伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2021年8月27日: エベレストの想い出 T.G.

 (最近伝蔵荘日誌に書くことがない。ほとんどGP生君任せで、当方はなかなか筆が(指が?)進まない。書くことを思いつかないからだ。やむを得ず、以前同好会誌に書いた雑文を流用、再掲載する。手抜きである。)
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 最近スカパーで「エベレスト」という劇場映画を見ました。2015年に封切られた作品で、1996年にエベレストで起きた死者16人の大量遭難事件を、ジョン・クラカワーが『空へ-エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』 というドキュメンタリーに書き、それを映画化したものです。ベースキャンプより上の登攀シーンはさすがに実写映像は少なく、特に遭難現場になった標高8000mのサウスコルから頂上に至る登攀シーンは、ほとんどがCGとセット撮影の作り物映像でしたが、小さな飛行場があるルクラからエベレストBCに至るトレッキング行程は、実際のロケ映像が使われていていて、我々も見慣れた風景が次々に出てきて、とても懐かしい気分になりました。

【ラクパと小生】

 このトレッキングルートは二度歩いています。最初に歩いたときサポートしてくれたラクパと言うシェルパが、英語も上手くとても頼りになったので、二度目の時も彼に頼みました。僕は歩くのが皆より遅いので、いつもパーティの先頭を歩かされます。そのお陰で往復2週間の行程で、いつも僕の前を歩くラクパと道中いろいろな会話が出来ました。

 ラクパは数年前までエベレスト登頂をサポートする高度シェルパをやっていて、何度もエベレストの頂上に立っているそうです。最後の登頂の際凍傷にかかり、指を2本なくしています。ちょうど結婚して子供が生まれたばかりで、高収入でも危険な高度シェルパはやめてくれと奧さんに泣いて頼まれ、今は僕らのようなトレッキング客相手のすこぶる平易で安全な仕事をしているのだそうです。彼らシェルパにとって6000m以下は平地を歩くのと同じで、たまに仕事で標高の低いカトマンズに下りると体調がおかしくなると言っていました。

 ラクパの話では、サウスコルから上には、エベレスト登山が始まって以来の数多くの遭難死体がゴロゴロ散乱しているそうです。高所なので腐ることもなく、そのまま行き倒れているのだとか。彼も登攀中に青氷に埋まった遭難死体をうっかり踏んでしまったことがあるそうですが、青っちろい顔にざんばら髪が被さっていで気味が悪かったと言っていました。なぜ死体を下ろさず放っておくのか聞くと、下ろすにしても8000mまで上がれるヘリはない。人力で下ろすしかない。自分の身を守るのが精一杯の高所で、誰もそんなことは考えない。下ろすといろいろもめ事が起きるので、誰も下ろせと言わないのだそうです。マロリーをはじめ、エベレスト登頂に成功した登山者のうち、4分の1は無事生きて下山できなかったそうですから、腐らずに残っている遭難死体は相当な数でしょう。

【ラクパ家のゾッキョ放牧場】

 ラクパの住まいは標高3600mのシェルパの村、ナムチェバザールの小高い場所にあります。谷あいの小さな飛行場があるルクラから歩き始めて、二日目の幕営地はナムチェです。いつもラクパの家のゾッキョ放牧場にテントを張りました。高所順応のため最初にここで必ず2泊しますから、行き帰り合計6泊したことになります。想い出深い、懐かしい場所です。

 ご存じゾッキョはヤクと雌牛を掛け合わせた一代雑種で、大人しく力が強いのでエベレストトレッキングの際の荷運びに使われます。エベレスト街道はたくさんのゾッキョが歩くので、ゾッキョの糞だらけです。テントの回りも糞だらけでした。ゾッキョの糞を気にしていたらエベレスト街道は歩けません。エベレスト街道以外ではなぜかゾッキョは使われず、荷を運ぶのはすべて人力です。エベレストトレッキングではガイドのシェルパと料理人しか付きませんが、ほかのルートだと荷運びポーターを10人以上帯同するのが普通です。

【ラクパ家のリビング】

 標高5600mのエベレスト展望台、カラパタールからの帰途、二度目のラクパ家訪問をしました。その前の年にガイドをしたイタリア人登山家の誘いを受け、イタリアへ出かけてホテルで働いていたのだそうです。ラクパの家のリビングルーム兼ベッドルームで食事をしているとき、カラパタール登頂祝いにとイタリア土産のワインをご馳走になりました。2年前に僕らのガイドをしたとき、ワインが好きだと僕が言ったのを憶えていたのだそうです。前の時はまだ小さかった上の娘さんはすっかり大きくなっていて、カトマンズの小学校に寄宿していると言っていました。

 このトレッキングでは、メンバーのSa君がカラパタールの手前で高山病にかかり歩けなくなり、ラクパが背負って標高4500mのペリチェにある診療所まで下ろし、そこからヘリでカトマンズに運び下ろしました。そういうわけで、先にカトマンズに無念の下山をしたSa君は、ラクパの登頂祝いのイタリアワインは飲みそびれました。

【歩けなくなり酸素吸入を受けるSa君】

 仲間内で一番山に強いSa君ですが、往路カラパタールの手前、標高4300mのディンボチェあたりから高山病症状が出始めていました。カラパタールの手前、標高5000mのロブチェでまったく歩けなくなりました。呼吸困難におちいり、テントの中で一晩、ラクパが用意した酸素ボンベで酸素吸入をしましたが、パルスオキシメータの値は80を下回りました。彼をテントに残してカラパタールを往復した後、標高が500m低いペリチェまで下り、そこからヘリで下山させることにしたのですが、ペリチェに到着した日は、ちょうどカトマンズが年に一度のお祭りで、ただでさえ繋がりの良くない衛星電話を何度かけてもカトマンズの事務所と連絡が取れません。やむなくラクパと相談して、ポーターを数人雇って担いで下ろすことにしました。そのことを診療所のベッドのSa君に伝えると、何としてもヘリで下りたいと言います。相当参っている様子でした。

【Sa君を乗せて離陸するヘリ】

 そうこうしているうちに、ラクパが辛抱強くかけ続けてくれた衛星電話がやっと繋がり、翌早朝のヘリの手配が出来ました。こういうことが可能だったのも、ラクパのような信頼の置けるシェルパを選んだお陰でしょう。 その後Sa君はカトマンズの病院で手当を受けましたが、かなり重度の肺水腫で、あのまま担いで下ろしていたら大事に至った可能性が大きかったそうです。Sa君のヘリは標高4500mのペリチェからカトマンズまで僅か30分だったそうですが、残された我々はそこから歩いて4日かかりました。カトマンズ空港で再開したときは、Sa君もすっかり元気になっていました。

 映画「エベレスト」を見ていて、いろいろなことを想い出しました。もう一度エベレスト街道を歩きたいのはやまやまですが、この歳ではまず不可能です。歩けるときに行っておいて、つくづく良かったと思うことにしています。 (2017年12月6日記)

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