飯能で「まち鉄」加藤 寛之

今回は私が住む埼玉県飯能市の市街地で、鉄道とまちの発展をあわせて理解するミニツアーを体験したいと思います。私はこれが、飯能市の観光資源の一つになってほしいと思っています。鉄道そのものを楽しむ、飯能という「まち」の形成や歴史を鉄道とあわせて知る、そして買い物や食事でその「まち」にお礼をする、飯能で「まち鉄」してそんな観光を体験していただければいいな、と思っています。こんな記事を書くくらいですから筆者はそこそこの鉄道好きですが、マニアのレベルには達していません。物足りないところは、ご勘弁ください。

では、始まりです。


<飯能駅に着いたら>

西武池袋線で池袋駅から約1時間、飯能駅に着きます。都心から来ると山が見える景色は新鮮なようで、空気の感じも少し違うと思います。今日は、ここ飯能で「まち鉄」をしたいと思います。飯能市の市街地で、鉄道とまちがどのように影響しあったのかを見て行きましょう。

飯能駅に電車が着き降りたら、改札は橋上にあるけれども、とりあえずそこには行きません。飯能駅は行き止まりのターミナル駅です。西武池袋線の母体となった武蔵野鉄道が、池袋駅から飯能駅までを結んで建設された痕跡です。延長は考えていなかったのです。ホームの西端、つまり池袋駅方面と反対側に歩いてみましょう。消防署がある方向です。とりあえず、どんな感じで車止めが造られているのかを眺めておきましょう。

さてこの付近の左右は、大正4年に武蔵野鉄道開業した当初は材木であふれていたはず。鉄道ができる前は筏を組んで川で木材を運んでいました。「西川材」のブランド名で知られた木材です。鉄道の開業によって消費地の東京と直結できたことは、大変革だったことでしょう。筏は鉄道敷設で衰退したのですが、それがまた自動車輸送にとって代わられたのですが。

これで改札に行ってもよいのですが、ちょっと秩父方面への乗換えを確認しておきましょう。飯能駅は秩父方面への乗換駅です。特急や一部の便は直通だとしても、それでもここで走る方向を変えることになります。ですが、秩父方面に向かうものの、まだ西武秩父線ではありません。吾野駅までは西武池袋線です。西武秩父線は、吾野駅以遠です。でもそれは多くの利用者にとってどうでもよいことで、一般の人は飯能駅以遠を「西武秩父線」といいます。吾野駅~西武秩父駅間が開通するまでは、「吾野線」ということが普通でした。鉄道建設の理由をみると、昭和4年の吾野への延伸は吾野地区からの石灰石輸送でしたし、昭和44年の秩父へのさらなる延伸も観光とともに石灰石輸送があげられています。つまり、石灰石輸送のための鉄道建設だということです。

吾野駅までは西武池袋線であることは承知していますが、このツアーでも便宜的に、飯能駅を境に「西武池袋線」「西武秩父線」、全体は「西武線」と表現したいと思います。そうしないと説明がくどくなり、分りにくいのです。

そろそろ駅舎へと上がりましょう。上がったら、トイレを済ませておきます。何事も準備が大切です。

改札を出ると、右方向が南口、左方向が北口です。ちょっと正面の窓から線路を見ておくのもお薦めです。

北口へ出ましょう。

 
飯能駅北口と駅ビル

 階段を降りるとそこに大きな観光案内図があります。残念ですが、今日の「まち鉄」にはほとんど使えません。別の機会に、ぜひご活用を。

コースとしては、ここを駅ビル沿いに左手方向にグルッと周って歩くのですが、その前に繁華街方向に北へ歩いてください。それも左側の歩道を歩いてください。手押しボタン式の歩行者信号の次の信号のところが「飯能駅前」交差点。でも、渡りません。そこの頭の上くらいの位置に絵馬型の案内板があって「入間馬車鉄道停車場跡」と書いてあります。入間馬車鉄道は飯能と現在の西武新宿線「狭山市」駅の間を結んでいましたが、武蔵野鉄道が飯能と池袋の間を結んで開通したことが直接要因となって利用者が減り、営業を終了したようです。馬車鉄道の駅は、「飯能駅前」交差点を左に入ったところにあったようですが、痕跡はまったく見当たりません。この一方通行の道を西に行ったところに解説板があるので、そこは今日のコースの最後に組み込んであります。狭山市博物館には、入間馬車鉄道の説明と車両レプリカがあります。西武池袋線「稲荷山公園」駅のすぐ近くですから、時間が許せば行ってみてください。ところでこの絵馬型の案内板ですが、平成15年に飯能地区まちづくり推進委員会が市街地50か所に設置したものです。いまでも相当数が残っています。今日のコースを周り終わって飯能駅に戻る道の途中にも見つけられますから、お楽しみに。

