伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2020年11月21日: 高齢者の運命と縁の糸 GP生

 高齢者は自らの半生を振り返ったとき、大きな感慨を覚えるだろう。若い時代は前途洋々たる大海が開けていた。70歳や80歳を迎えるのは遙か先との思いだ。自分もそうであった。しかし時の流れは光陰矢の如しである。子供の頃は、「早く来い来いお正月」でも、加齢を重ねるにつれ、「もう正月だ」に替わる。高齢者にとって時の流れは残酷である。若い時は想像もしなかった病に襲われたり、肉親や親しい友人を何時の間にか失っている。あっという間に過ぎ去った時であっても、振り返ったとき、長い年月を過ごしてきたことに想いが至る。

 高齢者は自分の意思で長い道のりを歩き続けたことは間違い無い。運命の分岐点では選択を行い、今を生きている。運命の選択が結果的に間違っていなかったとしたら、自らの努力もあるだろう。だがそれだけではないように思えるのだ。自覚できない僥倖が働いていた様に思えるからだ。自らが選んだ道で如何に頑張り努力しても、どうにもならない事は多く経験してきた。今を生きる高齢者が心安らかな日々を送れるとしたら、恵まれた運命の糸が紡がれたからであろう。

 自らを振り返ったとき、今も強い影響を受けている大きな運命の分岐点が二つ存在していた。最初は中学進学である。自分の人間形成に大きな影響を及ぼしたのだ。小学六年生に進学先を選択する能力は無い。担任と親との相談の結果、中高一貫の私立校を受験させられた。そのため、一年間近く塾にも通わされた。この学校では独特の精神教育が行われていた。週2回「凝念」と呼ばれる全校集会があり、学苑長の講話が終わると、両手は下腹に組み目は静かに瞑り、無心になって念を凝らのだ。何分かの時が過ぎた後、生徒全員で「心力歌」を唱和するのが恒例であった。心力歌は武蔵野市にある成蹊学園で戦前作られ、ここの出身である学苑長は、創立した自分の学校で教育の柱としてきた。「心力歌」は全8章からなり、凝念時に一章を唱和した。6年間繰り返された「凝念」により、心力歌の主要な章を今でも暗唱できる。

 「心に力ありと言えども 養わざれば日にほろぶ 心に霊有りと言えども 磨かざれば日に暗む」で始まる第2章は、今でも心の中で唱える事がある。有るべき心を失えば、「境によりて心移り 物のために心揺らぐ 得るに喜び失うに泣き 勝ちて驕り敗れて怨む」、その先には「喜ぶも煩いを生み 泣くも又煩いを生む」、「驕れば人と難を構え 怨めば世と難をなす 現には我が身を労し 夢には我が心とたたかふ」と成り、「悼ましからずや かかるうちに 五十年の生涯盡く」となる。人にとって、心のあり方が如何に大切かを説いている。その他の章も表現こそ異なるが、意味することは同じである。

 「凝念」の意義や「心力歌」の意味する事は、中高生に理解出来た筈が無い。自覚出来たのは年齢を重ねた後であった。漢文の素読と同じで、当時はただ唱和するだけであったのだ。50代の始め、偶然の出逢いにより「心力歌」は釈尊の教えを換骨奪胎したものであった事を知った。目が開かされた思いであった。振り返ると、それまでの自分は、6年間たたき込まれた教えに背いた生き方はしてはいなかった。理解は出来なくとも、心の何処かで何が大事かを感じていたのだろう。成長期に、人としての基礎が築かれた6年間であったのだ。もし進学先が他の学校であったとしたら、自分の生き方は違っていたかも知れない。強い縁の糸に導かれた思いである。

 二つ目は大学進学である。これは誰にも相談せず、自らの意思による選択であった。現役での受験は、目指す東京の大学は失敗に終わった。一浪の時も同じであった。忸怩たる想いで二浪生活を送っている内に、東京以外の土地で学生生活を送りたいとの思いが次第に強くなってきた。地方には数多くの大学がある。それなのに仙台に強い憧れを抱いたのは何故か判らない。強い縁があったのだと、今は思っている。現在に至る出発点は全て仙台であった。就職先を決めたのも、結婚相手と出逢ったのも仙台であった。

