和算とは                                            

和算とは、江戸時代(1603年から1867年までのおよそ270年間をいいます)から明治にかけて日本人が独自に研究、
発展させた数学だ。そのレベルは極めて高度で当時、世界最高水準にあった。
たとえば、関孝和の弟子である建部賢弘は、「円周率π」の計算で41桁まで弾き出すことに成功。
これは天才レオンハルト・オイラー{天才数学者ランキングトップ10 ・・・参照}が微積分学を用いて同じ公式を発見する15年も前のことだ。

江戸時代に出版された多くの数学書というのは、この和算の本だったのです。

江戸時代を通じてベストセラーだった数学書がありました。『塵劫記(じんこうき)』とその名前を含んだ『○○塵劫記』
『塵劫記○○』といった類似本です。全部で300種類近くあったと言いますからハンパではありません。

『塵劫記』は、そろばんの教科書として寺子屋で使われましたが、豊富な例題を含んでいて、計算を必要とする仕事に
応用できましたし、ネズミ算のようなパズル的な問題も、興味を引く絵と一緒に載っていました。そして、高度な数学への入門書にもなりました。

和算には独特な特徴がありました。難しい問題を鮮やかに解けたことを神仏に感謝するため神社仏閣に奉納した数学の絵馬「算額」
数学を教えながら諸国を旅して歩く「遊歴算家」、多くの「流派」が生まれ、段階を経て上へ上がる「免許制度」などです。

高速計算が可能なスパコン京 や 富岳 の頭脳には、何と江戸を生きた一人の数学者が関係しているのです。
江戸時代の数学者、関孝和です。中国から伝えられた天元術を発展させて,高次方程式を公式的に解く新しい算法 
(ホーナー法(高次方程式の近似解法)) を創始した。
これは高次方程式の数値解法で、組立除法を使って効率的に近似解を求めるアルゴリズムです。
また行列式の展開法を見出し,正多角形の関係式をつくるのに成功するなど,和算の飛躍に大きく貢献した。
スパコンの計算効率をアップさせる特別な計算方法の原点には、関孝和が生み出した定理が含まれているというのです。

★ 日本が誇る世界最高級の頭脳、『スーパーコンピューター 京』 と 『スーパーコンピュータ 富岳』
           
  ◆ 『スーパーコンピューター 京』 ◆   
高性能CPU8万個以上で実現する10ペタフロップス・・・
「フロップス(FLOPS)」は、コンピュータの処理能力の単位で、1秒間に浮動小数点演算(補足)を何回できるかという
能力を表しています。
・1G(ギガ=10の9乗)フロップス:1秒間に 1,000,000,000回
・1T(テラ=10の12乗)フロップス:1秒間に 1,000,000,000,000回
・1P(ペタ=10の15乗)フロップス:1秒間に 1,000,000,000,000,000回

(補足)浮動小数点の構造
小数の位置を固定せずに表現するため、表し方は 10 進数の指数の表現のようになります。
     符号 仮数    指数
  -16.75 = -1.675 × 10^1   
 符号部:正負  仮数部:元の数字から小数点を動かした値  指数:小数点を動かした数

「京」の心臓部は、88,128個のCPU「SPARC64Tm VIIIfx」から構成されています。
1つのCPUには、コアと呼ばれる「計算を受け持つ最小単位」が8個搭載され、1秒間に1,280億回(128ギガフロップス)の計算をこなします。
さらに88,128個のCPU(70万個以上のコア)が合わせて1秒間に1京回(10ペタフロップス)という凄まじい速度の計算を実現します。
1京回の計算というと、地球上の全人口70億人が電卓を持って集まり、全員が24時間不眠不休で1秒間に1回のペースで計算を続け
約17日間かけてようやく終わる勘定です。「京」は、これをたった1秒でやってのけることになるのです。

2019年年2月時点で、毎秒1京回(京は兆の1万倍)を超える計算速度を誇り、ビッグデータの処理能力を競う
ランキングは15年から8期連続で世界トップに立つ京。これまでに、南海トラフ巨大地震対策や肥大型心筋症の
メカニズム解明など、さまざまな分野で活用されてきた。 

  ◆ 『スーパーコンピューター 富岳』 ◆   
 ●次世代スパコン「富岳」の性能は京の100倍、使い勝手を重視●
総合力で卓越するシステムで、最大で「京」の100倍のアプリケーション実効性能

新たに開発したプロセッサー「A64FX」を用いた世界トップレベルの性能

総ノード数 : 158,976ノード(432ラック)・・・ノードとは簡単に言うとコンピュータネットワークを構成する機器1つ1つを指します。
ピーク性能(ブーストモード) : 537 PFLOPS(倍精度)

