伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2020年11月27日: 高齢者の「蒙古放浪の歌」への想い GP生

 先日、テレビの旧い刑事ドラマで内野聖陽演じる刑事が思いにふけりながら、東京湾の手摺に寄りかかり海を眺めていた。そして「心猛くも 鬼神ならぬ 人と生まれて 情けはあれど」と口ずさみだした。「蒙古放浪の歌」の出だしである。この歌を聴いたのは何十年振りだろうか。自分も思わず口ずさんた。歌詞は自然に口を次いで、四番まで滞りなく歌えたのだ。昔、学生時代や就職先の鉱山寮で仲間達と歌ったことを思い出した。歌詞は今も、頭の何処かに残っていたのだ。この歌に、心を引き付ける何かが有ったとしか思えない。

 この歌が世に出たのは昭和の初期、若者達がアジア大陸に憧れ、満蒙の旅を夢見た時代であったと言われいている。作詞・作曲者は不詳である。この歌は旧制高校の寮歌のように扱われ、学生達に歌い継がれてきた。自分が仲間達と共に学生時代を過ごしたのは、昭和30年代の中頃である。今思うと、旧い時代の学生意識が色濃く残されていたのだ。平成や令和の学生達がこの歌を口ずさむことはないし、歌の存在すら知らないだろう。「蒙古放浪の歌」は戦後、鶴田浩二や加藤登紀子が歌っていたそうだが、自分は記憶に無い。自分が何処でこの歌を覚えたかは定かでは無い。

 「蒙古放浪の歌」は遙か彼方の記憶になっていた。歳をとるにつれ、世にまみれ、目前の現実に没頭する内に、歌の心から遠のいていたのだ。久しぶりに聴いたこの歌により、忘れていた若い時代の思いが蘇ってきた。あの時代、この歌が胸に響いたのは、哀愁に満ちたメロディーと心に訴えかける歌詞が、男心と共鳴したからだと思う。一番の歌詞は更に「母を見捨てて波越えてゆく 友よ兄等と何時亦会わん」と続く。この歌の主人公が目指す先は、二番の歌詞「波の彼方の蒙古の砂漠 男多恨の身の捨て所 胸に秘めたる大願あれど 生きて帰らむ望みはもたじ」である。何故、悩み多き男が決して戻らぬ覚悟で海を越え、何を求め蒙古の砂漠を目指したのだろう。

 学生時代、この歌が心に沁みたのは何故だろう。前途洋々たる将来が自分を待っていると、心が高鳴った時代であったのだ。学生時代は必ず終わりが来る。将来に対する夢を抱いても、未知の世界に対する不安も亦抱いていた。先のことは誰にも判らないのだ。荒涼たる砂漠の如き地であるかも知れない。だからこそ希を達するまで、生きて帰らないと覚悟した歌詞に共鳴したのだろう。将来を心に描いていた多感な学生時代であったからこそ、この歌に引き付けられたのだろう。

 卒業前に鉱山精錬会社に就職が決まった。この会社の主力鉱山は、離島対馬にあった。当時は博多港から僅か500トンの連絡船に乗り、玄界灘を越え、厳原港まで6時間を要した。厳原港から鉱山までは更にバスによる山越えが待っていた。当時は新幹線は無く、東京からは夜行寝台列車「あさかぜ」に乗り、博多に向かうのが常であった。丸2日に及ぶ長旅である。玄海の「波越えてゆく」地であったのだ。就職が決まっても、鉱山社会に何が待っているかは判らない。当に「波の彼方の蒙古の砂漠」の心境であった。

 以前の日誌にも書いたように、自分は我が家の跡取りとなる宿命を持って生まれてきた。二代目である曽祖父は失明し、連れ合いは出奔した。親戚が集まり養子養女として迎えたのが、祖父母であった。誕生した子供は女子二人のみ。長女で有る母は養子を迎えた。そして誕生した男の子は、正真正銘の三代目として育てられた。特に、祖母には溺愛された。祖母が亡くなる直前まで、祖母に抱かれて寝床についていたのだ。そして耳元で「おまえは跡取りだ、跡取りだ」とささやかれた。成長しても、それがトラウマになった。