入間馬車鉄道の案内板を見たら、飯能駅北口に戻りましょう。


 <飯能駅北口から消防署の周辺>

自転車放置を防ぐ柵をぬって駅ビルに沿って消防署の方向に進めば、すぐに道の反対側にしっかりとした造りの木造2階屋を囲んで有料駐車場が広がっています。ここはかつて材木商があった場所、材木置場です。つまり産業遺産で、それだから輸送に便利な駅前に広い土地が空いているのです。飯能の市街地にある駐車場のいくつかは、材木商関係の跡地です。駅前のここは、その一つです。この地で扱われる材木は「西川材」の名で知られています。

飯能まで車で来るならば、ここの有料駐車場の利用が便利でしょう。料金は1日利用でも心配するような金額ではありません。

その駐車場の西境にある、ナナメ方向の道に注目してください。駅に直結する便利な小道ですが、それは主題ではありません。この道は川寺街道と呼ばれた道で飯能駅が出来る以前からここにあって、駅が出来たことで分断された道です。だから、飯能駅の南口側にこの延長があります。駅ビルの壁に周辺を描いた図が貼ってあります。それを見ると、駅反対側の道が描かれています。武蔵野鉄道が出来たことで、ずいぶんと遠回りを強いられるようになった人もいたのでしょう。

私たちは、ナナメの道には行かずに、消防署方向に進みます。駅構内のこの辺りは、なんとなく広く感じます。飯能駅開業のころの、沢山の木材がこの辺りに積んである写真が残っています。ここも産業遺産です。

間もなく信号のある消防署の交差点に着きます。このまま直進すると、「飯能河原」の名で知られた小学校の遠足によく使われる観光地への近道です。大正2年、飯能は川を越えた先の朝日山に明治神宮を誘致しようと、まちをあげて運動したことがありました。飯能の市街地には、天覧山という観光地もあります。もとは羅漢山という名前だったのですが、明治天皇が軍の演習をこの山からご覧になったことから、宮家から名前をいただいて「天覧山」に改名しました。これらの観光地(当時は遊覧地とよんでいました)ひとまとめにして広く神域とする壮大な構想であったそうです。小松崎甲子雄『昭和の明治百年』(文化新聞社、昭和43年)によれは、飯能を遊覧地にしようと具体的な建設工事が始まったのが大正元年だそうです。その熱気とともにこの誘致運動が盛り上がったのでしょう。しかし大正4年、明治神宮は代々木に決まり、この誘致運動は終わりました。もしも誘致に成功していれば飯能駅は参宮の最寄駅となって、参道になったこの道は大いに賑わったことでしょう。西武池袋線の前身である武蔵野鉄道の開通もまた、大正4年でした。

交差点は左に折れて歩きます。飯能駅を西側から見ることになって、鉄道好きの人ならばしばらく見ていても飽きないでしょうが、とりあえず目の前にある柵を見てください。真ん中あたりを境に、柵の種類が違っています。そして、道はその付近で道が低くなっています。ここは飯能駅から1線だけ延びていた線路の跡です。

 
消防署のところの線路跡

 西武秩父線が出来てE851が運行されたころ、前後の付け替えにこの踏切のところまで来ていた姿を私は見ています。線路は消防署の南側敷地となったところまで延びていました。貨物輸送終了後も長い年月にわたって踏切だったのですが、やがてレールが外されて道路となり、道に分断されて残された線路跡もついに消防署の敷地になりました。時間に余裕があれば、消防署の反対側へ周るとそこは道路状の敷地になっています。正面に飯能駅が見えるので、そこが痕跡だと分ります。

消防署の南にある神社は、久下稲荷神社です。この部分の線路は、大正15年ころの図では消防署と久下稲荷神社の間よりもさらに奥にまで延びて描かれています。昭和27年の地図では消防署と久下稲荷神社の間までなので、いつの時点かで短縮されていたのかも知れません。久下稲荷神社の境内には、「一丁目町内会案内図」が掛かっています。この地図に廃止される前の線路が描かれています。探してみてください。もちろん、お参りをした後に。

 
久下稲荷の一丁目町内会案内図


 <飯能駅南口から東へ>

踏切を越えたらところから1本目は地図に表れない行き止まりの宅地専用の道なので、公道である2本目を左に曲がってください。前方に駅前広場が見える道です。この辺りも材木商があった場所で、いまは駅直近の宅地になったということです。『昭和の明治百年』には「武蔵野鉄道が開通し西川材の輸送がイカダから鉄道に移ったころ、飯能駅の南西付近は「材木町」といわれたほどいつも材木の山が築かれていた」とあります。

前方に飯能駅南口が見えます。飯能駅は長い年月、現在の北口だけでした。南口は、現在は美杉台と呼ばれている住宅団地造成に伴って開いたものです。入間川を越えて対岸の山を住宅都市整備公団が「飯能南台」として開発しました。まち開きは平成元年3月です。幻となった明治神宮の神域は、大規模な住宅団地となったのです。