  ● スーパーコンピュータ「富岳」3期連続4冠達成 TOP500、HPCG、HPL-AI、Graph500にて世界第1位を獲得 ●
(1)TOP500
「TOP500」リストは、LINPACKの実行性能を指標として世界で最も高速なコンピュータシステムの上位500位までを定期的にランク付けし、
評価するプロジェクトです。1993年に発足し、スーパーコンピュータのランキングを年2回(6月、11月)発表しています。

(2)HPCG
産業利用など実際のアプリケーションでよく使われる、疎な係数行列から構成される連立一次方程式を解く計算手法である共役勾配法を用いた
新たなベンチマーク・プログラム「HPCG」が提案されました。2014年6月のISC14で世界の主要なスーパーコンピュータ15システムでの測定結果の発表を経て、
同年11月に米国ニューオーリンズで開催されたHPCに関する国際会議SC14から正式なランキングとして発表されました。

(3)HPL-AI
「HPL-AI」は、倍精度演算器の能力を測定する「TOP500」や「HPCG」などと異なり、AIの計算などで活用されている単精度や半精度演算器などの能力も加味した
計算性能を評価する指標として、2019年11月に制定されたベンチマーク(ベンチマークは「ベンチマークテスト」と呼ばれる評価手法、ならびに、
その評価に用いられるプログラム群を指す意味で用いられることが多い。)です。
この測定には「富岳」の432筐体(158,976ノード)を用い、2.004EFLOPS(エクサフロップス)という高いスコアを記録しました。


「関さんが考えたものが最近の研究成果によると、スーパーコンピューターの特性を生かして高速に正確に答えを出せるようになっている」
           
江戸を生きた関の数学が現在のスパコンに活かされている…ご存知でしたか。…大数学者、関孝和に凄さはというと…

俳聖 松尾芭蕉
茶聖 千利休
算聖 関孝和

芭蕉、利休と並んで三聖と称されています。…その実力は、国内にとどまらず、同時代に生きたアイザック・ニュートン、
ゴットフリート・ライプニッツ{天才数学者ランキングトップ10 ・・・参照}にも引けを取っていません。

なぜ甲府藩士の関が江戸に住んでいたかというと、甲府藩主、後の6代将軍・徳川綱豊は江戸にいて甲府の領国経営を行っていたのです。
その為、関の勤務地も江戸(東京・新宿駅付近)ったんですね。

算聖の関孝和が描いたのが。。。「発微算法」です。
この遺題を解いた所の中で、今までにない画期的な算法を生み出しました。
その名は・・・”傍書法”。
関以前の人は、「+−×÷」の記号がなく、全て文章で算数の問題や答えを書いていました。
それを問題をシンプルな式に変えたのが関孝和なのです。

今まで誰も解くことの出来なかった問題を・・・未知数が二つ以上ある問題(xとyね・・・)を解くことに成功したのです。
記号を使って高度な方程式を解く・・・ニュートンやライプニッツに引けを取らない世界的水準の関だったのです

関孝和(=内山新助)の生年は1640年(寛永17年)ごろ,没年は、1708年(宝永5年)。
・・・彼の研究は、弟達に受け継がれ・・・
8代将軍吉宗の時代に、数学の腕を買われた建部賢弘は、一代国家プロジェクト”国絵図”の作成に従事し・・・
吉宗のブレーンの一人となりました。
そして・・・円周率も、小数点以下41桁まで求めることに成功します。

          ★関孝和 世界水準の大偉業!★

 関孝和は、江戸時代前期、中国の数学に依存していた日本の数学を、日本固有のものに高め世界レベルにした天才
数学者であり、和算の開祖です。
孝和が、行列式や終結式の概念を世界で最も早い時期に提案したことはよく知られている。1681年ごろには暦の作成にあたって円周率の近似値が
必要になったため、正131072角形を使って小数第11位まで算出した。

 ベルヌーイ数と呼ばれている数。。。
”べき乗数列の和”の公式に用いる数で、スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが発見したと言われています。
「ヤコブ・ベルヌーイは『推測術』という本により、この数を発表したのが1713年のことです。
…しかし、関亡くなって4年後関の弟子たちが『活要算法』を出したのは1712年、その中に全く同じ、『ベルヌーイ数』が
書かれているんです…関の方が1年早く発表しているんです。

