伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2021年3月10日 旧い写真から蘇る青春の記憶 GP生

  先日、羽鳥湖仙人が山歩きと旅行の旧い写真二組を送ってきてくれた。当時はカメラを持っている学生は希少な存在であった。若い時から、羽鳥湖仙人はカメラが趣味で、多くの写真を今も所蔵している。自分の写真は、生活の拠点であった寮が卒業直前の3月に焼失、写真だけでなく山行記録を含めて全てが灰になって仕舞った。焼け残ったピッケルヘッドを手に持ち、呆然として焼け跡に立ち続けていた記憶は今も鮮明である。

 送られた最初の写真は、泉ヶ岳へ部室から徒歩で往復した時の物である。泉ヶ岳は仙台市の北西部にそびえる標高1,175m、船形連峰の東端に連なる山である。仙台市内からも一望できる近場にあり、仙台市民の憩いの山とも言える。ワンダーフォーゲル部の新入生歓迎合宿は、泉ヶ岳の裾野にテントを張り、夜は盛大なキャンプファイヤーを行うのが恒例であった。船形連峰を西に進むと名山大東岳に至り、二口峠を経て蔵王連峰に連なったいる。宮城と山形の県境にある二口峠を北に下ると、有名な山寺に至り、峠の直下にある無人小屋・伝蔵荘はこの日誌名の由来にもなっている。当時、これら山々は我々のホームグランドであった。

 部室で雑談をしているとき、泉ケ岳へ徒歩で往復する山行きが話題になり、早速プランが練られ実行に移された。当時ワンダーフォーゲル部の部室は、教養部川内キャンパスの一角にあり、幾つかのサークルが建物内に同居していた。川内キャンパスの敷地は広大である。江戸時代は仙台城の二の丸と武家屋敷があり、明治に入ると旧陸軍第二師団の司令部や各種部隊おかれた。戦時中に大規模な空襲を受け、川内の多くの建物が焼失した。戦後、敷地は占領軍により接収され、米軍キャンプ地として使われていた。昭和32年、全てが返還され、大学教養部キャンパスとして授業も改修された施設で行われていた。自分が入学したのは昭和35年であるから、返還僅か3年後である。川内キャンパスは、米軍の兵舎然とした二階建ての建造物が軒を並べ、非日本的光景を呈していた。当時の写真を見ると白ペンキは剥げ落ち、見るも無惨な建物である。

 ワンダーフォーゲル部は、入部当時、部では無く同好の士が集う同好会に過ぎ無かった。先輩諸氏の努力により翌年部として正式に発足した出来立てのサークルであったのだ。ワンダーフォーゲル運動の発祥はドイツであり、ワンダーフォーゲルとは渡り鳥を意味する。渡り鳥の如く野山を歩き自然と親しむ運動である。日本では原野は少なく、自然が色濃く残っているのは山岳地帯にしか無い。日本の各大学に創立されたワンダーフォーゲル部が、山歩きに特化していったのは自然の成り行きであった。山岳部は困難な山に挑戦する意味合いが強いが、山々を伝い歩くのがワンダーフォーゲルである。ワンダーフォーゲルは略してワンゲルと呼ばれている。

 泉ケ岳徒歩往復を行ったのは2年生の時である。部の活動方向が幾らか見えてきた時代であったが、合宿以外は仲間同士で勝手な行動をしていた。組織も無いに等しい状態で、行動計画書をキャプテンに提出し許可を取る事など想像すら出来なかった。細かい経緯は記憶の外である。言い出したのは自分と一年先輩のWAさんだと思う。それに同期の羽鳥湖仙人とOK君が賛同し、一年生の男子1人と女子2人が参加した。カメラ所有者は羽鳥湖仙人のみであった。

 出発前に部室の前で写真を撮り、泉が岳目指して歩き始めた。途中の記憶は殆ど残っていない。仙台の街中を抜け、郊外の畑や林の中をただ黙々と脚を進める平凡極まりない行動であるから、印象に残ることは無かったのだろう。徹夜で歩くと決めても仮眠は必要である。無人の建物で休息した時の写真が残っている。恐らくそこで仮眠を取ったのだと思うが、記憶に残っていない。疲労感が見られる一枚である。野宿したと錯覚していたが、そうではない事を写真が示していた。

 もう一組は、翌日、泉ケ岳の中腹にある水場で休憩している写真である。湧き水が旨い有名な水場であるが、幾ら考えても名前が思い出せない。60年も昔の事である。無理も無いのだ。写真の女性一人は教養部を終えてから退部したので、その後の消息は分からない。もう1人は卒業後、同期の仲間と結婚し今も元気で暮らしている。先輩WAさんは永い闘病生活の末、6年前に他界した。自分と同期の二人は健在であり、彼等とは、コロナの今はメールと電話で繋がっている。これらの写真を眺めていると、当時の事が次々に頭をよぎり、あの頃に戻りたい想いに駆られるが、叶わぬ夢である。