 成長しても跡取りとしての自覚はあったが、何処かに重苦しさがあった。束縛から解放され、自由になりたいとの思いが強かったのだ。離島の鉱山会社に就職すれば、我が家に万が一の事態が生じたとき面倒な事になるのは判っていた。親し友人達とも会う機会は無くなってしまう。全てと決別して、別の世界に飛び込んで見たいとの気持であったのだ。だからこそ「母お見捨てて波越えていく 友よ兄等と何時亦会はん」の歌詞か胸に響いたのだろう。

 もう1人、鉱山会社に就職した友人は、鉱山工学科の学生寮で最も親しい仲間でもあった。彼は就職した北海道の鉱山を一年で退職した。純な気持の持ち主である彼は、人間関係の塊である鉱山社会には不向きであったのだ。心配はしていた。東京出張時に一度会い、教育関係の会社で働いていると聞き安堵したし記憶が有る。それが卒業後、顔を合わした最初で最後であった。退職後、同期会で彼が40代で自ら命を絶ったことを知った。理由は分からない。ついに再び会い語ることが出来なくなったのだ。「友よ兄等と 何時亦会わん」との想いは、むなしさに替わった。

 三番の歌詞は「砂丘を出でて 砂丘に沈む 月の幾代か我らが旅路 明日も河辺が見えずば何処に 水を求めん蒙古の砂漠」である。砂漠には河が存在するはずは無い。水を求めても何処にも見つけることは出来ない。この気持が身にしみたのは鉱山勤務の末期である。優良な鉱石は掘り尽くし、新たな鉱脈を見つけるのに必死になっていた時代であった。それまで僥倖に恵まれ新しい富鉱帯を掘り当てたことも有ったが、鉱山の末期には懸命な努力も報われることが無かった。僥倖は訪れなかった。砂漠で水を求める努力と空しさは同じであったのだ。その後、鉱山は閉山に至り、現在、鉱山の坑内は水没し、社宅群も取り壊されている。この地に居住しているのは、地元民と公害管理に従事する僅かな社員のみである。遙か昔、夢を抱いた鉱山は砂漠と化した思いである。

 四番の歌詞は、「朝日夕日を馬上に受けて 続く砂漠の一筋道を 大和男児の血潮を秘めて 行くや若人千里の旅路」である。閉山間際の鉱山から転勤になったのは、30代初めである。まだ若かった。希望は捨ててはいなかった。社内で新たの事業に挑戦し続けた。そして全てを捨て波を越えたつもりでも、23年の時を経て実家に戻って来た。その後、老いた両親をあの世に送り、今は家業を継いでる。跡取りの責務は間違い無くなく果たした。祖母のトラウマから、逃げることは出来なかったのだ。既に若人で無かったが、一筋道ではない迷い道を進んで来たことに間違いは無い。それでも、この四番の歌詞には、心が揺さぶられる思いである。

 既に若人では無い高齢者でも、生きている限り何かを求め、「続く砂漠の一筋道」を悩みながら歩き続けならないのだ。この歌は、人が生前心に秘めた、この世で生きる目的を求める歌であるのかも知れない。多感な学生時代、この歌に心を打たれたのは宜なるかなである。高齢期を生きる身としても、自らの目的が何であったかは定かではない。将来に対する大願が有るわけでは無い。母は既にこの世の人では無い。高齢者の行く末は永くは無いのだ。それでも、この歌を聴いたとき、心高鳴る想いに駆られる。若き日に感じたこの歌に対する想いは、高齢期の自分の心にも残されていたのだ。高齢者にとっても千里の旅路は、道半ばであるからかも知れない。千里の旅路は、次の世にも続いているのだろう。

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