南口では、駅前ロータリー東側に公衆トイレがあります。これからしばらく、使いやすいトイレはありません。

 飯能駅南口の前を横切り、駅に沿った道を東へまっすぐに進みます。すぐにY字路になります。右に伸びる道が主要な道であることは、道の曲がり方で誰にでも分ります。この右に延びる道が、駅の北口で駐車場の西境にあった川寺街道です。駅で分断された道の、南側です。

 私たちは川寺街道には行かず、そのまま東へ進みます。道はまもなく突き当たり、そこは駅に沿って左方向へクランク状に進みます。目の前は線路で、その右手にある踏切を渡ります。この踏切は左が駅構内、右は西武池袋線と西武秩父線に分岐する、その中間にあります。入り組んだ線路を見ているだけでも、結構、面白い場所です・・・と思うのは鉄道マニアくらいのものでしょうか。

 踏切の向こう側は突き当たりのT字路になっています。ここは右へ。この辺りにも、以前は織物工場や材木商があったのですが、産業構造の変化で姿を消しました。

 すぐに、左手にコンビニがある十字路になります。ここは右に進みます。材木を置いた倉庫だった建物も残っています。少し歩くと、前方に踏切が見えてきます。これは先程渡った踏切のところで左へ分岐した、秩父線です。この踏切を渡ったら線路沿いの狭い道を左へ進みます。安全に道を横断してください。


 <線路の移設と中断した短絡線敷設>

 踏切を渡り、線路沿いに左側の細い道に入ったら、線路の左側の敷地幅を観察してください。前方、つまり東飯能駅に向かってですが、徐々に左側の敷地が広くなっていることが分ると思います。これが「東飯能」駅がなかったときの線路跡です。つまり、建設当初の線路の位置です。この跡は東飯能駅の北側でも見られるのですが、まずここで存在を確認しておきましょう。私がこの移設があったことを知ったのは、もう亡くなられた郷土の文化人 赤田健一氏に東飯能駅建設に伴うものとして教えていただいたことによります。この線路跡は飯能市郷土館所蔵の昭和20年撮影の航空写真で確認できますし、いまでもこのように残っているのですが、私はこの移設に言及した、JR八高線建設当時の記録を見たことがありません。また出版されている多くの西武鉄道関係の書籍類に、この移設が紹介されているのを見た記憶もありません。そのためか、地元飯能でもこの移設はあまり知られていません。

 
国道299号線の手前の線路跡

  間もなく道にぶつかります。国道299号線です。左側の踏切は西武秩父線、右にはJR八高線の踏切、正面が東飯能駅です。この踏切間は道幅が狭く、歩道が造られたのはつい先ごろです。

そしてこの道は、明治34年に開通し大正6年に解散した入間馬車鉄道が通っていた道です。もちろん当時は、両脇にある鉄道線がなく、畑の中を通る道だったのでしょう。

私たちは道を駅側に渡らず、右に曲がります。曲がった途端に、右手側に空き地が広がります。この空き地が、スイッチバックになっている飯能駅を通らずに東飯能駅と元加治駅間を結ぶ短絡線の準備用地です。複線に備えた広さがあります。

西武線の石灰石輸送が盛んだったころ、この短絡線は実現間近に思えました。地元紙「東都新聞」昭和52年2月17日には「秩父行き特急と貨車 飯能駅に停車せず 七年目に市長が初公表」の題で「十日飯能市長は同市都市計画審議会」で「①西武鉄道は四分ないし七分間のスピードアップのため秩父行き特急と貨車は飯能駅には止めず東飯能駅に止めることにするのは実現の一歩手前にある」とあります。ところが石灰石輸送は減り、一向に東口が開設されない東飯能駅周辺の賑わいは振るわず、西武グループ自身も平成4年に飯能駅にステーションビルを建設し、平成8年には貨物輸送を廃止、そして短絡線建設は中断されました。でも、です。ここで東飯能駅を見てください。右半分がJR、左半分が西武鉄道線ですが、左側は単線にもかかわらず複線分の幅が用意してあります。この駅舎の建設は平成11年です。用意だけはしてあるのです。

 ではJR踏切を渡りましょう。踏切の呼称は「飯能街道踏切」。この道が主要な幹線道路であることが分ります。入間馬車鉄道が通っていた道ですから。道の反対側を見てください。踏切直前まで道幅が広くなっています。これは昭和38年に区域決定された双柳土地区画整理事業を行った際に、将来、国道299号線を陸橋化できるように確保した場所です。現在は国道299号線に市街地を迂回するバイパスが出来たことで市街地を通過する車両は減りましたが、それ以前は道幅が狭く2つの踏切が隣接するここが隘路となって、渋滞が常態化していました。陸橋化という構想は後述するほかの踏切でも触れますが、西武線の複線化構想と密接に関連しているのです。

