関東軍に見棄てられ、見殺しにされたおびただしい数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児は、ソ連軍戦車の銃撃
中国人の、鍬、棍棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。

日本の関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。

旧大日本帝国陸軍に、
騙され、見捨てられて、
虐殺されたり、残酷死した
満蒙開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児


出典:朝日新聞(朝刊)2015年11月24日12面『戦後70年』



逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、

【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)
絶望(自殺)等でほとんどが残酷死した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この旧大日本帝国陸軍と関東軍の、最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見棄て見殺しの罪】を見逃すことはできない。

哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

廣田内閣の満州移民推進政策
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。


日本の政治は軍部に乗っ取られていた

満州国建国の前々年、1931年に起きた満州事変は、昭和天皇、日本政府、
陸軍大臣、陸軍参謀総長、さらには、関東軍司令官の事前承認なしに、
関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた
不法な軍事行動であった。

この不法な軍事行動を補完するため満州国が建国された。

国際社会は、国際連盟の場において、こぞって日本の不法な軍事行動
満州国建国を非難した。

1933年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書に基づいて
日本による満州国建国の是非が討議された。

日本を非とする国42か国に対して、日本支持国はゼロであった。
日本(実質的には旧大日本帝国陸軍)はこれを不服として国際連盟を脱退して、
自ら世界の孤児となる道を選んだ。

不法な軍事行動であった満州事変を指揮した石原莞爾、及び、板垣征四郎は、
陸軍刑法のせんけん(擅権)で、当然、死刑に処せられるべきであった。

しかし、日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、石原莞爾と板垣征四郎を
陸軍刑法違反で軍法会議にかけることすらできなかった。

満州事変以後、日本は、なし崩し的に、【立憲君主制・法治国家】から、
【非法治・軍部専制軍事国家】へ移行した。

明治維新によって築かれた【立憲君主制・法治国家】が崩壊した。

つまり、昭和天皇統治権・統帥権を含む国家権力
旧大日本帝国陸軍
高級参謀たちに簒奪された
ということである。

以後、満州事変によって、日本国を乗っ取った旧大日本帝国陸軍は、
戦争への道をためらうことなく突き進み、
筆舌に尽くせぬ惨禍を海外・国内に引き起こして破滅した。

【言論の自由】が無くなり、大手新聞は、連日、
中国侵略戦争における【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
報道する旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り果てた。

渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期~二・二六事件(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」
と述べている。

渡部名誉教授は第459頁~第460頁で「廣田内閣が残したものは、
①【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
②【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
③軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」

「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実

あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。

満州移民推進を決定

1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。

2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。



しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。

日本軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。




軍部暴走の危険性
現在の日本は、戦争の惨禍体験者が減り
「軍隊からの安全
(軍部暴走の怖ろしさ)」を
意識しない国になっている!


公開中の映画「日本のいちばん長い日」は、昭和戦争の最終期、軍部支配下の
日本統治機構の中枢部で繰り広げられた「運命の24時間」を描いた作品だ。

原作者は作家の半藤一利さん(85)。敗戦間近の東京大空襲では、自らも
命を失いかけ、敗戦後に、日本国憲法の産声を聞いた。戦後70年の今、
半藤一利さんの目に映っている「この国の現実の姿」。

問いかけ:
半藤さんのノンフィクション作品「日本のいちばん長い日」は衝撃的でした。
たとえば、連合国に降伏するという政府の方針に反対して徹底抗戦を叫んだ
軍人の存在です。一時は武力で皇居を封鎖していたのですね?


