伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2020年10月27日: 高齢者の体力と気力そして覚悟 GP生

 先日のことだ、自宅でランニングシャツ一枚で過ごしているとき、「随分肉が落ちたのね」と家人に言われた。自分では意識していなかったが、改めて鏡の前に立ち上半身を眺めると、確かに肩から上腕の筋肉が落ちていた。そう言えば、今年の冬20gの灯油缶を持ち上げた時、以前より重く感じた事を思い出した。加齢の進行により、筋力は低下するのは仕方が無いが、理由はそれだけでは無い。2年前の7月、腎盂ガン治療のため左腎臓を摘出してから、身体に負担の掛かる労働を封印した為である。今まで動かしていた筋肉の活動が止まり、時の経過と共に低下していたのだ。

 自分で出来るマンションのメンテナンスや補修は、業者に依頼せず行ってきた。現場に立ち、如何に補修するかを考え、ホームセンターで材料を選択し、当初のイメージ通りに仕上がったときは悦びであった。趣味と実益を兼ねた仕事であったのだ。これらの仕事は当然身体に負荷を掛ける。一つ残った右腎臓機能の人工透析を防ぐために、今までと同じような身体への負担は諦めざるを得なかった。

 輪を掛けたのが新コロナである。毎日通っていたスポーツジムが閉鎖になり、3ヶ月間通うことが出来なかった。短時間の水中歩行でも、毎日行うことで体力維持に効果があったのだ。高齢者は身体の筋肉が一度落ちると、元に戻すには大変な努力が求められる。現状では、無理な筋肉強化は出来ず、少しの負荷しか掛けられなくなってた。筋力強化どころか、現状維持が精一杯である。

 今年に入り、泌尿器系の機能低下を自覚し始めた。腎臓と膀胱の機能低下である。頻尿は以前から続いていたが、突然排尿出来なくなる異常が生じた。尿意をもよおしトイレに駆け込んでも一滴も出ないのだ。この状態が何時間も続く苦しみは並大抵では無かった。通っている鍼灸院に飛び込み、治療を受ける事態が何回も生じた。原因は下半身の血行不良と膀胱・腎臓の機能低下であった。左腎臓を摘出してから2年半以上が経過してからの現象である。加齢の進行による機能の低下が生じていることに間違い無い。低下したのは筋力だけでは無いのだ。

 身体を使う仕事が出来なくなった弊害は、体力の低下だけでは無かった。20年以上続けてきた生活習慣が変わってしまったことにより、気力に変化が生じたのだ。勿論良い変化では無い。気力の低下である。建物周辺の清掃や草取り、自転車置場の落ち葉の清掃等、身体に負担を掛ける事の無い軽作業は日々行わざるを得ない。この程度の仕事でも、「よし、やるぞと」意を決しないと手が付かないのだ。

 車の運転でも以前と異なってきた。街中周辺への用足しドライブに毎日ハンドルを握っているが、長距離ドライブは行わなくなった。長距離旅行の意欲が無くなったことが大きな要因である。長期間、高速道路を走る機会が無くなると、恐怖感は無いが高速走行を躊躇する気持が生じる。長期間運転せず、久しぶりに運転席に座ったとき、ハンドルを握るのを躊躇するす気持と相通じるかも知れない。若い時感じた、久しぶりにハンドルを握る高揚感は高齢者に期待できない。

 先日、何年ぶりに高速道路を走行した。常備薬の「ういろう」が残り少なくなり、補充の必要が生じた為である。今までは新幹線で小田原の「ういろう本舗」に出かけていたが、新コロナの影響で電車の利用を躊躇し、車で向かう決心をした。覚悟を決め、東京インターから東名高速道路に乗り入れた。午前中の時間帯で、下りは比較的空いていたのは僥倖であった。左側の走行車線を車間距離を意識して定速で走行した。それでも久しぶりの高速走行は、少し緊張している事を意識せざるを得なかった。厚木インターから小田原厚木道路に入り、小田原西で高速道路を降り「ういろう本舗」へ向かった。所要時間は2時間弱であった。帰路は緊張感もほぐれ、走行車線の選択や速度調整の感覚が従前に戻り、高速走行を楽しむ余裕が生じた。以前と同じ高速走行感覚が戻ってきた証である。高齢者と言えども、継続して行えば気力は維持できるのだ。

 TG君と電話で話している時、昔仲間4人と歩いた北アルプス縦走の話になった。重い荷物を背負い、剱岳の岩尾根を何のためらいも無く、バランスを保ち往復できたが、今は恐怖感を覚えるだろう。先日、自宅の天井を修理する為、小さい脚立の上に立った。高々二段にすぎない脚立であったが、バランスが取れず天上を支えにせざるを得なかった。TG君も庭の木を伐採するのに、脚立による危険を回避する為、他の人に依頼したと話していた。自分だけで無い、70歳を過ぎてからも、毎年ヒマラヤトレッキングに励んでいたTG君にしても同じであった。高所作業は、バランス感覚の衰えた高齢者には命に関わるのだ。

 高齢者は加齢が進行するにつれ、日常の行動範囲が狭まってくる。体力の低下が生じ、気力の低下がそれに追従する。その逆もあるだろう。加齢の進行により新陳代謝の低下や臓器の機能低下は避けられない。後期高齢期を迎えれば、無病息災は限られた人にしか実感できないのが現実である。大病から回復しても、病前の生活には戻れないことは、何回も経験している。以前と同じ関心事に興味が無くなるのは、気力の低下が大きな要因である。何事にも面倒くささを覚える事がその兆候である。

 気力は生きる意欲に繋がる。毎日を漫然と過ごすと、「何のために生きているのか」との気持に陥ることもあろう。人は、この世に目的を持って誕生してきた存在である。誕生前に自ら定めた人生目標は、残念ながら誕生と同時に潜在意識下に隠されてしまう。人は手探りで、長い人生を積み重ね高齢期を迎えている。高齢期に何を求め生きるかは、人それぞれであろう。残り少ない余生であるからこそ、疎かには出来ないのだ。

 体力の低下はこれからも静かに進行するだろう。新たな病が発症するかも知れない。それでも、生きる気力は持ち続けなければならない。体力が衰えたから気力が低下したとは、言い訳に過ぎ無い。腎臓摘出手術を明日に控えた夜、病室のベットで気力を蓄え身体を横たえたことを思い出す。手術への高揚感が気力を高めたのだ。術後の安定した日々は、かえって気力をを衰えさせたのかも知れない。高齢者は、今日そして明日、時の流れに任せて漫然と生きてはいけないのだ。体力の衰えは理由にはならない。残された時間は多くは無いのだ。高齢者にとって、今日を生きる覚悟が求められている。自戒を込めてそう思う。

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