伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2021年10月25日: 末期高齢者の遙かなる記憶・そして今 GP生

 大東亜戦争末期、東京大空襲で二人の少年が生死をさまよい、成人してから殺人者とその被害者となった古いテレビドラマを見た。主演は若かりし頃の水谷豊である。この画面に、B29の大群が焼夷弾をばらまいている大空襲の実写映像が流されていた。時は、昭和20年3月、自分が5歳の時である。以降、日本各地の都市が焼夷弾により、焼け野原となった。この画面に誘発され古い記憶が次々に蘇った。

 米軍の爆撃機B29には二つの記憶が残っている。自分の住まいから南にある市街地にB29が墜落した。日本陸軍の高射砲により撃墜された。この事を人づてに聞き、現場を見に行ったのだ。大人の足でも1時間近くはかかる遠隔の地である。どのようにして墜落現場が判ったのかは、記憶が定かでは無い。強く心に残っているのは、何軒かの民家が焼け、この場所に機体の一部と米兵の遺体が横たわっていた光景である。その遺体を住民が棒で突いていた。5歳児には衝撃的な光景であったからだろう。好奇心のなせる行動であった。当時、日本の高射砲は7000メートル程度の高度までしか届かかず、一万メートルを飛ぶB29に手が出せなかった。日本製鋼がこの高度まで届く高射砲を2門完成させ、うち1門が、自分の街の遙か南の広場に設置された。自分が見た残骸は、この高射砲の初成果であったようだ。

 二つ目の記憶は、B29の編隊が遙か西の空を飛んでいる光景である。戦争末期、日本の各地が爆撃され始めた時、家の庭に二つの防空壕が掘られた。一つは町内の近隣者用である。当時、庭は畑を含めて極めて広かった。町内に空き地が無かったので、土地を提供する代わりに、近隣の人が掘ってくれたと思われる。防空壕の内部は、周囲に打ち込まれた杭に板を張り、掘った土は防空壕の上部にクッションとして厚く積み重ねられていた。B29の編隊が近づくと、遠くに在る信用組合ビル屋上のサイレンが鳴り、空襲警報を発した。これを合図に皆それぞれの防空壕に飛び込んだ。5歳児の自分に空襲の怖さは聞かされても、実感があるわけでは無い。防空壕の中は、子供にとって退屈極まりない場所である。地中に打ち込んだ木の皮を一生懸命剥がしたことを覚えている。

 家から北に中島飛行機の工場があった。この工場を狙った爆弾が外れ、すぐ近くの民家に落ちた。もう一発は防空壕を直撃し、一家は全滅したと聞かされた。爆弾は焼夷弾でないため、軟弱な対象により不発となったのかもしれない。夜になると東の空が赤くそまっている光景が遠望できた。焼夷弾による火災である。この火災が次第に近づいてくるように思えた。自分の住む街から東、二つ先の駅周辺が爆撃されたとき終戦となった。

 当時自分の家族は祖父母と母、そして自分の4人であった。父は昭和19年に出征して生死は不明であり、姉は父が支那事変で出征した時、戦友となったお宅に避難していた。万が一東京の家族が全滅しても、父が帰還した時、娘だけは残しておきたいとの母の願いであった。姉は三歳上であるから、当時8歳である。戦友の家は埼玉県で農業を営んでいた。全く他人の家庭で、姉はさぞかし辛い思いをした事だろう。戦争が長引けば生存者は姉一人になっていたかもしれない。

 自分の一番古い記憶は4歳のとき、両親に連れられ都心の食堂でカツ丼を食べたことである。成長してから母に聞くと神田の店であった。父に招集の赤紙が来る前の事である。二番目に古い記憶は父が出征する日、親戚が集まった別れの宴席である。昭和19年であることは間違いないが、それ以上は覚えていない。4歳児に出征の意味が判るはずが無い。大勢の人が集まったのではしゃいだ様だ。玄関から出て行く父の姿と日の丸の旗は記憶に残っている。シベリアから戻ってきた父と顔を合わせたのは、忘れもしない昭和24年11月3日、新橋駅のホームであった。小学校4年生の時である。