答え:
ええ、あれは、一種のクーデターでした。「ポツダム宣言を受諾して戦争を
終結させる」という、昭和天皇と日本政府の決断は間違っている。だから、
自分たちの、軍人の、思うような政府に変えて、この政策をひっくり返さないと
いけない。」そう考えた一部の軍人たちが、暴力で国家をひっくり返そうとしたの
です。軍隊は武装した組織です。どこの国でもクーデターを起こすのは、
その軍隊を支配している軍人ですよね。いま、安倍自民党は、安全保障を
考えるとき、「軍隊による安全」という視点ばかりが正面に出てきます。
軍隊の存在が抑止力になる、といった議論ですね。でも、本来は「軍隊からの
安全(軍隊暴走の怖ろしさ)」という視点も必要なはずです。日本人が、
憲法第9条を受け入れてきた背景には、もう、戦争という名の殺し合いを
したくないという思いだけではなく、軍隊からの安全(無知・無能・
無策・無責任であった昭和の軍部の危険性の除去)を求める思いも
あったのだと思います。

問いかけ:
13年前にインタビューさせていただいたときには、半藤さんご自身が、
1945年3月に体験された東京大空襲のお話が印象的でしたが?


答え:
15歳のとき、米軍機による、無差別焼夷弾攻撃に遭いました。自宅や
近所の火を消そうとしていたために逃げ遅れ、命を落としかけました。

問いかけ:
しかし、半藤さんは最近、戦争体験を語り継ぐ行為に懸念を感じ始めた、とも
お聞きしますが?


答え:
ええ。私が死にそうだったという話をすれば、「悲惨だったんだな」と
思ってくれる人々がいました。でも最近では、勇気ある少年の「物語」として
受け止められているので、この体験談は、かえって危険を招くんじゃないか
という気もしてきました。

問いかけ:
特攻隊の歴史を題材にした「永遠の0」がヒットしましたね?


答え:
特攻を作戦化し命じた立場にありながら、敗戦後も、のうのうと生きのびた
指揮官たちを、私は実際に知っています。でもそういう本質的な構造の問題より、
若い特攻隊隊員の純真さとか勇気の方に焦点を当てて特攻が語られてしまう。
歴史が物語になっていると感じました。

問いかけ:
そういう傾向は、なぜ表れているのでしょう?


答え:
時間がたち、社会の中で、戦争の悲惨さの体験者が減ったことがあるでしょう。
50年を超えてしまうと、悲惨な戦争も、聞きやすい美談に回収されやすくなる。
昭和が悪い時代のように言われ過ぎてきたので、訂正したいという民族としての
誇りが表れてきた影響もあると思います。

問いかけ:
物語に回収されてしまわないような「戦争の歴史の語り方」はないのでしょうか?


答え:
当時の日本政府が、国民に「焼夷弾はそれほど恐れるものではない」という
メッセージを出していたのはなぜか。米国は、なぜ、非人道的な、無差別
焼夷弾空襲という手段を採ったのか。空襲を指揮した、カーチス・ルメイに、
佐藤栄作内閣の日本政府は、戦後、なぜ、勲一等旭日大綬章叙勲をしたのか。
(注:昭和天皇は、この叙勲に、いたく憤激され、親授を断固、拒否された)
事件や関係した人々について、多角的・総合的に考えることで、
学習していくことはできると思っています。

問いかけ:
戦後70年の今年、岸信介の孫の安倍晋三の政権は新しい安保法制の整備に
踏み出しました。使えないとされてきた集団的自衛権を使えるようにしました。

武力行使の制約が変わりますが?

答え:
今回、安倍晋三内閣が、無理矢理成立させた安保法は、日本を危険な国に
作り替えるものだと思います。ただ、正直に言うと、国民が法案に相当に
反対をしても、安倍晋三首相からは関係ないものとして扱われるだろう、
とも予測していました。2015年4月、安倍晋三政権が、米国政府との
間で約束を交わしてしまった時からです。

問いかけ:
安倍晋三首相が、米国の議会で演説したり、日米の外務と防衛の担当閣僚が
「日米防衛協力のためのガイドライン」を改定したりしたときですね?