 もう一組の写真は1年次の春休みに、ワンゲル同期の仲間と岩手県の鉛温泉に逗留したときの物である。羽鳥湖仙人もTG君も参加している。食料持参で、宿から借りた鍋釜を使っての自炊であった。TG君に依れば花巻市内で食料を買ったそうだが、記憶に残っていない。宿泊費は極めて安く、学生でも長逗留が出来た時代であったのだ。東北の3月は未だ積雪が多く残っていたことが、写真からも判る。参加者6名の内、1人の名前が分からない。誰に聞いても覚えていないのだ。60年前の記憶だからやむを得ない。TG君は10年前にこの旅館に宿泊したそうだ。近代的な旅館に変貌した今、自炊宿泊など有る筈がない。我々は良き時代に学生生活を過ごしたのだ。

 鉛温泉逗留の記憶は、ぼんやりとしか残っていない。写真を見たとき、二学期の試験休みを利用して逗留した温泉と錯覚したが、秋にあれだけの積雪がある筈が無い。ワンゲル時代多くの山々を歩いたが、多くの記憶は途切れている。山日記と写真が現存していれば、これらを眺めることで記憶の欠落は生じ無かったと思う。卒業を目前にした寮火災が悔やまれる。

 火災は鉱山精錬会社に就職も決まり、離島の鉱山で社会人としての一歩を踏み出そうとする直前であった。勤務地は山歩きを出来る環境では無い。火災の当日は、自分の誕生日であった。これは過去と決別して、新たな道を進めとの啓示と捉え、全ての焼失を自分に納得させた。幾ら悔やんでも、失われた物は戻らないからだ。愛する人や親しい友の存在あればこその思いであった。今はあの火災が無かりせばとの思いに駆られる。

 記憶は薄れても、山歩きを共にし同じテントに寝袋を並べ、飯盒の飯を食べた仲間の多くが健在である。末期高齢者にとっては有難いことである。60年を過ぎても、当時の写真を送ってくれる友も居るのだ。言わず語らずで気持ちが通じるのは、利害関係が一切無く、時間を共有したワンゲルの仲間しか居ない。縁があり始まった交友関係が、出会いから60年以上経ても続いている事は、お互いにとって財産でもあるのだ。この間多くの友を失ってきた。彼等彼女達が健在なればとの想いは強いが、叶わぬ願いである。末期高齢期を迎え、胸躍る思いに駆られることは滅多に起こらない。だからこそ、過ぎ去った青春の記憶に心が躍るのであろう。

 ワンゲルの仲間達との交友が60年も続いたのは偶然では無い。卒業後暫くして、TG 君と仲間達が八ヶ岳山麓に建てた山小屋・伝蔵荘が在ってこそだ。ここで春秋の二回、例会と称する定期集会を行い、飲み、喰い、雑談や山歩き、ゴルフ等を楽しみ、数日を過ごすことを続けてきた。仲間同士の宿泊利用も頻繁に行われていた。自分が参加したのは50歳の半ばである。最初の日、何十年ぶりに再会した仲間も居たが、会った瞬間直ぐに打ち解け、昔と同じ気持での付き合いが始まった。毎年、例会に出席するにつれ、交友が深まるのは当然の成り行きである。伝蔵荘無かりせば、60年を超える親密な交友関係は存在しなかったと思っている。

 送られてきた写真から青春の想いが心をよぎり、末期高齢期を迎えた心を和ませてくれた。遙か昔、このような学生時代を過ごせたのは、両親を始め多くの助けがあったからだ。自分を支え助けてくれた人達は、もうこの世には存在しない。改めて感謝の想いに駆られる。自分も含め友人達も皆、末期高齢者である。先は見えていても、交誼が少しでも永く続くことを願っているのは自分だけでは無いはずだ。もし仲間達との交流無かりせば、今の生活は寂しい物になっていただろう。縁の糸が切れ無いことが、如何に大事か痛感している。

 記憶は時の流れと共に薄れていく。間違った記憶にすり替わることもある。自分は日頃感じた事をテーマにして、この日誌に投稿してきた。病に関する記述も多くなった。闘病の記憶さえも細かいことは時間と共に薄れても、伝蔵荘日誌を読み返すと当時が鮮やかに蘇ってくる。写真や文章を残すことは、過去の自分を振り返る貴重な材料になるのだ。羽鳥湖仙人はネガフィルムをパソコンで陽画に転換する面倒な操作をしていると聞いている。今回送付されてきた写真も、彼の苦労の成果であろう。有難い事である。

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