伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2022年7月19日: 新盆から蘇る亡き父への想い  GP生

 早いもので、今年もお盆を迎える季節になってしまった。まさに光陰矢の如し、歳月は人を待たずとは良く言ったものだ。父の死後、墓参は自分の役目になった。先日、菩提寺を訪れた。依頼していた卒塔婆を受け取り、水桶置き場で家名入りの桶を探した。家名にこだわらず桶をお取り下さいとの張り紙はあっても、やはりこだわる事になる。墓地で卒塔婆を立て、献花し、線香を手向けた後、墓石に向かって手を合わせた。この時、ご先祖様に感謝の思いを伝えることを常としている。現在の生活の安定は、ご先祖様を抜きには考えられないからだ。

 父が健在な頃、進学のため家を離れるまで、墓参は何時も父と一緒に自転車で訪れた。父は生前神仏に対してどのような思いを懐いたいたのかは判らない。唯、父は墓地だけで無く、仏壇を初め、大神宮様や稲荷神社、竈の神様は大事にしていた。万事手抜きの多い自分とは大違いである。父は養子であったが、跡取りとしてこの家に迎えられ、家督となった責任を強く感じていたことは察しがつく。堅物で、真面目な父は責任感も強かったからだ。

 墓地に関する父の記憶は幾つかある。昭和30年代の半ば、自分が家を離れていた時期である。本家の指示で墓を移せと言われた。一族本家の指示は絶対であった。本家に逆らえば、当時でも村八分が行われていたのだ。一族の菩提寺は本来遙か離れた現在の寺であったが、交通手段は徒歩だけの昔、墓参は難儀であった。そのため近くの寺を一族の菩提寺としたそうだ。この寺とて、今川家の菩提寺であることで名を成している。

 父は隠坊を雇い共に墓を掘り起こした。昔は皆土葬である。ご先祖の遺骨を全て掘り起こし、墓石は業者により移動した。費用は全て本家の負担であった。一族十家全てが同じ事を行った。新しい墓地も只では無い。本家はお寺さんに莫大なお布施をし、十家分の墓地を手に入れたと聞いている。

 父は生前、我が家の墓石がみすぼらしいとこぼしていた。墓石は祖父の建立による。墓石には建立者の名前が刻まれている。事情があり祖父母は養子養女であった。それ以前の墓石がどのような物であったか判らない。祖父は昭和21年、祖母は昭和22年に相次いで亡くなった。自分の小学校入学が昭和21年であるから、祖父母から昔のことを聞くよしも無かったのだ。

 父が腎不全により人工透析を始めて6年目の半ば、入院中の父から「墓石を新しくしたいが、自分では出来ない。お前が建ててくれ。」と頼まれた。石屋を探し、全てを一新した。古い墓石をどうするか、お寺さんと相談し、新しい墓石の隣に残すことになった。全てが完了した後、ご先祖の霊を新しい墓地に移す儀式を行った。入院中の父は車椅子で参列し、家族全員が墓前で住職の読経に耳を傾けた。車椅子に座り頭を下げていた父は、どのような思いで居たのだろうか。儀式が終わり、父の満足そうな顔を見た時、自分は役目を果たしたと感じた。その後、暫くして父はこの世を去った 。遺骨は自ら建立した墓地に納骨された。さぞかし満足であったろう。

 父と母は、結婚後しばらく安定した生活を営んでいたと思われる。しかし、父が支那事変で出征してから、波乱の人生が始まった。自分は父の出征中に生誕した、昭和19年。父に2回目の赤紙が来た。30代の初めであった。親族が日の丸の旗を振って送り出した光景は、一番古い記憶として残っている。自分が四歳の時である。出征先は判らない。戦死の連絡が無いから、どこかで生きているはずだ。終戦後、兵士の復員が始まってからも、何処に居るかは判らなかった。

 昭和21年、自分が小学一年生の時、一枚の葉書が届いた。差出人は父であった。父の生存を知り、家族全体で喜んだ事を覚えている。父はシベリアに抑留されていたのだ。復員後、父から話を聞いた。父は、千島列島の択捉島で戦闘を経験すること無く終戦を迎えた。しかし、日ソ中立条約を破ったソ連軍の捕虜になりシベリアに送られ、強制労働に従事させられた。旧満州を初めソ連軍により日本兵約60万人が抑留され、一割が帰らぬ人となっている。頑健な父だから過酷な環境に耐えられたのだろう。

 ソ連は日本兵にアメをぶら下げた。ノルマを達成した兵士には家族に手紙を出せるとの餌である。父は懸命に働いた。ノルマ達成の葉書であったのだ。葉書は全てカタカナで書かれていた。ソ連が検閲し易いよう漢字を禁じた結果だ。葉書は計四通届いた。家族に生きている事を知らせたい父の労苦が目に浮かぶ。父は、昭和24年11月興安丸で復員し、舞I港で故国の土を踏んだ。品川駅ホームでの再会は、今でも目に浮かぶ。自分が小学四年の時であった。

 復員後も父の苦労は尽きることは無かった。優秀な印刷工であった父は、家族の為に懸命に働いたのだ。残業で帰りが遅く、父と話をする機会は休日しか無かった。自分が全ての学業を終了するまで、自分の思いを遂げることが出来たのは、父のお陰である。父がシベリアの土になっていたら、自分の人生は全く違った物になっていただろう。大学進学など論外であったからだ。父には負担をかけてしまったが、父から文句一つ言われたことは無かった。自分が父の立場に立った時、父への想いは更に強まった。両親の加齢が進み、自分の家族と同居が始まったのは、家を出てから24年後の事であった。

 父は70代半ば腎不全により、人工透析を余儀なくされ、週三回の病院通いが六年間続いた。朝出勤前、父を隣町の透析病院に送るのが自分の役目であった。車を運転しながら、父とは忌憚の無い会話を交わすことが来た。頑固な父も胸襟を開いてくれた。六年間の父との車中の交流により、父亡き後の我が家のあり方が決まった。母と息子は理屈抜きで通じる間柄でも、父と息子の意思疎通は簡単のようで難しいのが常である。この六年間は、お互いを理解する貴重な時間であったのだ。

 父は80歳を前にして力尽き、この世を去った。人工透析による心臓への負担が、心不全を引き起こしたのだ。父の血圧が30台になった時、父の顔から生気が抜けた。旅立ちの瞬間であった。父は穏やかな顔で横たわっていた。現在、父は自分の守護霊として見守ってくれている。生前だけで無く、死後も自分を助けてくれている。有り難い事だ。

 終盆の夕方、送り火を焚きながら、亡き父に思いをはせた。家事全般で父には及ばない事は自覚している。それでも父から引き継いだ家督としての責任は果たしたいと思っている。家督とは死語であっても、幼少期、亡き祖母が布団の中で、「お前は跡取りだ、跡取りだ」と毎日のようにささやかれたトラウマは、生涯消え去る事は無い。守護霊として、自分のすべてを見ている父に恥じぬ老後を過ごしたいと思っている。

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