答え:
自衛隊は、今後は、集団的自衛権も行使しながら、極東以外の地域でも
米軍に協力します。そう約束する内容でした。憲法が骨抜きにされるだけでなく、
極東を対象にする日米安保条約も骨抜きにされたと感じました。

安保関連法案の審議が国会で始まる前に起きたことですよ。

恐るべきは、こうした日本政府のやり口です。
米国から軍事協力を求められたときに、日本政府には、断れる主体性があると
到底、思えません。

問いかけ:
日本が、米国の戦争に、どう向き合ってきたかという歴史の問題と、
いま安倍晋三首相が見せている、徹底的に米国に追従という姿勢の間には、
つながりがあると思っていますが? 先ほどの、軍隊からの安全
(軍部暴走の怖ろしさ)という視点からは、どんな問題点が挙げられるでしょうか?

答え:
懸念しているのは、共産党が明るみに出した防衛省の内部資料の問題です。
自衛隊制服組トップの統合幕僚長が、米軍幹部との間で、今後の日米両軍の
共同作戦のあり方を決めたり、統合幕僚監部が、法案成立後の、自衛隊の
運用のあり方を決めたりしていた。文官ではなく、武官が前面に出てきている
傾向が見えます。しかも、国民が知らされないところで
武官が前面に出てきている。外交防衛政策が、武官によって策定されることが
いかに国を危うくするかは、昭和戦争の悲惨さが教えるところです。

問いかけ:
今の日本は、「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」に関する意識が薄いと?


答え:
「薄いのではなく、恐怖感意識はまったく無いのだと思います。
敗戦後70年たって、世代がすっかり変わっているから仕方ない面もありますが。

問いかけ:
半藤さんは保守的とされる「文芸春秋」のご出身ですが、憲法第9条については
護憲の立場であり、脱原発に賛同されています。ご自身を保守派とお考えですか?

答え:
「いいえ。私は現実主義者ですね。保守派の中でも、国家主義的な人とか、
革新派の中の党派的な人に対しては、強い違和感があります。

問いかけ:
安保法制への批判も、イデオロギーからではなく、現実主義の視点からと?

答え:
中東へ自衛隊の精鋭部隊を送ったら、日本列島の守りは薄くなります。
それをガバーするための軍事費の膨張は、経済や財政の現状に照らして
可能なのか。そういう議論をすべきだと思います。

問いかけ:
2011年に起きた「3・11東日本大震災」のあと、原発に批判的な
発言をされています。いつから、原発に対して懐疑的になったのですか?

答え:
原発が建設された当初から反対しています。1950年代に、
核の「平和利用」が言われ始めた時期から、原子力という技術は、
人間の理性で制御できるものではないと思っていました。

問いかけ:
海岸線に40基以上も原発がある。それを攻撃されたらお手上げですが?

答え:
地政学的に見ると、海岸線が長い日本は、もともと敵からの攻撃を
防ぎにくいという根本的な弱点があります。だから、近代に入って、
日本は国土の「外」で国を守る戦略を採り、朝鮮半島や中国大陸に
軍隊を送ったけれども、結果は悲惨な敗戦でした。原発が多数存在する
現在は、もっと守りにくい状況です。武力だけで守ろうとしても、
守りきれない。貿易と外交力を軸にしたほうがいい。理想主義だと
批判されますが、貿易と外交力を軸にした日本防衛策のほうが、
現実的です。貿易と外交力を軸にした日本防衛策を本気で検討すべきだ
と思います。

問いかけ:
中国が台頭してきたことで、「日本はアジアで一番の国」という近代日本の
自己イメージは揺らいでいるように見えますが? 戦時中、半藤さんも
「日本はアジアで一番の国」というイメージがありましたか?


答え:
ありましたね。近所には、台湾や朝鮮半島出身の子供がいました。
彼らを、「日本民族の方が上だ」と見下していました。戦争自体も、
「アジアのための戦争だ」と思っていました。

問いかけ:
この先、日本は、どんな「アジア一番」を目指すべきでしょうか?


