伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2021年3月25日 遙かなる山脈・南アルプス合宿の記憶 GP生

 羽鳥湖仙人が、南アルプス夏合宿の写真を次々に送ってきてくれた。旧いネガをスキャナーで処理し、陽画に起こす面倒な作業の成果である。写真により60年近い昔の記憶が呼び起こされた。

 ワンダーフォーゲル部の行事で、極めて大切なイベントが二つあった。新人を歓迎する泉が岳合宿と夏合宿である。新入部員の多い年は、大規模な歓迎合宿となり、テントの確保にTG君達と苦労した事もあった。新人は長い受験勉強により体力は衰えている。自分もかってそうであり、夏合宿に備え、長期の山歩きに耐えられる体力造りが急務であった。放課後、新人達と毎日ランニングを続けた。合宿中、一人の脱落はパーティー全体に影響を及ぼす。夏合宿を無事に過ごすには、体力が基礎なのだ。トレーニングを続ける内に一人二人と退部していく新人も増えていった。

 夏合宿は、ワンダーフォーゲル部最大のイベントである。夏合宿を何処で行うかは、新人の数や体力を勘案し、5月の連休過ぎから具体的な議論を始めた。5月の連休は、新人強化合宿を宮城・山形の県境・二口峠を根拠地にして行った。ホームベースは宮城県側にある無人の山小屋・伝蔵荘である。この日誌名の基になった山小屋でもある。この合宿を終えると、新人達の全体像が見えてくる。強化合宿は、夏合宿の候補地を絞る重要な要素であった。

 自分が三年次の時、新入部員は今まで以上に多かった。強化合宿やトレーニングを経ても退部者は少なく、このまま夏合宿に移れば、保有のテントでは収容しきれないことは明白であった。熟慮の結果、新人中心の合宿と、二年生以上の部員による合宿に分けることになった。新人合宿は飯豊・朝日連峰で行うことを決めたが、問題は旧人合宿の場所である。当時、ワンダーフォーゲル活動を続けている内に、東北の山ではなく中央高地を歩きたいとの想いが、同期の仲間達に強くなっていった。TG君や故TO君と協議を重ね、南アルプス連峰での合宿を決めた。当時の南アルプスは、何処から登るにしてもアプローチが長く、山小屋も限られていた。一般の登山客が、容易に近づけない山であったのだ。我々は、そこに魅力を感じたのだと思う。

 南アルブスの研究とパーティー編成やコース選択の検討が始まった。当時の資料と山日記は卒業前の寮火災により焼失し、残っているのは記憶だけである。それも次第に薄れている。TG君、TO君、MA君をリーダーとするパーティーと、羽鳥湖仙人と自分のチームの4パーティーを編成し、それぞれ別のコースを歩き、南アルプスの中心に位置する三伏峠への集結を決めたと記憶していた。チームは8人前後、テント二張りが基本単位であった。所が羽鳥湖仙人が送ってくれた写真に、2年生女子部員二人を含む7人のパーティー隊列を組んで歩く姿が写っていた。遠方からの写真なのでリーダーが誰であったか判別が就かない。羽鳥湖仙人もTG君にも記憶が途切れていた。今になっては謎のチームだ。別働隊を編制したのかも知れない。自分のチームメンパー名も写真を見るまで、半数近くしか記憶に無かった。他のチームのコースもメンバーも記憶の外である。60年近い昔の事である。焼失した記録があれば全て解決なのだが。

 TG君の記憶は鮮明である。彼のチームは甲斐駒ヶ岳から仙丈ヶ岳、北岳三山、塩見岳を経て三伏峠に至るコースを歩いている。これらの山々は当時でも、南アルプスの代表的コースであった。TG君達は、農鳥岳から間ノ岳に登り、引き返す途中、間ノ岳山頂で北岳方面から来た故TO君のパーティーとすれ違った。この時、野球帽にショートパンツ姿で歩く色白のTO君が、日焼けした脚で歩いていた事が強く印象に残っているそうだ。TG君は、TO君というと、思い出すのはこの時の彼の姿だと言ってる。甲斐駒ヶ岳の麓では、二年生で既に退部していた同期の女子部員・NAさんのお宅に宿泊し、翌日、オート三輪で甲斐駒ヶ岳の登山口まで送って貰っている。そのNAさんも、若くしてこの世を去ってしまった。