ベルヌーイ数とは、自然数のべき乗和の公式の係数です。
 
   ★ベルヌーイ数★
 
1^0 + 2^0 + 3^0 +・・・+ n^0 = 1/1n^1
1^1 + 2^1 + 3^1 +・・・+ n^1 = 1/2n^2 + 1/2n^1
1^2 + 2^2 + 3^2 +・・・+ n^2 = 1/3n^3 + 1/2n^2 + 1/6n^1
1^3 + 2^3 + 3^3 +・・・+ n^3 = 1/3n^4 + 1/2n^3 + 1/4n^2
1^4 + 2^4 + 3^4 +・・・+ n^4 = 1/5n^5 + 1/2n^4 + 1/3n^3 + 1/30n^1
1^5 + 2^5 + 3^5 +・・・+ n^5 = 1/6n^6 + 1/2n^5+ 5/12n^4 + 1/12n^2
1^6 + 2^6 + 3^6 +・・・+ n^6 = 1/7n^7 + 1/2n^6+ 5/2n^5 + 1/6n^3 + 1/42n^1

ヤコブ・ベルヌーイは1713年に ベルヌーイ数を発表しました。それは次のような数字です。

     ベルヌーイ数       
   n    0     1      2       3    4    5    6
  Bn    1     1/2     1/6     0  -1/30    0   1/42

  n個の自然数の 0, 1, 2, ..., 6 乗和は ベルヌーイ数で次のように表現できます。

1^0 + 2^0 + 3^0 +・・・+ n^0 = 1/1B0n^1
1^1 + 2^1 + 3^1 +・・・+ n^1 = 1/2B0n^2 + 1/2B1n^1
1^2 + 2^2 + 3^2 +・・・+ n^2 = 1/3B0n^3 + B1n^2 + 2!/(1!2!)B2n^1
1^3 + 2^3 + 3^3 +・・・+ n^3 = 1/3B0n^4 + B1n^3 + 3!/(2!2!)B2n^2
1^4 + 2^4 + 3^4 +・・・+ n^4 = 1/5B0n^5 + B1n^4 +4!/(3!2!)B2n^3 + 4!/(1!4!)B4n^1
1^5 + 2^5 + 3^5 +・・・+ n^5 = 1/6B0n^6 + B1n^5 + 5!/(4!2!)B2n^4 + 5!/(2!4!)B4n^2
1^6 + 2^6 + 3^6 +・・・+ n^6 = 1/7B0n^7 + B1n^6 + 6!/(5!2!)B2n^5 + 6!/(3!4!)B4n^3 + B6n^1 

                    
                            ◆円周率π◆
円周の長さを直径で割った比の値で無理数。記号π。3.141592653589……で,3.14,22/7,333/106,355/113等を
近似値に用いる。この値を示すのに記号π(パイ)を用いるようになったのはレオンハルト・オイラーの著作による。
πは無理数である。有理数でない実数(つまり、整数の比で表せない形の数)を無理数と言います。
無限小数で循環しないものが無理数になります
有理数とは、a/b(a、bは整数)のように分数の形に表せる数(b≠0)のことです。

  【和算の始まり】

  「和算」という言葉は、西洋算術、すなわち「洋算」に対応する言葉として生まれたものです。
明治10年(1877)は、菊池大麓(きくち だいろく:1855-1917)が英国留学から帰国した年で、彼は同年設立された東京
大学の数学教授となり、西洋数学を教えました。この年、日本で最初の数学会である東京数学会社(現在の日本数学会)も創立されました。
日常的な計算術(四則演算)を、そろばんが伝来する以前の計算道具である算木によって運算していたことが知られて
います。このそろばんが日本に伝来したことから、日本の江戸時代の数学の歴史は始まります。

       ■「そろばん」の歴史■

 古代中国では、数を数えることを「算」といったそうです。
 数を数える盤の意味で「算盤」となったのは自然なことでしょう。
この漢字、唐音では「ソワンパン」と読むそうなんです。
それが訛って「ソロバン」になったのではないか、という説が今のところ有力なそうです。
そろばんは日本で発明されたものではありません。中国大陸のどこかで、諸説ありますが、14世紀前後に発明されました。
中国で発明されたそろばんが日本へ伝わってきたのは1570年代。室町時代の後期?末期だといわれています
最初にそろばんを使い始めたのは武士。※応仁の乱※から始まった戦いの時代に、兵士の分配や兵糧の調達、武器の売買等には計算が
必須であり、計算ができなければ戦いに勝つことはできなかったのです。

※応仁の乱※(おうにんのらん)とは、応仁元年(1467年)〜文明九年(1477年)の間に起った、将軍家をはじめとする幕府勢力の内乱である。
応仁・文明の乱とも呼ばれ、戦国時代の端を切った戦乱としても有名である

1650年代に記された河内国(現在の大阪府)の人の日記では、自分たちの世代はそろばんを使っているが、古老たちは算木で計算をしていた
らしい、これは全く想像できない、という趣旨のことを述べています(『河内屋可正旧記』)。
つまり、一世代ぐらいの間にそろばんの知識は日本社会に広く浸透していたことがうかがえるのです。





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