 高齢期を生きる者にとって、生き甲斐の一つは交友関係である。高齢者の孤独死の報道には胸を痛める。高齢者は人との繋がりで生きているのだ。もしただ一人長寿を全うしても、語り会える友がいないとしたら、どれ程淋しいことだろう。友人の多くはワンダーフォーゲル部の山仲間である。利害関係は一切無い。同じ飯盒の飯を食べ、同じテントで共に語り合った仲である。全ての仲間と親しい付き合いが有る訳では無い。今も続く交友関係は、お互いの努力があったからかも知れないが、ただそれだけでは無い様に思える。縁の糸が切れなかったからこそ、60年の歳月を経て繋がっているのだ。

 結婚もそうである。マンションに入居するカップルは、婚約中と申込書に記載することが多い。多くのカップルが入居したが、結婚に至る割合は少ないのだ。同棲を始めて3ヶ月で解約した例もある。二人の生活が安定するか否かは、色々な要因があるだろうが、それだけでない。人を結びつける縁の強さにあると思う。強く結ばれた仲は、赤い糸で結ばれていると言われているが、この赤い糸こそ、強い縁の糸なのだ。赤い糸に結ばれていなくとも、生涯添い遂げた夫婦は強い縁の糸が存在したのだ。成長した子供達が結婚し、孫が誕生することにより、縁の糸は広がり強い物なっていく。高齢者にとって、孫の成長と行く末をこの目で見たいとの願いが、生きる意欲に繋がっているのだ。縁の糸が紡ぎ出す喜びである。

 先日、94歳の知人女性と電話で話をした。彼女は現在、生まれ故郷である九州の離島で独り生活している。彼女と初めて出会ったのは、自分が小学4年生、彼女は24歳の時であった。父がシベリア抑留から未だ帰らぬ時、空いていた二階の一間に越して来たのだ。彼女は自分が中学生の時、転居していった。自分は何故か彼女には可愛がられた。今も彼女が自分を呼ぶときは、下の名前にチャン付である。自分が家を離れる前、尋ねて来た彼女と会ったのが、顔を合わせた最後であった。古稀を過ぎた頃、何故か彼女のことが気になり、正月に電話をした。両親を知る、数少ない一人であったからかも知れない。以来年一度、電話で話をするようになった。年賀状の付き合いも始まった。今も彼女は、94歳とは思えない声で話してくれる。彼女とは70年を経ても、縁の糸で繋がっていたとしか思えないのだ。電話での楽しい会話は、何時まで続けられるだろうか。

 自分は70代半ば以降、三回のガン治療を行った。何れも慈恵医科大病院の泌尿器科である。現在、再発も無く安定した生活を送れるのも、この病院のお陰である。この病院に辿り着くのには、二人の人との繋がりが有った。最初の人とは30年以上昔の出会いである。この人との出会いなしに、慈恵医大病院との縁は考えられない。現在、腎機能を維持し、人工透析を防ぐ為に、漢方薬と鍼灸治療を継続している。優秀な中医鍼灸師との出会いも偶然ではない。人との縁が、この鍼灸院に導いてくれたのだ。縁の糸を紡いでくれた見えない力に感謝の思いである。

 自分にとって、多くの人と縁が繋がり続けたのは、自分の努力だけではない。先のことは誰にも判らないのだ。選んだ道を歩きながら努力しても、全てが良い結果に結びつくとは限らない。今まで何回も挫折を経験してきた。努力しても報われなかったのだ。選択を迫られた時、思わぬ僥倖に恵まれた事を思い出す。人は懸命に生きようとする時、目には見えない力が、後押しをしてくれるのかも知れない。縁の力に依るものと、今にして思う。

 人は誕生した時から、この世での運命と縁の糸が紡がれ始まる。長い年月を生きてきた高齢者にとって、これからも紡ぎ続けてきた縁から逃れられる事は出来ない。高齢者が自らの意思で生きてきたと思えても、運命と縁の糸に紡がれた一生であるのかも知れないのだ。仏壇や墓石の前に立ったとき、我が身は先祖からの縁の糸で繋がっていることを思う。人は独りでは小さな存在である。縁の繋がりによる人の輪があるからこそ、高齢期を生きる意欲が湧いてくるのだ。余生を悔いなく生きた先は、あの世まで縁の糸が紡がれていく。更に、来世にまで繋がっているのかも知れない。人にとって、縁の糸とは不思議なものである。

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