 「飯能街道踏切」を渡ると間もなく右側に、JR八高線に沿って造られた道が現れます。右に曲がって、その線路の横の道を歩きましょう。線路と道は大きく緩やかに左へ曲がり、200メートルくらい歩くと「佐瀬踏切」があります。最初に出会う踏切なので、間違うことはありません。ここで線路を反対側へ渡り、さらに右へ線路沿いを戻るように狭い道を進みます。道が左に曲がると、正面に「マルナカ」の看板を掲げた工場が見えてくるはずです。その手前の両側に、先程見た西武線の短絡線用地が広がっています。東飯能駅と反対方向、つまり左側に広がる用地のそのはるか先に、茶色いビルが見えるでしょう。駿河台大学です。駿河台大学は、西武池袋線で池袋方面から来た方ならば、飯能駅の一つ手前になる元加治駅の前からスクールバスを運行しており、その道が川砂利を運ぶための引込線跡です。沿道には敷地境界を示す「エ」マークの標識も残っています。今回のコースにはあまりにも遠いので、組み入れていりません。

 短絡線用地を越えると、そこに沿って左方向へ道があります。ここを歩きます。

 道はやや下り気味になり、正面に壁が現れます。西武鉄道飯能変電所です。中が見えるわけでもないので、ここは右へ。目の前は西武池袋線の狭い踏切で、これを渡って左へ歩きます。線路を挟んで変電所の側面を見ながら道なりに行けば、視界が急に広がって新しい道路にぶつかります。笠縫土地区画整理事業が行われている区域です。踏切があります。踏切から変電所方向を見ると、そこが飯能駅方面と短絡線との分岐になっていることがよく分ります。

 
飯能変電所付近 短絡線の分岐

 反対側を見ると、池袋方面となる上り線は、敷地の左側に沿って敷設されていることが分ります。将来に短絡線を使うときには、そのまま使える位置なのでしょう。

では、踏切を渡りましょう。


 <コース選択>

ここで選択です。まちへ戻る方に歩いてゆっくりと「まち鉄」をするか、JR入間川橋梁を見にいくのかです。入間川橋梁を見るためには、往復で約3キロメートルを追加で歩くことになります。まち周辺で楽しみたいときは、次章を飛ばしてください。


 <西武・JRの立体交差と入間川橋梁>

 踏切を渡ったら、右へ歩きます。200メートルくらい歩くと、Y字路、といっても左前方向へ行ける道が現れます。そのY字路のあたりで線路沿いに前方を見ると、西武池袋線の上をJR八高線が立体交差しているのが見えます。

左前方向の道へ道なりに少し歩くと、前は小高くなっています。JR八高線の盛り土です。右方向にある踏切へは歩行者しか行けません。その杭の間を抜けて踏切へ。「六道踏切」です。「六道」は、入間馬車鉄道も通っていた道にあって6方向の道が集まる交差点ですが、この踏切からはだいぶ遠いので行くのは止めましょう。「六道踏切」で線路が降りる方向の先に東飯能駅があります。登る方向の先に入間川橋梁があります。この方向を見ると、旧線跡の盛り土が現在の線路の左側に続いています。

 
六道踏切 草地が旧線路跡

 西武池袋線を超えると、そこは盛り土でなく、高架橋が新造されています。六道踏切から入間川橋梁までの線路が付け替えられた主な目的は、JRの下を通る西武池袋線を複線化するためでしょう。

 
JRと西武の立体交差

 副次的には、盛り土で分断された線路両側の地域を陸橋化下に道を通して結ぶこともあったようです。

「六道踏切」を越えて右にある階段を降りるのですが、前方にある「原屋菓子店」で甘いものを購入するのも楽しいでしょう。飯能市のホームページで紹介されている味噌付けまんじゅうを提供するお店3件のひとつです。

階段を降りると道は旧線跡にそって歩ける道です。岩沢北部土地区画整理事業が進んでいる区域です。西武池袋線と交差する手前で盛り土は切れます。立体交差は目の前です。西武池袋線を向こう側へ渡るには、道なりに左へ歩き、そこで踏切を渡ります。この辺りは、かなり地面を掘り込んで線路を敷いています。

ここは岩沢南部土地区画整理事業の区域ですが、ここは事業着手されていないため、まだ古くからの道をちょっと広げただけの道です。この感じが区画整理事業の行われる以前の、この辺り一帯の状態でした。しかも西武池袋線とJR八高線で地域は分断され、さらに盛り土が高い部分は通行さえも分断してもいることが分ります。