答え:
「アジア一番」を目指せることは何もありません。単純に
これは、不可能でしょう。ほとんどすべての分野で、自給自足が
できない国、借金が1千兆円もある国が、「大国」になれるわけがない。
それが日本の現実です。

問いかけ:
憲法第9条を守ろう運動に取り組まれていますね?

答え:
はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と二人で、憲法を100年
守ろうと言い合っています。100年もてば、それが、国の意思になるし、
海外の人々の戦争観にも影響を与える。今まで70年ですから、
あと30年、頑張ればいい。

問いかけ:
いつから、憲法第9条を支持するようになったのですか?


答え:
新憲法が誕生したときからですよ。こんなに良いものができたのかと、
非常に喜びました。そしたら、おやじからは「お前はバカじゃないか」と
批判されました。おやじは、「人類が始まって以来、戦争がなかった
ためしがあるか。日本も、日清戦争とか、日露戦争とか、頻繁に戦争を
やってきたじゃないか」と。おやじは、1950年に亡くなっています。
もし、会えるのなら、「あのときおやじが言ったこと、間違ってたじゃないか」
と言ってやりたいですね。

資料出所:朝日新聞(朝刊)2015年9月19日17面


 
ソ連軍占領時の大連の日本人の
 悲惨な状態に大きなショック

2015年8月22日の読売新聞
(朝刊)で、大きく報道された、
大連における、ソ連軍占領時の日本人の悲惨な状態に大きなショックを受けた。

筆者、満州と朝鮮の国境の町・丹東市(旧称・安東市)生まれで、敗戦の翌年の
1946年10月まで、同地で生活していた。

安東市の日本人たちは、ほとんど皆、敗戦後の悲惨な混乱期、極悪非道なソ連軍と、
規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)の軍政下におかれた安東市と、
明治時代から日本人が居住してた大連市の2都市だけが、満州諸都市のなかで、
比較的、安泰であったと思っていた。

特に安東市は、ソ連軍が早々と撤退して、早い時期から、中国共産党の八路軍の
軍政下におかれた。中国共産党の八路軍は、日本軍憲兵隊の憲兵と、満州国警察の
日本人警察官と、満州国政府の日本人役人と、日本軍(関東軍)に関係する企業の
役員・幹部は、それこそ、容赦なく探しだして、容赦なくぶっ殺した。人民裁判と称する、
引き回し人殺しショ-のあと、容赦なく、すぐ、ぶっ殺して、穴のなかに抛り込んだ。

しかしながら、規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)は、
極悪非道なソ連軍とは大きく異なって、
一般の日本人民間人には、一切、危害を加えなかった。



1945年8月22日、ソ連軍が大連を占領した。
日本人を恐怖に陥れたのは、見境のない、凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの、
強姦、略奪、暴行だった。

西岡さんの家にも、凶悪・獰猛なソ連軍兵士がやって来た。
「何かないか」と金目の品を要求された。
父親が、片言のロシア語で、腕時計や指輪などを差し出した。

西岡さんは、母親と、蚊帳の中で息を潜めていた。
「あれは誰だ」と、凶悪・獰猛なソ連軍兵士に問われ、
父親は、脅えながら、「マリチキ(幼い男の子)だ」と言った。

凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの略奪は、その後も、毎日続いた。
安全な場所へ引っ越すため車に詰め込んだ荷物を、車ごと、
凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちに奪われた日本人もいた。

西岡さんは、「男装にしなさい」と父親から言われ、泣く泣く、丸坊主になった。
今回、見つかった写真の西岡さんは、頭をスカーフで巻いていた。

「でも、大連にいた私たちより、満州から避難してきた人たちの方が大変でした」と
西岡さんは語る。

家も食べ物もなく、伝染病で亡くなる人が相次いだ。
西岡さんたちの仕事は、日本人避難民の救済だった。
日本人の資産家に資金の拠出を依頼。食糧を配ったという。



日本人の悲劇には、軍人や民間人の区別はなかった。
「大連・空白の六百日」(新評論)の著者・富永孝子さん(83)は、
大連の送還収容所や引揚船の船上で多くの死にふれた。

