伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2020年10月3日: 最後まで高齢者に残されるもの GP生

  先日GT君と電話で話している時、To君の事が話題になった。To君はワンダーフォーゲル部同期の友人の一人であり、TG君と共に部の運営に携わった忘れることの出来ない人間性の持ち主であった。TG君とTo君とは、同じ学生寮で苦楽を共にした仲間でもある。TG君は就職が決まってから、友人二人と各地の大学の寮に宿泊しながら九州一周旅行をした事を話してくれた。旅行にはTo君も同行していた。60年近い昔の事である。話すTG君の声は心なしか弾んでいた。

 自分も1年生の春休みに、友人と二人でTG君と同じような九州一周旅行を楽しんだことがある。友人は受験の時、宿泊先の旅館で同室になったNa君である。和歌山県田辺市にある彼の実家が出発点であった。帰りに神戸駅でワンゲル同期のIK君に電話し、彼の実家でお世話になった思い出がある。TG君達もIK君の実家に宿泊していた。卒業後Na君とは顔を合わす機会が無く、年賀状の付き合いが50年以上続いた。

 TG君を始め、昔の山中仲間と顔を合わせる機会は激減してしまった。新コロナにより高齢者の行動は著しく制約されたからだ。若い人と違って高齢者の感染は命に関わる。意思の疎通は電話とメールに限られた。お互い話題が学生時代に及ぶと盛り上がるのは、あの頃が心に残る時代であったからだ。それでも、60年という時の流れは残酷である。この間多くの仲間が帰らぬ人になってしまった。前述のTo君は10年以上に及ぶ闘病の末、この世を去った。明るく何時も周囲を和ませていたIK君も、50代で命を失っている。

 九州一周を共にしたNa君の奥様から喪中葉書が届いたのは数年前である。もっと早く顔を合わせておけば良かったと思っても、後悔は先に立たずだ。寮を共にした同じ学部の二人も、若くして自ら命を絶った。彼等以外に先立った仲間は片手に余る。だからこそ、今を生きる仲間達とのさりげ無い会話が、昔の話題に及ぶと心が和むのだろう。良き時代、良き仲間との思い出は、高齢者にとって最後まで残される記憶であるのだ。早くしてこの世を去った友が、健在なればとの思いに駆られるのは、自分だけでは無いだろう。

 80年の歳月を振り返る時、自己を確立する最後の仕上げが、仙台での学生時代であった事が良く分かる。あの時代は両親の庇護の下、自を磨くことにのみ専念できた貴重な時間であった。だからこそ、同じ環境で過ごした仲間達に対する想いは特別なのであろう。何年も音信不通であった仲間に電話をした時、違和感なく60年近い昔と同じ気持ちで話が出来るのは、時間を飛び越え、あの時代の仲間意識に戻るからだ。あの時代、自分には生涯忘れられない出来事があった。

 卒業の年の3月、生活の場であった学生寮が漏電による火災で焼失した。この日が自分の誕生日であったのも何かの因縁であろう。在学中、熱中した山行の記録や写真類、山の道具、書籍等一切が灰燼に帰した。卒論ての追い込みで研究室に泊まり込んでいた時の寝袋だけが、残された唯一の物であった。新たな人生の出発を目前にして、学生時代の文物一切が消滅したのだ。劇的な終焉であった。後を振り向くことなく、新たな人生に一歩を踏み出せと、目に見えない力が働いた様に思えた。以来、山とは縁を切っている。火災の後始末を終え、覚悟を決めて勤務先に向かったのが昨日のことのように思える。

 加齢の進行は辛いものである。数々の病に肉体が蝕まれるだけで無く、心も活力を失いがちになるのだ。現役時代多くの仕事を経験し、沢山の人達と共に仕事に励んできたが、これらの記憶も次第に薄れていくのは仕方ないことだ。最後まで残るったは、ワンダーフォーゲル部の仲間達との繋がりである。昔、仲間達が憩いの場として、八ヶ岳山麓に建てた山小屋風建物、伝蔵荘の存在が大きかったと思う。過去に幾ら親密な付き合が有ったとしても、その後の付き合いが無ければ、疎遠になのが人との繋がりだからだ。その伝蔵荘も時代の流れには逆らえず老朽化が進み、如何処理するかが話題となってしまった。形あるものは何れ消滅するのが、この世の定めである。

 人も形ある存在であり、自分も含め、何れこの世から消え去る運命である。人がこの世を去る時、あの世に持って行ける唯一の物は、この世で磨いた魂だけだ。金品や財産、社会的地位、名誉は全てこの世限りの物にすぎない。あの時代、多くの友と苦楽を共にした記憶は、高齢者に最後まで残された物である。あの世に持って行ける宝でもあるのだ。お互い、何時まで余生を送れるかは判らない。悔いの無い交誼が少しでも長く続くことを願っている。

 人は、この世に誕生する時も去る時もは独りである。しかし人は肉体だけの存在では無い。肉体はこの世限りであっても、そこに宿る魂は輪廻転生する存在であるのだ。人は、前世の記憶全てを宿してこの世に誕生し、この世を去る時は、現世で生きた記憶全てを持って旅立っていく。人生の終焉は、決して寂しいものではないのだ。

 人は前世とは異なる新たな試練を求めて、現世に誕生するそうだ。新たな宿命の元、自らを磨く為と言われている。しかし、人はこの世に誕生した瞬間、前世の記憶は潜在意識下に移り全てが顕在化すること無く、目的も意識下に隠れてしまう。人はこの世で白紙の状態で出発するからこそ、心の修行になるからだ。人は手探りで生き、その道筋で幾つもの誤りを犯す事になる。完全な人間などは存在しない。人は悩みながら生き、生きることで生じた誤りは自ら反省し正すことを求められている。辛い事であっても、高齢期の今を生きる者とて同じ事だ。悠々自適の老後は夢物語である。

 この世で生きることは、自ら定めた試練を求める旅でもあるのかも知れない。旅の出発点が仙台での学生生活であり、多くの友人達との切磋琢磨であったのだ。だからこそ、あの時代の事々が心に最後まで残り、残り少ない余生を生きる勇気の源に成っているのだ。何れ人生の終焉は訪れる。あの世に戻った時、自らの試練が達せられたか否かを知る事になる。その時後悔しないためにも、高齢者にとって、残された一日一日が貴重な時間であるのだ。

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