踏切を渡って目の前にあるT字路はJR八高線がある右方向へ歩きます。ガードをくぐるときに良く見ると、新しい橋脚の幅は広くて道路拡張の準備が済んでいます。

JR八高線のガードをくぐったら、そこは再び笠縫土地区画整理事業の区域で、新しい道が造られています。JR八高線の陸橋に沿って左方向へ歩きます。橋脚をみていくと、ところどころで道路を通せる造りになっています。プレートを見ると、陸橋は昭和61年竣工と分ります。JR八高線の電化は平成8年ですから、電化の10数年もまえに陸橋化したことが分ります。

道はS字型に曲がり、入間川左岸を通る道にぶつかります。目の前に入間川橋梁があります。手前の橋脚に塗装記録が書かれているので、見ておきましょう。橋そのものは昭和6年の開通時から使われ続けています。

 
JR 入間川橋梁

 入間川橋梁を見終わったら、今来た道を戻るのが良いでしょう。来た時にくぐり抜けたガードを過ぎると、西武池袋線のところで道は左に曲がります。こちらから見ると、西武池袋線はだいぶ低いところを通っています。なぜこれほど低いのか、私は気になっています。

そのまま西武池袋線の線路沿いに歩きましょう。しばらく歩くとコース選択をした踏切に着きます。再び踏切を渡って、今度は左へ歩きます。


 

 <東飯能駅の周り>

踏切を渡ったら短絡線用地に沿って右手へ、戻るように歩きます。この辺りは車の抜け道にならないように、いたるところに車止めがあります。車と人の共存を図ろうとする道路づくりです。西武鉄道飯能変電所のところで短絡線用地を横切ったら右に折れ、先程来た道を逆に辿って、今度は「マルナカ」の門がある道に出ます。

マルナカは飯能で織物生地製造を続けている明治元年創業の会社です。平成24年に開業した東京スカイツリーの展望台誘導係やインフォメーション、チケット販売を担当するスタッフの制服生地はここで作られました。ここは「梅そば」がある方向、右へ行きます。「梅そば」の名物は、そば屋さんですが「笹切りうどん」。どうぞご賞味を。

さて前に見える踏切は、一度通ったところ。もう一度この道を歩き国道299号線に出たら、今度は左へ行きましょう。僅かな距離ですが、入間馬車鉄道が通っていた道を歩きます。西武秩父線の踏切付近では、線路が移設された跡地を左右に見ることができます。東飯能駅のホームと跡地の関係を見ると、線路跡地の中にホームが見えます。この道を、右側にステーキガスト、はす向かいに郵便局がある、「郵便局前」交差点へ進みます。このまま真っ直ぐに歩けば、絵馬型の案内板に「入間馬車鉄道停車場跡」と書いてあった交差点に行きます。

「郵便局前」交差点は右に進みます。まもなく右に東飯能駅が見える曲がり角に着きます。道は駅前で左に曲がります。ここで観察してください。左に延びる道の印象と、駅前付近の印象を比べると、駅前とその周辺の整備状態が古風に感じられると思います。これには理由があります。東飯能駅は、当時は町であった飯能町には出来なかったのです。駅名に飯能の文字はあるのですが、そこは加治村でした。飯能町は東飯能駅開設に呼応するように、駅前からやがて市街地になるであろう区域一帯を前田耕地整理事業として整備して広い道を造り、土地を区画化し、上水道も敷設し、事実上の都市計画事業を行いました。ところが肝心の東飯能駅と駅前は加治村だったのです。当時は畑の中の駅で境界など無意味ですから、飯能町とその周辺住民のだれにとっても東飯能駅の名で不思議はなかったのでしょう。それでも行政区域が明確な耕地整理事業となると、駅前とその周辺にまでは及ばなかったのです。

東飯能駅開業を書いた飯能町の子供の作文を、飯能小学校編輯兼発行『嫩芽』第拾号(昭和61225日発行)から紹介しましょう。現代的に読みやすくします。

「今度私どもの町に八高線ができました。そして昨日、その開通式がありました。朝、暗いうちから花火がドンドン上がっていました。私の行ったのはお昼過ぎの2時頃でした。店などは300件も出ていました」

飯能町の人は、自分のまちに東飯能駅ができたと大いに喜んだのです。

東飯能駅に着きます。駅の西口です。

 
東飯能駅西口

 駅舎の下に公衆トイレがあるので、ご利用を。橋上駅舎へ上がり、連絡通路の窓から歩いてきた南方向を眺めてみましょう。ちょうど正面に短絡線用地、右側の西武秩父線のホームの先には線路移設の跡が見えるはずです。

