伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2021年2月6日 高齢者の身体と心と伝蔵荘日誌 GP生

人はこの世に誕生すると、心と身体を成長させながら育っていく。身体の成長は二十歳初め頃終わりを迎えるが、心の成長は生有る限りと思っている。加齢の進行と共に身体能力は衰え、多くの友人達は70歳前後の厳しい坂を越えること無くこの世を去って行った。肉体が衰えた結果だ。この頃の自分は、思うように身体を動かすことができ、何時までも同じ生活が続けられると思っていた。両親から授けられた頑健な躰のお陰でもある。自分の身体がそれまでとは異なると感じたのは、70歳台の半ばであった。排尿中に血液が混入することから発覚した前立腺ガンにより、2年半に及ぶ治療を余儀なくされた。加齢の進行と共に、少しずつ衰えてきたであろう身体に、決定的ダメージを与えたのだ。

 80歳台になると、身体の衰えは更に顕著になってきた。最初に自覚したのは指である。小さい物を持った時、意識しないとポロリと落とす事があるのだ。指の力では無く、指先の感覚が鈍ってきたとしか思えなかった。ビンや容器の蓋を意識して閉めないと中身をこぼすことすら生じた。更に、手の握力に衰えを感じてきた。ビンの蓋を開けるときだ。以前なら簡単に廻す事ができた蓋が、手が滑ってしまい力が入らないのだ。間違い無く、肉体の衰えである。

 新聞報道に依れば、新コロナによる死者の半数近くは80歳以上の老人で、その殆どは腎疾患や肺疾患、糖尿病等の基礎疾患を持っていたそうだ。自分も腎盂ガンにより、3年前左腎臓を除去している。今のところ右腎臓は懸命に頑張っているが、所詮一つしかない腎臓である。血流が向上することが腎機能を高める要因であるが、自分の不摂生と不注意により、昨年末激しい貧血に見舞われた。血液の多くが胃からの出血により失われたのだ。輸血により最悪の危機は脱したが、未だ正常に戻っていない。高齢者の造血機能は、若い時のそれでは無いからだ。免疫力も低下していることは間違い無い。この状態で新コロナに感染すれば、ひとたまりもないだろう。

 高齢者の貧血は一朝一夕には回復しない。遅々たる歩みである事を実感している。日常生活は一変した。車の運転を封印しているため、行動範囲が限られて仕舞ったためだ。ジムに通うことも出来なくなった。電車と徒歩により可能であっても、そこまで気力が回復していない。運転能力を低下させないために、一日1回はハンドルを握って来たことが、遙か昔の事に思える。

 病院での血液検査の結果、クレアニチンの値は更に上昇し腎機能悪化の傾向が顕著になった。貧血と血流悪化は腎臓の大敵である。中医鍼灸師の指示で、腎気機能を高める漢方薬・「亀鹿仙」と貧血回復の「牡蠣オイスター」は服用している。「冠源顆粒」は胃潰瘍との兼ね合いから服用していない。衰えつつある腎機能を維持するには、鍼灸治療は再開する必要に迫られていた。正月が明け暫くして、休みながらの外出が出来るようになりタクシーよる通院を再開した。

 最初の治療時、中医鍼灸師から「筋肉が落ちましたね」と言われた。無理も無い、入院中は勿論、退院してからも寝たり起きたりが続き、外歩きが激減したためである。血流の源である筋肉量が低下したことは、腎機能に影響を及ぼす。復活のため、これから長い努力が必要であろう。高齢者の筋力も元に戻るのは容易ではない。高齢者の肉体は病の度に衰えが進み、以前の状態に戻ることが困難になるのが現実である。

 高齢者にとって体力と気力は表裏一体である。特に入院ともなると気力は衰え、退院しても暫く衰えたままで、日常生活すら意を決しないと行動できない状態に陥る。それでも心の働きに衰えは感じ無かった。入院中、これまでの事々や退院後の生活、仕事のことに想いを馳せた。如何なる状況に陥ろうと、心まで萎縮したら立ち直る事は困難になる。ベッドに身を横たえながら、高齢者の心は、それまで積み重ねて来た人生の集大成であり、余生はその影響から逃れられない事に想いを馳せた。

