伝蔵荘日誌

2023年5月20日: 生まれて初めて救急車に乗る。 T.G.

 生まれて初めて救急車に乗った。まだ寒い2月の半ばのことである。

 夜半ベッドの中で目が覚めて寝返りを打った。途端に激しいめまいに襲われる。驚いて起き上がろうとするが、めまいがひどくてベッドから起き上がれない。天井や壁や床が歪んでぐるぐる回っている。自分では何も出来ないので、隣のベッドで寝ている家内に声をかけて起こす。吐き気を催すようになり、家内に持ってきもらった洗面器に吐く。何度も嘔吐を繰り返すうちに吐くものがなくなった。もう胃は空っぽで出るのは少量の胃液だけ。それでも吐き気はおさまらず、激しい嘔吐が続く。胃液で喉が痛くなり、胃が飛び出てきそう。こんな激しい嘔吐は今まで経験したことがない。歳が歳なので、もしかしてこれで終わりかという思いが一瞬頭をよぎる。あまりの苦しさに耐えられず、救急車を呼んでくれと家内に頼んだ。

 深夜の119番電話が通じ、やがてサイレンを鳴らした救急車が遠くから近づいてきて、家の前で止まる。夜中なのでご近所はさぞビックリしたことだろう。玄関から二階の寝室に上がってきた救急隊員がまずやったことは、身体のどこかに痺れがあるか、両腕を持ち上げられるかの確認である。経験上こういうケースをたくさん見ているのだろう。明らかに脳卒中を疑っているようだ。歳だから大いにあり得ることだし、自分ももしやとそれを疑っている。その後救急隊員に支えられて二階から下り、玄関を出てストレッチャーに横たわり、救急車に乗せられる。めまいが激しく自力では歩けない。吐き気がおさまらないのでビニール袋を口にあてがったまま乗る。緊急搬送の途中、車内で隊員に血圧と心電図を測定をされた。テキパキした手慣れた処置である。同乗した家内がこれくらいで救急車を呼んでいいものか迷ったというと、この症状なら躊躇無く呼んでくれて構わないと言われた。そうでない救急要請が多いのだろう。

 走行中救急隊員が受け入れてくれる医療施設をあちこち当たっているが、なかなか見つからない。もうコロナは収まっているので、症状に対応できそうな病院が見つからないのだろう。やがて担ぎ込まれた施設は拙宅からやや遠い病院で、かかったことは一度も無い。夜中の救急病院はほぼ無人で静まりかえっている。救急車から連絡を受けていた宿直の看護師が飛んできて、すぐさま嘔吐止めの点滴を打ち、そのままMRI検査室に送り込まれる。症状を前もって聞いた病院側も脳出血を疑って用意していたらしい。その頃は嘔吐もおさまっていたので、検査台に載せられて無事MRI検査が終了する。その間約20分。目が塞がれていてなにも見えないが、終始何やら大きな音がしていた。磁力検査機のMRIの発する音だろう。MRI検査も初めての経験である。その後、結果が出るまで診察室の外で待たさられた。

 しばらくして診察室に呼ばれ、宿直の担当医から診断結果の説明を受ける。おそらく脳外科医だろう。目の前のモニタに頭部のMRI画像が映し出されている。それほど緊張感がない、のんびりした落ち着いた話しぶりなので、大したことはなさそうと心持ち安堵する。

 説明によると、このような症状の原因は大きく分けて二通り考えられる。一つは脳幹出血、いわゆる脳出血。極めて重篤な病気だが、MRIの脳画像を見る限り脳には何ら異常は見られず、脳出血の可能性はゼロである。もう一つは良性発作性頭位めまい症。このめまい症は耳の奥の内耳にある平衡機能を司る三半規管に耳石が入ることが原因で起きる。今回の発症原因はめまい症と判断す効る。このめまい症は脳とはまったく無関係で、極めて単純で軽微な病。良性の意味するところはこれ以上悪くはならないこと。効く薬も治療法もないので、病院ではこれ以上出来ることはない。家に帰って安静にしているしかないと言われた。一時は死ぬかと思ったほどきつい症状だったので、分かりやすい的確な診断を聞いてホッとした。

 思いついて、医者に脳動脈瘤はないか聞いてみた。画像を見る限り、脳動脈瘤を含めて脳には何の異常も無いと言う。脳動脈瘤はクモ膜下出血を引き起こす原因である。破裂すると半数が死に、残りの半分も多くに半身麻痺などの障害が残る。母親が若い頃にクモ膜下出血で亡くなっているので、自分も脳動脈瘤の出来やすい体質を受け継いでいるやもしれず、以前から気になっていた。一度MRI検査を受けてみたいと思ってはいたが、勇気が無くて受けていない。仮に見つかったら日々爆弾を抱えて暮らすのと同じなのだ。それが怪我の功名でないことが分かった。一安心というか、今回の騒動で唯一良かったことである。診察料を支払い、受付でタクシーを呼んでもらって帰宅したが、家に辿り着いたときは夜が明けていた。

 その後しばらくは動き回らず、家でじっとしていた。寝るときも寝返りをせず、出来るだけ頭を動かさないようにしていた。それでも耳石の欠片が三半規管に残ったままの状態なので、時々軽いめまいが再発した。ネットで調べると、時間が経つにつれ耳石が溶けて吸収され、めまいが起きなくなると言う。そうなるまでに半月ぐらいかかるという。三半規管から耳石を追い出す「めまい体操」があって、効果的だとも言う。時々試して見たが、効果は判然としなかった。めまい症はよくある病で、年寄りに限らず誰でも発症する可能性があるという。実に単純な病気で深刻さには欠けるが、家で動かずにじっとしていると、運動不足で食欲がなくなる。その結果、体重が減り、元気もやる気も失せる。あのめまいが起きると思うと、旅行も遠出もする気が起きない。一種の後遺症である。めまいが起きず、気力、体調が元に戻り、旅行に出掛けられるようになるまでに1ヶ月かかった。年寄りにとって、良性のめまい症も馬鹿に出来ない。

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