 
東飯能駅連絡通路から南を見る

 東口にある駅ビルは「丸広」飯能店です。埼玉県川越市に本店を置いている百貨店の「丸広」は、飯能発祥の企業です。

再び西口へ降ります。降りたらUターンするように駐輪場へ。駐輪場を奥の方まで進んで駅方向を振り返ると、手前に古いホーム跡があることがわかります。この駐輪場は、国鉄時代に貨物線の荷物取扱いの場所だったあたりなのです。西武秩父線のホームを見ると駅前側を土で埋めてあり、土を撤去すれば島式で運用できるように準備が出来ているようです。橋上の連絡通路の幅といい、ホームの準備といい、西武秩父線側は複線を想定して建設されています。

 
東飯能駅の西武秩父線側

 移設前の線路は、駐輪場の真ん中辺りを通っていたようです。駐輪場が終ってその先に続く家並みで位置を推定することができます。

駐輪場の中ほどに、西へ、つまり市街地側へ出られる道があるので、ここから出ます。出てすぐに横切る道を右方向へ歩きます。安全を見計らって道の反対側に渡っておくとよいでしょう。そのまま前方にある西武秩父線の踏切まで行きます。踏切を渡る直前で、駅方向へ振り返ってください。空き地が、駅から曲線を描いて広がっています。東飯能駅設置のための移設以前の線路は、現在の位置よりもかなり内側を通っていたことが分ります。道を隔てた反対側には線路跡が見当たりません。中山土地区画整理事業で道や土地が整備されたので、ここには痕跡がないのです。


 

  <中山土地区画整理事業と線路>

西武秩父線の踏切を渡ってすぐ、一方通行出口である左へ入る線路際の道を進みます。踏切は単線だったのに、目の前には複線用地があります。ここは中山土地区画整理事業の際に特別保留地として西武鉄道に売却されたところです。将来の複線用地を区画整理事業で生み出し、その土地を特別に西武鉄道に買ってもらったのです。売却契約は昭和41年のことでした。

 
中山土地区画整理の複線用地

しばらく歩き、最初の踏切のやや手前で歩みを止めましょう。反対側の鉄道敷地の形を見てください。セメント壁が線路と直角に立っているところがあります。壁の右側は曲線状に鉄道敷地があり、左側もよく見ると奥にある柵は壁の右側の延長上にありそうです。昭和20年の航空写真によると、東飯能駅建設によって移設した線路と現線路の合流位置が、この付近なのです。明確な証拠はないのですが、この曲線状の敷地が痕跡かもしれません。

 
旧線路との合流地点(?)

 

さてこの踏切ですが、ここは複線化すると通行が遮断される時間が多くなる踏切であることから、西武鉄道は中山土地区画整理事業に伴う踏切改修にあたって、ここを横断歩道橋のような形式の跨線橋とする計画を明らかにしました。飯能市は地元の了解が得られればこれで行うことで話し合いをすすめていましたが、近隣住民が反対しました。昭和43年7月11日の『東都新聞』によれば、「跨線橋では車馬は通れず、年寄りや小さい子供たちは陸橋の昇り下りに苦労しなければならない。警報機のついた平面交差にしろ」との住民の声を伝えています。前述の陸橋建設用地とともに、線路を横断する手段が線路の複線化とセットで構想されていたことが分ります。

この踏切を直進すると、まもなく線路が複線になります。つまり、単線区間はここから西武鉄道飯能変電所付近までで、両端が複線化されています。しかも途中の東飯能駅も複線化の準備がしてあるのです。

ほどなく国道299号線と交差する踏切に着きます。ここは中山踏切と称される踏切で、昭和4111月中旬ころに現状の形になったようです。ここは中山土地区画整理事業で造りだされた道と踏切です。これを繁華街方向へ歩けば飯能駅に行けます。この区画整理事業そのものが、駅に直進できるこの道を造ろうとする運動から始まっています。この踏切は完成当時、信号機と遮断機が取り付けられて交通事故防止に大きな効果が期待できるものであったと評価されていました。昭和41年の踏切工事をもって同年12 月1日付で道は県道飯能寄居線となり、さらに現在は国道299号線に昇格しています。駅に直進できるこの道が出来る前の県道は50メートルほど西側の道でした。その踏切には信号機と遮断機がなかったのでしょう。

中山踏切を越えて直進すると、道幅が狭くなっています。この付近は土地区画整理の実施時点で宅地化が進んでいたところだったので、充分な道の拡幅をしなかったのかも知れません。50メートルほど進むと右からの道があります。この道の方が、いま歩いてきた道よりも広いのが分ります。これが前述の旧県道です。当時はここに踏切があって市街地へとつながっていたのですが、市街地に入ると道幅が狭くしかも曲がっていて、交通量の増加や利便性で将来に対応できるものではなかったのです。そこで真っ直ぐな広い道と中山踏切を新設して県道を付け替えたのです。線路の反対側にある僅かな空き地は、そこが道であった痕跡です。

もうちょっと進みます。車であれば右に曲がるのみですが、そこの線路側に人が通れるだけの小さな踏切があります。これは、右手に行くと智観寺という由緒ある寺に直結するような道で、おそらく相当に古くからあるのでしょう。この踏切は、土地区画整理後も歩行者用の幅で残されました。