 父は、日本との条約を破って侵攻したソ連軍により、千島列島の択捉島で捕虜となり、4年間、極寒の地シベリアで重労働に従事させられた。身体が頑健であったから日本に戻ってこられたのだ。ある時、全てカタカナで書かれた一枚の葉書が父から届いた。この時初めて、シベリアで父が生きている事が知れた。その後、毎年1通が届いた。ノルマ達成者に対するソ連軍のアメであったのだ。帰還した父は生涯、シベリアでの事は多く語らなかった。厳しい辛酸を経験したのだろうと推察している。

 終戦後暫くして、復員者の名前を放送する番組がNHKで始まった。昭和21年に祖父が、同22年に祖母が相次いでこの世を去ってから、埼玉から戻った姉を含め家族は3人だけとなっていた。この復員者の番組は家族3人で毎日夜遅くまで聞いていた。ラジオは雑音の多い並四と呼ばれた代物である。玉音放送もこのラジオで聞いた。5歳児に内容を理解することは出来なかったが、戦争が終わったことだけは判った。ある夜、ラジオから引き揚げ船・興安丸での帰還者に父の名前が読まれた。この瞬間、母は泣き崩れ、三人抱き合った記憶は鮮明である。

 末期高齢期を迎え,自身の来し方を振り返ったとき、大きな分岐点がいくつも思い出される。中でも父の生還が最大の分かれ道であった。振り返れば、現在の自分の存在は、父の帰還によりもたらされたものだ。もし父がシベリアの土になっていたとしたら、義務教育後の進学も大きく変わっていただろう。就職先も結婚相手も替わり、家族構成も違っていただろう。当然、高齢期の生活環境も現在とは全く異なっていたと想像できる。人生最大の分岐点が父の生還であったのだ。運命は家族に味方してくれた。

 父は80歳を目前にして、心不全でこの世を去った。6年間に亘る人工透析による心臓肥大が原因である。父と成人した息子の関係は。母と息子の理屈抜きの関係とは通常異なっている。職人気質の父と深い話をした経験は極めて少なかった。それが朝の出勤前、週3回、父を透析病院に送った6年間は、車中で父と交流を深めるには十分の時間であった。

 人工透析は、人としての日常を全て奪ってしまう。唯生存のための治療に思えた。自分の役割は、父の代行であった。家の事、事業の事、そして父の死後の事等、お互い本音で語り合った6年間であった。父の死後、父の意志を継いで約束事を実行した。あれから28年が過ぎ、父の享年を上回った。幸い70代の3回の大病も回復し、定期検診に通う身である。それでも末期高齢期を迎え、今後のことを真剣に考え無ければならない年齢になってしまった。病院に通う車中での父の心境は、良く理解できる。

 あの世から、父の意思を伝えてくれた知人の霊能者によれば、父は今自分の守護霊として見守ってくれているそうだ。以前は、この霊能者を通じて仏壇やお稲荷さんの事を指示してきたが、或時からパッタリと止まった。恐らくこの時から守護霊となったのだろう。死して尚、自分を守ってくれている父には、生前時に勝る感謝の気持ちである。

 東京大空襲の映像は幼い頃の記憶を蘇らせてくれた。更に自分の過去を振り返ったとき、父の生還が、人生に大きな意味を持っていた事を改めて思い起こさせてくれた。高齢者にとって老い先は短い。だからこそ生きてきた道程を整理し、反省することがあれば真摯に向かい合い、心の整理をすることが大事と思っている。何時の日かあの世に旅立つとき、この世に悔いだけは残したくないからだ。まだ暫くこの世で頑張れそうだ。丈夫な身体を与えてくれた両親には感謝している。

目次に戻る