伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2021年6月19日 寝台特急「あさかぜ」に呼び起こされた記憶 GP生

 最近のテレビドラマは一部を除き興味がそそられない。初めて見る若い俳優に馴染めない事も要因の一つである。BS放送で再放送されているドラマは刑事物が多く、20年以上前の旧いドラマも放映されている。出演している今は亡き俳優達も、画面で生存ているが如く、溌剌としているのは魅力である。旧いドラマをHDに録画し、気が向いた時に楽しむ事が日課になったのは何時頃からだろう。先日、十津川警部シリーズの特急寝台列車「あさかぜ」連続殺人事件を扱ったドラマを見た。

 特急寝台「あさかぜ」は東京−博多間を走る夜行列車であり、昭和31年から運行されている。当時新幹線は無く、各地への遠距離移動は特急寝台に依存していた。「あさかぜ」は平成17年にその使命を終えている。テレビドラマの特急寝台列車「あさかぜ」は、遙か昔の記憶を呼び起こしてくれた。

 自分が社会人として旅立ったのは昭和40年、就職先は鉱山・精錬会社であった。当時、日本の鉱山業は、輸入石炭や鉱石に押され衰退方向に進んでいた。就職した会社の精錬所でも、原料鉱石の大半はオーストラリアや南米からの輸入していた。当時、鉱山科の学生でも、就職先を鉱山会社に求める人は希少であった。国内の鉱山に先が無いことは共通認識であったからだ。当時、会社が保有する鉱山は日本では有数の品質と鉱量を誇っていた。場所は長崎県の離島であった。

 鉱山業は多くの若者が望まぬ職業であり、しかも現場は離島である。就職先をこにを選択したのは、都会生活を好まず、自然を相手に仕事をする事に強い好奇心を抱いたからだ。両親もこの特異な就職先の選択に異を唱えなかった。両親が未だ若かったことも幸いした。鉱山は、博多港から約6時間の船旅で島に至り、更にバスで山を越えした先にあった。当時、東京から博多までの交通手段は、寝台特急列車が主流であり、「あさかぜ」に夕方に乗車すると翌朝7時過ぎに博多に着き、8時出港の連絡船への乗船はには最適であったのだ。

 4月半ば東京本社での研修を終え、勤務先に向かうため、夜行特急寝台列車「あさかぜ3号」に乗車した。同行者は、九州の大学鉱山科を卒業した同期生である。2人だけの長旅であった。杯を交わしながら、これからの鉱山での仕事や生活を語り合った。これが彼との長い付き合いの始まりであった。振り返ると寝台列車「あさかぜ」は、2人の人生を乗せ走り始めた様に思える。

 技術屋として鉱山での仕事は、大きく二つに分かれる。採鉱屋と選鉱屋である。採鉱は文字通り地下深く埋まっている鉱石を掘り出す仕事である。この鉱山は、大昔は銀山として栄え、朝廷に献上された銀は白鳳の由来となったと聞いている。当時は、鉛亜鉛鉱山として知られていた。選鉱は物理的、化学的手法により、鉛鉱と亜鉛鉱に選別する仕事である。自分の専攻は選鉱であり、配属先も選鉱課と決まっていた。彼も専門は選鉱であり選鉱課勤務を望んでいた。だが自分の採用が先であった為、採鉱しか空きがなかったのだ。寝台車の中で「俺は選鉱に行きたかったのに」と彼から聞かされた。もし彼が選鉱に進んでいれば、彼の社内人生は大きく変わっていただろう。自分も同じである。寝台特急「あさかぜ」は、お互い運命の分岐点でもあったのだ。

 一年間の選鉱課での研修を終えた時、採鉱課への転職を会社から打診され、彼と同じ職場になった。鉱山の運動会での一寸した出来事が所長の目にとまり、転職要請に繋がったと後で知った。自分が入社して10年後、鉱山は閉山となった。高品位鉱石枯渇が原因である。鉱山閉鎖は多くの鉱員と下請け業者に影響を与えるだけで無く、地方自治体にも多大な影響を及ぼした。彼は閉山時、労働組合の委員長をしており、職場では鉱石採掘だけではなく公害防止設備の責任者でもあった。閉山は組合委員長としての激務に加え、公害問題により町の聴聞会にも呼び出されたのだ。元の部下達からの激しい叱責にも晒されたようだ。自分は閉山1年前に本社転勤となり、閉山時の混乱と苦労を聞かされても実感はなかった。申し訳ない思いであった。

 閉山後、会社が採鉱技術者を集め子会社を設立した。彼はそこの土木部門で働き始めた。当然、掘削を伴う仕事が主体であり、彼は営業から現場まで幅広い仕事に携わっていた。自分は転勤後、横須賀にある採石所跡地の宅地開発に携わったが、運は味方せず2年で撤退となった。本社に戻り仕事も無くブラブラしている時、かっての選鉱係長に、工場廃水処理事業を始めるから手伝わないかと声を掛けられた。選鉱技術を生かし、工場排水中の重金属を除去する設備の設計、施工の仕事である。選鉱課での一年間の研修期間中、この係長には技術面では徹底的に指導された。しごかれたと言って良いだろう。退職するまで20年近くこの事業に従事した。自分もこの仕事が好きで邁進した。もし彼が選鉱で入社していたとすれば、自分がこの仕事に携わることは無かったろう。重金属廃水処理から始まった事業は、食品工場や酒造工場の有機廃水処理に広がり、全国を駆け巡ることになった。退職して27年過ぎたが、現在も事業は継続している。

 彼も土木事業部の責任者として活躍していたが、50代で胃ガンに罹り手術を余儀なくされた。鉱山閉山時のストレスは並大抵ではなかったはずだ。新事業立ち上げがどれだけ大変かは、自分も身にしみている。鉱山と一緒で、土木掘削事業は危険と背中合わせである。長年のストレスが、発症要因ではないかと想像している。新事業開始後、お互いすれ違いで顔を合わす事は極めて少なかった。それだけに、彼が業務に復帰した事は悦びであった。

 自分は故あって50代半ばで退職をした。当時、彼は土木部門の責任者として頑張っていた。彼の体調不良は、耳にしていないので安心していた。退職後何年ほど過ぎた頃だろう、彼が急逝したとの知らせを受けた。葬儀に参列した時、彼の奥様と久しぶりに顔を合わせた。彼とは同期だけでなく、転勤するまで鉱山社宅の同じ棟で隣同士の生活を営んでいた。自分の知っている奥様は、若く溌剌としていた。夫を亡くし、悄然とした彼女と顔を合わせるとは想像外であり、掛ける言葉も直ぐには口に出来なかった。早すぎるあの世への旅立ちであった。

 この世に「もしも」は存在しない。それでも、もし彼が自分より先に選鉱で入社していたとしたら、閉山後、彼の仕事は大きく異なっていただろう。病の発症は避けられたかも知れない。自分も一年間の選鉱課勤務を経験していなかったら、廃水処理事業に従事する事は無かった。土木部門に進むか退職するかの岐路に立たされていた筈だ。誰しも先のことは判らない。その時々、最善と思う選択を重ねて生きてきている。これも運命の然らしめる結果であろう。自ら求めて飛び込んだ鉱山での経験は、その後の人生に力を与えてくれた。高齢期を生きる大きな糧になっている。当時、自分を鍛え励ましてくれた多くの先輩に感謝の気持ちである。特急寝台「あさかぜ」は、社会人として出発の象徴であったのだ。

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