「誰も例外なく、栄養失調や伝染病にかかっていた。
幼い子どもの遺体が、船から水葬されていた」という。

「ある日突然、父がソ連軍に連行され、そのまま戻らなかった。」
「幼い弟は小枝のように、やせ衰えて衰弱死した。火葬しようにも
燃やす物がなかった。」

公開された写真をきっかけに、初めて口を開いた大連からの
抑留被害者からも、シベリア同様の悲惨な体験が明らかになっている。

写真公表の意義

読売新聞が、2015年4月、北朝鮮や、南樺太や、大連で死亡した
ソ連軍に抑留された日本人の名簿の存在を明らかにすると、
日本政府は、調査方針を転換し、シベリア以外の死亡者名簿の公表に
踏み切った。しかし、永年にわたる日本政府の、事実の徹底隠蔽によって、
実態解明の手がかりは極めて少ない。

今回の写真公表の意義は大きい。抑留や引き揚げに関する資料を
調査・研究しているある専門家は、「今回公表された大連関係の写真は、
抑留・引き揚げの流れが体系的に分かる写真だ。専門家が多角的に
分析すれば、極悪非道なソ連軍の、満州各地と北朝鮮における、
残虐行為の一端を解明できる」と語っている。

4人家族の西岡さん一家で日本への引き揚げが認められたのは、
西岡さんと、母親と、妹の3人だけだった。ソ連軍が、満鉄工場の設備を、
「戦利品」としてソ連本国に送るため、満鉄関連会社の技術者だった父親は、
ソ連軍から、機械類の取り外しなどを命ぜられ、引き揚げが認められず、
大連に残された。

引き揚げてきた広島にある、両親の実家は、原爆投下で家が焼失していた。
父親が日本に帰還できたのは2年後だった。

お上に盲従 最大の後悔
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日13面

戦前も戦争も、1日にして成らず、それが昭和ヒトケタ派の実感です。

いつの時代も情報は隠されるものです。
だからこそ、自分たちで、隠されたものを
探り当てる執念がないと、生きていけない。
戦争の教訓はそれにつきます。





出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日1面


戦争体験の継承というけれど、本当に痛みを体験した人は
「放っておいてくれ」と思うものです。

僕自身、8月下旬だったか、ソ連兵が家に来て、銃を突きつけ、
家財を略奪していった日のことはほとんど書いていないんですよ。

エッセーでちょっとふれたぐらいで。

翌日には、家を接収され
(追い出され)
ひと月ほど前から体調を崩して寝ていた母親をリヤカーに乗せ、
幼い妹を背負い、弟の手を引いて、雨露しのげるところを探しました。

母親は混乱の中、9月に亡くなりました。

皇道哲学者でもあった父は、愛妻を亡くし、精神的拠り所も、
教育界での立身出世の道も全部失い、 茫然自失の状態でした。

長男だった僕は、ソ連軍の宿舎に行き、片言のロシア語で、
「ラボタ。ダヴァイ
(仕事ください)」と叫んだ。

まき割りや靴磨きなど雑用をこなし、パンや肉のかけらなどを
もらって生き延びました。

シラミが媒介する、発疹チフスがはやり、バタバタ人が死んでいった。
冬は零下何十度の極寒。

子供だけでも助けたいと、現地の朝鮮人に、子供を預け、
あるいは、子供を売り渡す人もいました。

日本人収容施設に、ソ連兵が来て、
「女を出せ」ということも多く、
結局、水商売風の人が押し出されるようにして連れていかれました。

一番こたえたのは、女性がポロ雑巾のようになって帰って来た時、
近くにいたある母親が、子供に、「あの人には近づくんじゃないよ。
病気を持っているかもしれない」と叱っていたのを目にしたことです。