 人生の目的を金品と考え、人から物を貰ったとき「いいの」と一言で、感謝の言葉は出てこない知人の高齢女性がいる。彼女は「貰ってしまえば、もう自分の物だ」と、他の人に本音を漏らしている。高齢者にとって、生活のための金品は必要であっても執着は別である。幾ら金品を蓄積しても、あの世に持って行け無いのだ。以前、彼女と心の存在について雑談したことがある。この時、彼女の結論は、心は生きている限りのものであり、「死んだら無」であった。心の中心である魂は、この世とあの世を輪廻転生する存在である事を知れば、金品はこの世で生きる手段に過ぎず、執着すべき物では無いと思うのだが。

 経済的に裕福であることが生き甲斐であり、周囲に誇り、語る人に、多くの人達が共感を覚えることは無いだろう。近隣の知人は、若い時から金銭感覚に極めた優れた能力を有し、高齢期の今、蓄積したお金により優雅な生活を送っている。彼は行く先々で自らの富を語るのが常であった。今、彼には人が寄りつかず、淋しい余生を送っている。人の心は金では買えないのだ。彼にはお金しか誇る物で無いように見える。もし経済的に恵まれていたとしたら、足るを知り感謝する心が大事と思っている。

 80歳を越えた知人女性は、生まれ育った環境故、小さいときから周囲の中傷を受け成長してきた。成人となっても、心を許した恋人を諦め、親の勧める相手と結婚せざるを得なかった。結婚後も店の責任者として頑張るも、沢山の小姑の中で苦労を重ねてきた。姑に信頼さた事が彼女の救いであったろう。昔から、なさぬ仲の典型は嫁と姑と言われているが、彼女の人柄と心が、姑の信頼を勝ち取ったのだ。

 昔、彼女は進学した女学校の校長から多くの薫陶を受けた。中でも「1人でも自分を信頼してくれる人が居れば、良しとすべき」との言葉は、彼女の心の支えとなり苦難を乗り越えたと思われる。彼女の生来の優しい心根が、姑の心を捉えたのだ。彼女の心に応えてくれた姑の配慮が、安定した老後を過ごせる基になっている。彼女は優しい心だけで無く、強い信念を持っていたからこそ、厳しい環境を乗り越えられたのだろう。彼女は舅姑の最期を看取り嫁としての責務を全うした。今も多くの人達から慕われる彼女は、心豊かな老後を満喫している。

 中高時代に学んだ「心力歌」に、次のような一節が有る。「われに守る所なく、われに恃む所なければ。境によりて心うつり、物のために心揺らぐ。得るに喜び失ふに泣き、勝ちて驕り敗れて怨む。喜ぶも煩ひを生み、泣くもまた煩ひを生む。驕れば人と難を構へ、怨むも世と難をなす。」更に、「甲斐無き今日を送りつつ 明日の望みに生きるを知らず」と続く。自分の心に染みついた一節である。人にとって「心を養い豊にすること」が、「我を守り、我を恃む」事に繋がると説いている。高齢期には、誰しもが自らの生き様の結果を知ることになるのだろう。

 高齢期になれば自分の心を整理し、過去の過ちを反省することは、余生に悔いを残さない準備であると思っている。昨年末の貧血の経緯は、伝蔵荘日誌に何回か投稿してきた。愚かな行いが自らの心身を痛めたことは、してはならない事である。この思いを文章にする事は、同じ過ちを犯さないよう心に刻み込むためでもある。文章は何時までも残る反省材料でもあるのだ。これからも身体と気力の老化は、更に進行するであろう。老化の進行が心の衰えにならない努力も又必要である。自分は日常感じた事をテーマにして伝蔵荘日誌に投稿してきた。もし心が本当に衰えたとしたら、日誌の投稿は出来なくなるだろう。伝蔵荘日誌への投稿は、心が健在である証でもある。自分が何時まで投稿できるかは判らない。それでもTG君が伝蔵荘主として、何時までも健筆を振るってくれる事を願っている。

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