飯能で「まち鉄」増補編
加藤 寛之


<天覧山駅跡から遊覧地へ ~開業の疑問ともう一つの遊覧道~>

天覧山駅開業の疑問と、駅から遊覧地へと向かうもう一つの道を紹介しておきましょう。本編の<飯能で「まち鉄」>と併せ、「天覧山駅跡から遊覧地へ」の章の該当部分を差し替えますとミニツアーのオプションになり、さらに駅開業の疑問も語る記述としてお読みいただけます。

 

 天覧山駅跡から西へ向かう道が、飯能市立飯能第一小学校の横を歩いた道の先にあたる道と交わる十字路を右に折れます。軽い上りの道で、これを5060歩程度歩くと右から道がきています。これをまた右に、つまり天覧山駅へ戻るように逆コの字に歩きます。正面にある柵の中が天覧山駅跡で、敷地の北側になります。

 
天覧山駅北側

 天覧山駅は、敷地の南側と北側に遊覧地へ向かう道を持っていたのです。今、前を見ると線路は盛り土の上を通っていますが、ちょうど天覧山駅跡の敷地くらいを境に左側は高架橋になっています。「武蔵丘高架橋」と書いてあります。

 
武蔵丘高架橋

 西武グループは昭和59年2月27日に飯能市議会全員協議会の場で、天覧山と多峰主山を結ぶ線の北西側で「武蔵丘」分譲地の造成計画を公開しました。「武蔵丘」の名は西武グループが開発したゴルフ場の名前と合わせた呼称です。そこには新駅「武蔵丘」設置計画もありました。飯能の地方新聞「文化新聞」昭和59年3月1日号は「新駅整備は東飯能駅の短絡線(六十二年完成の予定)など都内よりの路線改良工事を見ながら進める」と報じています。この計画は飯能市民の心の拠り所であり観光の要の天覧山・多峰主山の破壊につながることを危惧する市民の反対運動と、さらに決定的になった経済状況の変化から事業は後退、結局、信号場と車両基地はできたものの、新駅は現在まで建設されていません。駅跡を見終ったら、歩いてきた道を広い道まで戻ります。正面は切り通し状になっており、現在は延長線上に道はありません。

 
天覧山駅北側から遊覧地方向

 仕方がありませんから、左へ折れて道を下ります。5060歩程度歩き、右に曲がり、織物工場ができて天覧山への道が工場用地に吸収されてしまったところまで歩きます。今度は、右へ歩いてそのまま坂を登りましょう。

 
ここで右折れ

 坂を登りきると、道は左に折れます。ここで立ち止まって、登ってきた坂の方向を眺めてください。いまでこそ家が建ち並んでいますが、昭和20年撮影の航空写真をみると家はなく、周りはすべて畑です。ここは飯能の市街地から遥か遠方を見渡せる高台であったはずです。

曲がり角から天覧山駅の方向を見てください。家の敷地の壁は、微妙に曲がっています。それが道跡であることは容易に想像できます。

高台の道を進みます。徐々にですが、さらに道は高くなります。その高さを、左手方向の家の間から確かめてみましょう。飯能市立飯能第一小学校校舎の屋上を同じくらいです。家がなかった時代には、すばらしい眺望だったことでしょう。

まもなく道は下りになります。その付近で左へ一気に下る道があり、そこを下れば飯能市立図書館の北側にある公園の西端にいけます。

 
図書館西側への下り

 そちらへは行かず、正面方向へ進みます。道は軽く左へ曲がりながら下り、

 
高台から下り

 新たに造られた広い道路に遮られます。ですが道の向こう側の延長線上に道がつながっています。天覧山駅の南側の道をたどった時には向こう側の道は斜めにあるようにみえましたが、天覧山駅の北側の道をたどった今回では正面にあります。この道を行けば、通称「ニコニコ池」のところに着きます。この文章の冒頭からここまで、歩くだけならば10分程度に過ぎません。あらためて、天覧山駅の開業と駅南側の道と北側の道について考察してみましょう。飯能市史編纂室は資料収集の際に天覧山駅のことを西武鉄道に照会しており、そのコピーが飯能市立図書館に『八高線・武蔵野鉄道資料』として収蔵されています。そこでは、昭和6年4月1日開業、昭和20年2月3日休業、昭和29年10月10日廃止となっています。一方、天覧山駅の開業翌年の昭和7年10月に刊行された『飯能町勢一覧』(埼玉県入間郡飯能町役場)の付図は天覧山駅を「天覧山下駅」と表記しています。

 
「飯能町勢一覧」 昭和7年

 このように呼称されたことがあったと推定されます。さらに「交通」欄に、天覧山駅の記載がありません。同欄には「省線東飯能駅」として昭和7年1月から6月までの利用統計も記載されていますから、存在していれば書いてあるのです。天覧山駅は本当に昭和6年4月1日に開業していたのでしょうか。疑問が残ります。当然、付図に天覧山駅の南側の道と北側の道はともに記載されていません。開業後はどうでしょうか。昭和11年刊行の『町勢一覧』(埼玉県飯能町)は、駅正面に道があり、その道は真っ直ぐに西へ遊覧地に伸びています。真っ直ぐなので、駅南側の道だと考えられます。

 
「町勢一覧」 昭和11年

 またこの『町勢一覧』には航空写真が載っており、はるか遠方で曖昧ですが、天覧山駅とまっすぐに伸びる道が写っています。北側の高台を通る道らしきものはありません。刊行年不詳の観光パンフレット「飯能 天覧山」(武蔵野電車)では、天覧山駅の南寄りに遊覧地への道があり、湾曲している道のようには見えません。

 
観光パンフレット「飯能天覧山」

 これらのことから、駅南側の道が当初の道であり、高台を通る駅北側の遊覧道は昭和11年以降に造成されたのではないかと推定されます。昭和11年というと既に中国大陸では軍事行動が拡大しているころで、見晴らしのよい遊覧用の道を造るなど想像しにくい方も多いと思います。ですが、身体を鍛えるとか武運を祈るなどの名目でハイキングや神社仏閣への観光行動は続いており、私の手元にも昭和19年9月23日の記念印が押された伊豆ケ岳登山記念の絵葉書があります。時代として不自然とはいえません。
 
昭和19年 伊豆ヶ岳登山記念

天覧山駅の利用状況はどうでしょうか。昭和11年刊行の『町勢一覧』(埼玉県飯能町)に、天覧山駅の利用統計が載っています。乗車1万2312人、降車1万4946人です。飯能駅がそれぞれ12万1103人、11万0367人ですから、飯能駅の10分の1程度です。ですが観光用の駅として利用時期や曜日が集中していたならば、必ずしも閑散としていたとは言い切れないでしょう。観光用駅のためか荷物の取扱いはありません。このように昭和11年刊行の『町勢一覧』には天覧山駅の記述があるのですから、ますます昭和7年10月刊行の『飯能町勢一覧』の駅名や記載なしが気になるのです。

ところで「武蔵野電車」の表記ですが、これは武蔵野鉄道の広報用の呼称です。電車であることを強調したのでしょう。

<お願い>

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平成2918

加藤 寛之

 

 

 

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