本来ならば、土下座して感謝すべきなのでしょうが、
あの時は非常事態でしたから、みんな何を見ても無感動で、
おかしくなっていたんです。

極限状況でも人間性を失わずにいた人の手記を読むと感動するけれど、
そうではない現実もあった。

敗戦後2回目の冬は越せないと覚悟を決め、終戦翌年の秋頃だったか、
平壌を脱出し、川を渡り、38度線を越え、米軍の難民収容キャンプに
たどり着きました。

「お先にどうぞ」と言っている人は帰ってこられなかった。
トラックに最初に乗り込んだ人たちが、後から乗ろうとする人を蹴落とす
ような日常でした。

「飢えた子どもの顔は見たくない」と言いますが、
日本人難民収容所で、ジャガイモをもらい、妹と分けようと思ったら、
大人に横取りされたこともあった。「飢えた大人の顔は見たくない」。
つくづく思いましたね。

「善き者は逝く」。
だから、僕は、帰って来た自分を「悪人」だと思っている。

戦後、「さらばモスクワ愚連隊」をはじめ、エンターテインメント小説を
書くようになったのも、当時の体験が影響しているのでしょう。

自分はまともな人間ではない。

だから、古賀政男の「影を慕いて」の歌詞じゃないけれど、
せめて傷心のなぐさめに徹して、娯楽を大切に、なぐさめを大事に
してきました。

戦後70年の今、一番の反省点は、ラジオや新聞の情報、噂話を
漠然と聞きながら、上からの指示を待っていた自分の怠惰さです。

かつては、真実を知らされなかったことにムッとし、
自分たちは国に棄てられた、
という意識で、「冗談じゃない」と恨んだこともあります。

しかし、今は、真剣に、事実、真実を知ろうとする執念に
欠けていたことを反省しています。

父親は師範学校に勤めていて、官舎は空港のすぐ横にありましたから、
終戦詔書の前に、飛行場を観察すれば、高級将校らの引き揚げの動きを
察知できたはず。

当時はまだ列車が動いていましたから、体一つで脱出すれば、
あんな目に遭うこともなかった。

子供の頃から戦意高揚の歌に熱狂し、「神州不滅」を信じていたように、
戦前・戦中の教育
(洗脳教育)で、お上(旧大日本帝国軍部)の言い分に
盲従する習慣にどっぷりつかっていた。

それが、「情報難民」を生みました。



終戦の満州 悪夢の始まり
無辜の民をも引きずり込んで一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。


12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を
踏んだことがありませんでした。父は、朝鮮総督府の海軍武官
だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、
私も朝鮮で生まれました。

2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。軍国少年だった
私は、円谷英二さんの特撮とも知らず、映画「ハワイ・マレー沖
海戦」の飛行機の雄姿、爆発シーンに熱狂、兄2人に続き関東軍に
入って、「日本の北の防塁たらん」との使命感に燃えていたのです。

1945年8月9日夜、轟音で家族全員が跳び起きました。
ソ連の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして、8月15日。昭和天皇の玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑が
えぐりとられたように、全身から力が抜けました。

日本の軍隊が武装解除した無政府状態のハルビンの街にソ連軍が
侵攻してきたのです。悪夢の始まりでした。

ソ連兵はやりたい放題でした。略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、
日本人は子ヤギのように脅えてていました。家に押し入られ、
こめかみに冷たい銃口を突きつけられるなんて、想像つきますか?

私は恐怖で、歯ががたがた震え、かみ合わすことができませんでした。

生きるために何でもやりました。靴磨きや、たばこ売り。
ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。
そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が、毎日交代で、ハルビン駅のそばから
貨物列車まで石炭を運びました。

列車には、関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。

シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛いです。

出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。ダダダダッ。見回りのソ連兵に撃たれたのです。

転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。
血だらけでした。1日我慢したら、はれて悪化するばかり。

元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。
麻酔も手術道具もありません。裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、
傷口を切り開きました。「ジョリジョリ、ザクザク」。
人の肉を切るあの音、今も耳から離れません。

