伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2021年5月7日 インターネットの思い出 T.G

 新聞購読をやめたので、もっぱらの情報源はパソコンとスマホである。友人知人とのやりとりはメールとラインで済ませ、電話は滅多に使わない。ちょっと込み入ったニュースや時事解説、技術情報はネットで閲覧する。紙の文章はほとんど読まなくなった。インターネットが老人にとって第一級のライフラインになっている。インターネットの御利益で、ネットとパソコン、スマホがなかったら、世間と隔絶され、世捨て人になる。

 インターネットの思い出は1960年代のアーパネット(ARPANET)開発に始まる。冷戦のさなか、アメリカ国防省が「核攻撃に遭っても途絶しない通信網」の開発に着手して、全米の大学、研究所のコンピュータを電話線で繋ぎ、多額の研究開発予算を注ぎ込んだ。現在のインターネットの原型である。アーパネット研究が世界的なブームになり、日本でも通産省の外郭団体が取り組んで、NEC、富士通、日立のコンピュータを結ぶミニアーパネットを作った。小生を含め、それに関わった各社の社員や担当者らと、アーパネット研究に取り組んでいる欧米の大学や研究所の視察出張をした。まだ新婚ほやほやの駆け出し社員の頃で、生まれて初めての外国旅行だった。

 視察旅行はハワイ大学から始まり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの大学や研究施設を回る、世界一周旅行である。生まれて初めての外国出張が夢のような世界一周旅行だったのだ。ヨーロッパからの最終帰国便が、まだ国交のなかったモスクワ空港経由だったのを憶えている。当時はまだジャンボジェットがなく、旅客機の航続距離が短かったので、給油のためだろう。待ち時間に空港の売店に行こうとしたら、タラップの下に銃を構えたソ連軍兵士が立っていて驚いた。

 訪問したパリのIBMフランスの研究所で、応対してくれた女性研究員にホテルを聞かれ、フォーブル・サントノレのホテルだと言ったら、素敵なところにお泊まりですねと言われた。小汚い小さなホテルだったので、単なるお上手、外交辞令と思っていたが、後日この通りがエルメス本店などが建ち並ぶ、若い女性が泣いて喜ぶ超有名ブランド街だと知った。

 その頃はまだ光通信網は影も形もなく、すべて電話網で繋がれていて、各所でネット通信の基本であるパケット通信とコンピュータインタフェースの研究が行われていた。パソコンもまだ影も形もなく、すべて大型コンピュータが使われていた。ARPANETで用いられたパケット通信技術はまったく新しい革命的な通信概念で、基本的なアイデアはイギリス人が考案したが、実用化にこぎ着けたのはアーパネットである。今のインターネットのベースになっている。と言うか、パケット通信が電話を含めた世界中のすべての通信に適用されている。スマホのパケットもこれのことだ。パケット通信技術はアメリカ最大の発明と言って過言でない。その革新性と効用を考えたら、ノーベル賞を10個ぐらいもらってもいい。

 その後しばらくしてARPANETブームは終わり、世の中の話題にならなくなった。当方の脳内記憶からも消え去っていた。突然それを蘇らせたのは、20年後に発売されたWindows95である。1995年に発売されたWindows95にはネットインタフェースとInternet Explorer(IE)と言うブラウザが搭載されていて、誰でもパソコンでインターネットが使えるようになった。当時のインターネットは実用化されたARPANETが名を改めたもので、知る人ぞ知る存在だった。ヨーロッパの原子核研究機構CERNの研究者達が、もっぱら研究論文の回し読みに使っていたマニアックなネットに過ぎなかった。それを一般人に知らしめ、開放したのがWindows95である。一躍Windowsブームが巻き起こり、誰でもインターネットを知るようになった。マイクロソフトのビル・ゲイツは世界一の大金持ちになった。

 その少し前に、アメリカ国防省がCALSという軍事物資調達効率化のための活動を推進していた。今で言うサプライチェーンネットで、データをすべてデジタル化し、ネットで取引を行う、一種のB to Bである。。日本も当時の通産省がCALS団体を作り、予算を付けて推進した。小生もその一員に加わり、アメリカやヨーロッパの連中と盛んに交流し、議論をした。日本でもCALSブームが起き、お台場のビッグサイトでCALSエキスポを開いた。CALSの大家になった小生は、「CALSが分かる本」を出版したら20万部売れ、印税で車が一台買えた。そこら中でCALS講演会に引っ張り出され、講演料がいい小遣い稼ぎになった。その頃はまだインターネットが貧弱だったので、欧米のCALS関係者とのやりとりはメールではなく、もっぱらファックスに頼っていたのを憶えている。96年以降は会社のパソコンにもWindows95が入り、ネットで添付メールを送れるようになったが、電話網のスピードが遅く、大量の書類の転送には時間がかかった。高速の光回線が普及し始めたのは2000年以降である。

 CALS自体は当時のインターネットやデジタル化技術が未熟で実用化に至らず、やがて消えてなくなったが、これをちゃんと真面目に続けていたら今のデジタル庁は必要なかっただろう。日本人のネットオンチ、デジタルオンチも少しは解消されただろう。今頃盛んにDXが言われているが、CALSがやろうとしたことと瓜二つである。真面目にCALSに取り組まなかった日本のDXは10週遅れである。

 現役の頃は日本の代表的なITカンパニーに勤めていたが、インターネットは会社も自宅も低速の電話回線を使っていた。2003年に会社を定年退職した後、自宅のネット回線を当時サービスが始まっていたADSLにした。ADSLは電話線にデジタル信号を乗せる技術で、普通のダイアルアップ回線に較べて、スピードが10倍ぐらい速くなった。その頃から光回線が普及しはじめ、2年後の2005年にNTT東日本の光回線、Bフレッツにした。自宅までの光回線敷設工事が終わり、ルータにパソコンを繋いで見たら、あまりの速さに驚いた。まさに光速、ADSLの数十倍の速さである。それから15年、今では地球上の至る所に光ケーブルが敷設され、誰でも容易に光通信の高速インターネットが使える世の中になっている。

 若い頃にかかわったARPANETが、50年経ってこのような壮大な、地球規模のネットワークに発展するとは夢にも思わなかった。長生きはするものである。

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