 我々のパーティーは南アルプス最南端の山・光岳から北上し、三伏峠を目指すコースを選択した。当時、このコースはアプローチが長く、高峰を幾つも超えなければならない難コースとして知られていた。登山者も当然少なかった。この条件が、このコースを選択した理由であったと思う。

 覚悟はしていたが、アプローチに2日を要した。東海道線の金谷から大井川鐵道に乗り換え、千頭で下車し寸又渓谷を遡った。真夏の炎天下、唯ひたすらに街道を歩くだけであった。長期合宿の装備と食料は半端ではない。皆に均等に分散しても、ザックの重量は50キロ近くあったはずだ。唯、隊列を組んで黙々と歩を進めた。暑さにより疲労困憊した姿の写真を羽鳥湖仙人が送ってきてくれた。光岳からの眺望を思い描き、我慢、我慢の街道歩きであった。この記憶は今でも鮮明に残っている。この日は無人の小屋に宿泊したと羽鳥湖仙人は言っているが、自分は記憶していない。

 翌日も山間の道をひたすら光岳を目指した筈だが、この間の記憶も欠落している。記憶に残る景観は無く、唯足下を見て歩いたからだろう。光岳の山頂に辿り着いたときの開放感と、遙か彼方に駿河湾を望む景観は素晴らしかった。この感激は長いアプローチに耐えた者への褒美である。現在のように麓ギリギリまで車を乗り付け、最短で山頂に立つ者には決して味わえないであろう。

 ここから長い縦走が始まった。南アルブス南部の主峰は赤石岳3,120mである。まず、ここを目指し歩き始めた。南部の尾根は幅広でなだらかであり、場所によっては高原を歩いているような錯覚を覚える場所もあった。赤石岳に準ずる巨峰は聖岳3,013mである。羽鳥湖仙人が送ってくれた写真に、赤石岳山頂でメンバーが写っている一枚があった。縦走途中の山とは言え、赤石岳到達は大きな目標の一つであった。この写真を眺めていると、遙か昔の事であっても、深い感慨を覚える。

 羽鳥湖仙人の写真の多くは、南アルプス連山の写真である。50枚以上送ってくれた写真の殆どは、山また山である。羽鳥湖仙人は、雄大な南アルプスの山々に魅せられたこそシャッターを切り続けたのだろう。この内の何枚かに、遙か東南方向にそびえる富士山の写真があった。距離は遠く離れていても、雄大且つ優雅な富士の姿は今でも鮮明に思い出せる。これらの山々の写真を眺めていると、岩山でも荒々しさはなく、周囲のなだらかな山脈と調和している南アルプスの素晴らしさを感じる。しかも雄大である。

 この合宿の最後の記憶は、三伏峠から北上し塩見岳を目指した帰りに、脚を怪我してうずくまっている若い男性登山者に出会った事である。見過ごすわけにはいかなず、怪我人を背負い三伏峠の山小屋まで運んだ。人を担いだ最後の経験である。合宿前に幾ら準備しても、山の中では想定外の事は発生する。一番多い事故は、脚を捻ることによる捻挫である。怪我人を麓まで降ろす仕事は、何時も自分に廻ってきた。楽な行為ではないが、助けられるより助ける方が勝ると心に刻み、背負い続けた。担いだのは全て男性であり、女性を背負った経験は無い。

 合宿終了後、持参した食料品が多く残っていた。食品だけでなく体力も残っており、合宿に参加した同期の仲間と、八ヶ岳山麓の白駒湖畔でキャンプをすることになった。同期の主力メンバーの殆どが参加した。前日はMA君のお宅の庭にテントを張り宿泊し、夕食をご馳走になったことを覚えている。白駒の池での滞在中、同期の仲間との懇親が大いに深まり、南アルプス合宿の総仕上げとなった。

 今月初め、南アルプス合宿の写真があれば送って欲しいと、羽鳥湖仙人に依頼をした。当時、カメラを持っている学生は限られていた。TG君のチームはカメラ持参者はおらず、一枚も写真がないそうだ。羽鳥湖仙人はカメラが趣味であったのだ。自分は羽鳥湖仙人と同じパーティーになったのは僥倖であった。彼が再生した写真には心を動かされた。末期高齢期を迎え、若き日の記憶覚醒は、寿命が伸びる思いである。羽鳥湖仙人に感謝である。

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