<天覧山駅跡から遊覧地へ>    オプションコースはこちら

この踏切を渡り、直進して自動車が通る道に出たら右へ。間もなく埼玉県立飯能高等学校の正門前を通ります。そのまま信号がある交差点まで行って右折します。

道は軽い登りになります。左手に飯能市立飯能第一小学校があります。ここのバス停留所は「天覧山入口」です。信号のある交差点の先に「鶴舞地蔵尊」があって、そこに右への狭い道があります。この狭い道へ行きます。狭くても頻繁に自動車の通行があるので気をつけましょう。道はまもなく左方向に曲がります。

そのカーブの手前、左方向からの道へ進みます。前方は上り坂で、そのまっすぐ先は柵で止められています。

柵のところで、道は左に曲がっています。古い桜の木と、道の中には植え込み跡があります。柵の中の盛り土の上には、西武秩父線が通っています。空き地を見ると、湾曲しています。ここが「天覧山」駅跡です。単線で真っ直ぐな線路の西側に、空き地の形にホームと駅舎があったようです。天覧山駅の様子は簡単な回想図と、昭和20年撮影の航空写真でかすかに見える程度で、明瞭な地上写真は見つかっていません。この駅の開業は武蔵野鉄道時代の昭和6年、同20年には休止し29年に廃止されました。開業が東飯能駅開業と同じ年です。そのころの東飯能駅は市街地から遠く離れた畑の中だったはずで、しかも後述の「広小路」が開削されていないのですから、東飯能駅の孤立感は現状とは大きく異なっていたはずです。ですから、天覧山に近接した駅の開業は、観光客獲得には必然だったのかも知れません。

 

 
天覧山駅跡

この駅から西へ向かう道が、天覧山駅から遊覧地(明治神宮を誘致する話のところで触れました)への道です。この遊覧地への道を歩いてみます。まもなく、飯能市立飯能第一小学校の横を歩いた道の先にあたる道を横断して、さらに前へ歩きます。すると道は右に曲がりますが、正面にも細い通路があります。

この通路が、本来の道の位置です。本来の、というのは、この道の延長上に織物工場ができて、天覧山への道はいつのまにか工場用地に吸収されていました。今は飯能市立図書館の敷地になっている場所です。ですから正面の通路が、天覧山駅が営業していたときの道の位置なのです。通路は飯能市立図書館の敷地に行きます。それでは通過できませんから、通路に向かわず右に曲がるとすぐに通路と平行する道があります。これを行きます。ここを曲がらずに坂を上がると、用地を迂回するように高台を行く道になります。この道は天覧山駅開業に伴って造られた遊覧道であるようです。

今回は坂を上がらずに左へ曲がります。左に公園があって、そこに入ります。公園の右側方向に、吸収されてなくなった道の延長が現れます。その道を行きます。すぐに、新しい道にぶつかります。新しい道ができたことでこの辺りは様子が変わってしまったのですが、右を見ると高台から降りてくるような道があります。これが前述の遊覧道の延長です。新しい道を渡って前方向にある斜めの道を歩きます。右に小さな池がある天覧山の入口に着きます。

この池は通称「ニコニコ池」、正しくは「天覧山ニコニコ池」。戦前には「霞の池」と呼ばれた、遊覧地計画のなかで造られた観光用の人口池です。天覧山駅がこの辺りへの観光客用の駅だったことは明瞭で、いまでもここは観光地です。道の向こうの公園で片手を上げてお尻を向けている銅像は、鉄腕アトムです。1983年建立です。せっかくなので、見ておきましょう。台座には、アトムらしい銘文が刻まれています。除幕に立ち会った手塚治虫氏は、300年は持ちますと聞いて安心したと伝えられています。

 <飯能駅に戻りましょう>

飯能駅に帰りましょう。何通りかの戻り方はありますが、今日はこのコースです。

鉄腕アトム像から飯能第一小学校方向、つまり東へ向きましょう。右方向に緩くカーブして伸びる道を行きます。カーブが終わる辺りで道の真ん中に桜の植え込みがあるところに来たら、また右の道へ。お寺の壁が続いています。広い道にぶつかったら右に折れると、交差点のところにお寺の入口があります。ここがアニメ「ヤマノススメ」に登場した白象のある観音寺です。歩道から白象が見えます。これも見ておきましょう。この白象は、昭和39年に行われた市制10周年記念の仮装行列に、市内の和菓子店「亀屋」の主人が張子のアジア象を作って象使いに扮した時のものです。その灰色の象を、後日に仏教説話にある白象へ張り替えて寄進しました。その後も修理を重ね、大切にされています。社務所では「ヤマノススメ」絵馬も売っています。

