伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2021年9月27日: お彼岸の墓参に想う GP生

 今月23日は、お彼岸の中日である。彼岸とは、仏教では煩悩を脱し悟りの境地に達する事を意味する。また三途の川を挟んでこちら側、すなわち現世を此岸、あちら側を彼岸と称する。我が国でお彼岸に墓参りを行うようになったのは、いつ頃からだろう。中日はお寺さんの駐車場が混み合うので、前日に墓参りに行ってきた。

 墓地では2本の卒塔婆を所定の場所に差し込むことから始まる。卒塔婆には、ご先祖の追善供養のための梵語と経文、奉納者の氏名が書かれている。あらかじめお寺さんに申し込んでおくのが仕来りである。三カ所の花立てに水を入れ献花し、線香を添えて準備は完了した。そして墓前に手を合わせ、ご先祖様に感謝の念を捧げた。

 墓地には三種類の墓石があり、内二基には我が家の名が刻まれている。一つは祖父が建立した墓石である。祖父の先代は子が無く、病に倒れ家系が途絶えることが確実になった。本家が養子養女を選び跡継ぎを定めた。それが祖父母であった。自分の家は祖父より2代前に本家から分家し、今の土地で農業を営んだと聞いている。仏壇の位牌には家の歴史が刻まれている。初代が他界した時、二代目が墓を建立したか否かは、伝聞が途切れて知るよしもない。墓地は本家が手配したはずだから埋葬はされても、本格的墓石はなかったのかもしれない。

 父は生前、墓石がみすぼらしいと嘆いていた。子供の頃は、墓石にそのような思いを抱いたことはなかったが、年を取るにつれ墓石は品質の良い物でないことは理解できた。父が病に倒れ、退院の見込みが望み薄になった時、墓石の建立を頼まれた。父の望みを詳しく聞き、墓石や付属設備を父の希望通りに仕上げた。新しい墓石に魂を入れる儀式をお寺さんに依頼し、家族全員が墓地に集まった。父は車椅子で臨んだ。

 父はいかなる想いで車椅子に座っていのだろう。建立者として墓石に刻まれた自分の名前を見た時、どの様な想いであったろう。父の名は子孫代々語り継がれるのだ。養子としてこの家で苦労を重ねて来ただけに、父の気持ちを察して余りある。父が積年に亘り、想い描いた願いを手伝えた事は嬉しく思っている。父は半年後、この世を去った。自ら建立した墓に最初に入った事になる。祖父由来の墓石は、お寺さんと相談し同じ敷地に残した。以来、花と線香を手向ける我が家の墓石は、二か所になった。

 三つ目の墓石は、全くの他人の墓である。先祖が生前親しくしていた一族の家が途絶え、墓石と位牌の供養を託された。その家が何処にあり、どの様な人たちであったかは全くわからない。家系は繋がっても、伝承が途切れてしまったからだ。判っているのは姓だけである。仏壇にはこの家の位牌も安置され、墓地には数多くの小さい墓石が並んでいる。位牌を見るとすべて江戸時代の年号であった。ご先祖の供養時、この家の供養も執り行うことは、跡取りの責務として申し継がれている。

 この家から永代供養料として、200坪の畑を貰った。戦中戦後の食糧難時代、この畑の作物にどれだけ救われたことか。畑は自宅からかなり離れた場所にある。自分が小学生の時、日曜の度に鋤や鍬をリヤカーに乗せ、家族総出で畑仕事に精を出した事が懐かしく思い出される。この土地は、父が昔売却し現在はマンションが建っている。父の告別式が終わり火葬場に向かう途中、霊柩車の運転手にお願いして、寄り道をしてもらった。「親父、昔の畑だよ」と、棺桶に声をかけたのが昨日のように思える。

 前述した様に、墓前で手を合わせる時、何時もご先祖に感謝の思いを伝えている。今の生活は、ご先祖抜きには考えられないからだ。江戸時代末期、先祖はこの地で農業を営んできた。本家からの最後の分家であった様だ。大正時代、鉄道の駅が開業し、当時の村長が区画整理を行った。農村から住宅地にうつり変わりつつある時、関東大震災により家を失った人達が都心から移り住んできた。わずかな畑も、駅からのメインストリートで二分されてしまった。農業はできず、祖父は進出してきた商店主に土地を貸し、賃貸業で生計を立てる事を始めた。今に繋がる賃貸業の嚆矢であった。江戸時代から明治にかけて村の中心は、北を走る街道筋に在り、多くの分家は街道周辺に土地を所有している。先祖が当時、辺鄙であった土地で農業を営んだことが、子孫の安定につながっている。有難いことだ。だからこそ、墓前でご先祖に感謝の思いを伝えている。

 墓前で手を合わせる時、縁の不思議を思う。祖父母は養子養女、父は養子、自分は三代目にして誕生した跡取りであった。この宿命が自分の一生に大きな力を及ぼしてきた。家の軛が重苦しくて大学も東京を離れ進学し、就職も敢えて離島の鉱山を選択した。家から離れ自由に飛び回ったつもりでも、親の老化は次第に無視できなくなってきた。そして50代半ばに退職した。両親の最期を看取り、今、末期高齢期を迎えても、跡取りとしての責務を背負っている。生きている限り、この宿命から逃れることはできないのだ。

 若い時は我が道を行き、自分の欲する人生を謳歌しても、宿命という大きな掌から飛び出すことはできなかった。人の魂は輪廻転生する存在である。人はあの世で、次の世ではどの様な環境で自分の魂を磨くか考え、この世に誕生すると信じている。ならば自分がこの家に生まれたのは、自らが選択した事になる。だからこそ宿命から逃れるのではなく、悩みながらも生きることが求められている。若い時は他を顧みず、色々な事を思いのまま重ねてきた。振り返れば、これまでの生き様は、末期高齢期を生きる糧になっている。人の修行は生きている限りだ。自らが生前、望んだ境遇であるのだから。

 人は独りで生きているのではない。先祖との繋がりと、子孫である子や孫たちとの繋がりで生きている。いずれ自分もこの世を去り、戒名にその名を遺すことになろう。幸い、孫達にも恵まれた。歳はとっても、彼らに恥じない余生送らなければならないと思っている。お彼岸の墓参は、彼岸と此岸を改めて考える機会であるのかもしれない。

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