出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。

ロシアには優れた芸術家が多い。バレエも映画も音楽も素晴らしい。
でも私は観たくも聴きたくもありません。

ソ連兵が憎い、ロシアという国が憎い。すべてを否定してしまいます。

恐らく死ぬまで変わりません。記憶は焼き付き、心のアルバムに貼られ、
破ることも消すこともできない。

中国などアジアの国々には、日本に対し、私と同じ感情を抱いている人も
いるのではないでしょうか。

1946年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、
半年以上戻って来なかったことです。

やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、
「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

引き揚げ船が出るのは、南満州のコロ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、
2か月半かかりました。食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、
途中で中国人に託す人もいました。

弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。

生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、1947年冬のある日の午後、
母の手伝いをしていると、軍隊の外套をまとい、顔に傷のある男の人が通り、
役場の場所を聞かれました。

1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だっだとわかった時は
もう…抱き合って、涙、涙でした。

兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら
誰もいない。一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。

自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。

私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、
「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月12日

ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行

若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行

第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。

筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。

北朝鮮におけるソ連兵と北朝鮮兵の
強姦、暴行、殺戮、強奪


編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁~第176頁

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。

元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

(慰安婦を)
強要せられ自殺せるものも少なからず。



奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年~46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」

日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。



藤原てい著 『流れる星は生きている
中央公論社 1984年8月発行第210頁~第231頁より抜粋引用)
第210頁~第231頁より抜粋引用

苦しみ連続の逃避行

大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。

石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。

先に行く人の渡るのをじっと見ていると、一番深い処が
私の胸ぐらいであった。中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。

3人の子供を1人も失うことなく、
私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。

川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。

初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。

日が西に傾くと、水面からの反射のために、川の真ん中で、
くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。

最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。

いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。

ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。

日本人の群に合流すると、私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。

胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。

手術の苦しみ

眼を覚ました。テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。

D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。

このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。

医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」

医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。

だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。

私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。

両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」

診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。

そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。


隠蔽を謝罪  ウソー!



拉致移送途中においても、環境変化、精神的ショック、疲労、発病で死亡したものが
少なくなかった。
徒歩による拉致移送途中、逃亡しようとしたもの、疲労と発病のため隊列から
落伍した者は「連れて行くのが面倒だ」とする残忍なソ連兵に容赦なく射殺された。



ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、法学博士、教授、
海軍大佐)は、毎日新聞社が1999年2月に発行した『毎日ムック シリーズ 
20世紀の記憶 1945年 日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃』の
第129頁

「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、32,722人が死亡した」と述べている。

筆者は、拉致移動途中に死亡した日本人捕虜は4万人以上であったと推定している。
しかしながら拉致移動途中の死亡者数については何らの資料も残されていない。

行方不明者数にふれない日本政府のシベリア虐待抑留に関する
現在の発表数字では、シベリア虐待抑留の実態は認識・理解できない。




Re:
シベリア虐待抑留 行方不明者の記録抹殺
-拉致途上、多数の落後者、殺害され
行方不明に!

哀れな日本人捕虜行方不明者数にふれた
マスメディアはまったくない


  帰還者数  + 死亡確認数 +  逆送者数 = 抑留者総数
473,000+55,000+47,000=575,000

この数字では、日本政府は、シベリアへ拉致移送された日本人捕虜の中、
ソ連領内で行方不明になった者は1人もいないと日本国民に発表していることになる。

1981年以降、日本のマスメディアも、このデタラメ極まる日本政府の発表数字を、
シベリア虐待抑留に関する報道において、何の注釈も付けずに、そのまま引用している。
行方不明者数にふれたマスメディアはまったくない。


Re:
日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害


Re:
固く閉ざされたパンドラの箱
-シベリア
虐待抑留の事実隠蔽(いんぺい)2012年3月





Re:
聞いて呆れる通り越して
-シベリア抑留犠牲者
非国民視で北方領土の軍事基地化進む

Re:日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害