あらためて帰り道です。この変形の「飯能河原」交差点は、観音寺と反対側、左へ行きます。観光案内図や道しるべがあるので、確かめると安心です。少し歩いた先の右側にある「畑屋」は、飯能の観光開発にとって重要な割烹旅館の東雲亭(とううんてい・現在はありません)の母体となったお店です。飯能で織物業が盛んだったころには洋食のオムライスを提供していたと伝えられています。その先にある「仲町」交差点は、そのまま前方へ歩きます。交差点を越えると、左側に蔵造りの「絹甚」があります。「絹甚」は飯能が繊維産業で栄えたころの産業遺産です。右側にある昭和レトロ感たっぷりな食堂は「住田屋」。お店の中も昭和にタイムスリップしています。さらに進むと右側に「小町公園」、天覧山の名のもととなった演習視察の際に明治天皇が宿泊された金子旅館の跡です。トイレもあります。その先、信号のある交差点は「広小路」。飯能市で最初に交差点信号機が設置された場所です。東飯能駅の説明でふれた上水道敷設事業の功労者の胸像もあります。この辺りを「広小路」の呼称にしたのは、第二次世界大戦のちょっと前だそうです。正面の道の先に東飯能駅があるのですが、正面が広い道幅で開通したのは昭和13年まであった銀行が移転した後なので、それに呼応した呼称なのでしょう。この交差点を右に。緩いカーブとなって、そこで道が3つに分かれます。折れるように右に行くと線路跡があった消防署へ。真ん中の狭い道は駅建設で分断された川寺街道。道なりの左は一般に「銀座通り」と呼ばれる道で、ここを進みます。馬車鉄道の終着があった交差点はこの先です。「銀座通り」を歩いていくと、左側の「日替わりシェフのお店」の脇に入間馬車鉄道と看板建築の解説があります。読んでおきましょう。

 
入間馬車鉄道の解説がある看板建築

 
説明

 右側にある「亀屋」は、先々代のご主人が観音寺の白象製作者。「長寿庵」では昭和のオムライスが食べられます。休みながら軽く食べたい人は「伊勢屋」でしょうか。その先の信号のある「飯能駅前」交差点が、「入間馬車鉄道停車場跡」の絵馬型案内板があるところです。ここを右に歩けば飯能駅です。駅への途中の右側に、店頭に綿菓子製造器がある小さなお店で「甘太郎焼」を売っています。大きめの今川焼だといえばその通りですが、飯能で昭和34年から営業しているので、飯能にながく暮らす住民に今川焼は存在しません。餡子たっぷりの“甘太郎”です。大抵、夕方には売り切れています。駅に近づくと、食事が出来る個人の店やチェーン店がいくつもあります。

飯能駅に着きました。

オワリです。


 <所要時間>

 筆者は1時間に6キロメートルほど歩きます。その筆者が歩いて計った所要時間を、妥当な分単位にまるめて書いておきます。単純に合計すると約2時間ですが、実際にはそれぞれで見学時間がかかりますし、道の確認にも時間をとられることでしょう。この計測のときは、メモや確認もあって3時間半かかっています。

 

飯能駅北口 ~2分~ 絵馬型の案内板「入間馬車鉄道停車場跡」 ~2分~ 飯能駅北口 ~3分~ 消防署 ~3分 ~ 飯能駅南口 ~1分~ 川寺街道のY字路 ~2分~ 左が飯能駅構内の踏切 ~5分~ 秩父方面に向かう線路の踏切 ~2分~ 国道299号線 ~4分~ JR佐瀬踏切~1分~ マルナカ前の短絡線用地 ~3分~ 飯能変電所 ~4分~ 分岐が見える踏切 ~2分~ Y字路 ~2分~ 六道踏切 ~2分~ 西武池袋線とJR八高線の立体交差 ~3分~ JRガード ~6分~ 入間川橋梁 ~6分~ JRガード ~8分~ 分岐が見える踏切 ~5分~ マルナカ前 ~7分~ 東飯能駅 ~5分~ 跨線橋が計画された踏切 ~3分~ 中山踏切 ~3分~ 歩行者専用踏切 ~6分~ 鶴前地蔵尊 ~3分~ 天覧山駅跡 ~6分~ ニコニコ池 ~5分~ 観音寺 ~4分~ 広小路 ~1分~ 3つに別れる道 ~3分~ 絵馬型の案内板「入間馬車鉄道停車場跡」 ~2分~ 飯能駅北口

<お願い>

この記事等は、個人の「まち鉄」では自由にご利用になれます。観光ガイドや著述資料として活用する際等は、出典を明記し事前に現地で種々の確認をしてください。筆者に対するこの記事へのご意見ご要望等は、当ホームページを開設しています「縮め屋工房 道楽ぼーず」様へお問い合わせください。

 

平成29221

加藤 寛之

 

 

 

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