伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2020年9月2日: 退職高齢者の人付き合い GP生

 サラリーマンは定年退職と同時に生活環境が激変し、会社を中心に長年築いてきた人間関係は、例外を除いて消滅してしまう。家族との関係でも土日以外は会社の生活から、365日家庭内で過ごす事になり、新たな関係を築く事が求められる。変化した環境は、第二の人生の始まりでもあるのだ。退職者自身も、その後の人生を如何に生きるか目標を考えざるを得なくなる。人は独りでは生きられない。人付き合いが希薄となれば、退職後は寂しさを甘受しなければならなくなるだろう。退職者と言えども、多くの人との付き合いは生きる糧でもあるのだ。

 自分は故あって50代半ばで退職した。覚悟して退職しても、長年の通勤生活は身体に染み込んでいる。家にいても気持ちが落ち着かないのだ。建物の地下にある受水槽室に、小さな空き部屋があった。ここを改装して家業の仕事部屋として使うことを思いついた。電話線を引き込み、机や書棚、パソコン、コピー機、テレビ等を設備し、隠れ家的仕事場を作り上げた。朝食後、隠れ家に出勤し、午前中はここで過ごす事が多くなった。疑似出勤であるが、気持ちの安定には効果があった。日常、必要以外の外出は少なくなった。平日に外を歩くのが何となく気恥ずかしい思いに駆られたからだ。仕事が無いときは読書で時を過ごした。ネットを楽しめる時代ではなかったからだ。隠れ家出勤を続ける内に、退職後の生活にもリズムが出てきた。

 この頃の人付き合いは、家族が中心であった。退職1年前に父が逝去し、高齢の母は次第に自分自身の事が出来なくなって行った。認知症が進行していたのだ。退職3年目頃から母に介護が必要になり、最後の3年間は寝たきりの状態となった。介護一切は自分の役割になった。次第に通常の食べ物は咀嚼できず、ミキサーにかけ、とろみを付ける流動食が主食となった。6年間の介護の後、母は86歳で逝去した。この間、新たな人付き合いは望むべくも無かった。

 母の死により介護から解放された時の気持ちは複雑であった。気持を新たにするため、幾つかのことを相前後して始めた。退職後3年目に偶然本屋で目に留めた「三石巌著・医学常識はウソだらけ」が契機となって、分子栄養学に興味を持った。三石先生が開発した補助栄養食品の発売元が、分子栄養学の勉強会を開設した事を知り参加を申し込んだ。講師は三石先生のお弟子さんである井手俊次郎先生である。勉強会は月1回、参加者は中高年者30名近くで、7割が女性であった。遠く北海道や長野から上京し、参加した女性も居た。受講後、何人かの仲間と井手先生を加え、喫茶店で雑談をするのが常であった。会話のテーマは分子栄養学で、新たな刺激を受けることになった。勉強会は、多くの人との付き合いを楽しむ場でもあった。

 伝蔵荘例会への参加もそのひとつである。伝蔵荘は八ヶ岳山麓にあり、TG君やMa君が中心になって、昔のワンダーフォーゲル部の仲間達が建てた山小屋風建物である。「伝蔵荘」とは山形と宮城の県境、二口峠にあった営林署が所有する無人小屋の名称で、毎年合宿で使用した懐かしい山小屋である。母の介護から手が離れ、時間も気持もゆとりが出来るようになり、TG君に参加を申し入れた。例会は毎年5月と10月の年2回あり、10名近い仲間が集まった。卒業後、長い時を隔ても昔の仲間意識が蘇り、忌憚のない会話を楽しむ数日を過ごしたものだ。若い時代、山で寝食を共にした仲間意識は、時を経ても消える事はなかった。

 最後はスポーツジムに通い始めたことである。小学校の同級生であるKo君が、隣町に開業したスポーツジムに通っている事は知っていた。彼からジムの詳細を聞くにつれ、身体を定期的に動かす必要性を考え入会を決意した。66歳の時である。機械ジムで筋肉トレーニングを行い、その後プールで水中歩行により有酸素運動を行った。2時間近くの運動後、スチームサウナで身体を温めた後、広い浴室で寛いだ。毎日、ジムに通う内に顔見知りが増え、プールサイドやサウナ、浴室で歓談する仲間が増えていった。午前中のジムは殆どが高齢者であり、元サラリーマンも多かった。気さくなKo君は、多くのジム仲間を持っており、彼と自分が小学校の同級生と知れると、彼の知人とも親しく話をする事が多くなった。女性達とも親しくなり、プールで歩きながらの会話も増えていった。あちこちで「おはようございます」と挨拶し、雑談で時を過ごすことは、高齢者同士の癒やしでもあった。

 分子栄養学の勉強会は、最後の3年間、参加者は10名程度に減少し、3名となった時に終了した。井手先生が病に倒れた為である。先生は翌年逝去された。13年間の学習は、頭脳をリフレッシュすると同時に、志を同じくする仲間との交流の場でもあった。その後、他の講師による勉強会に参加してみたが、井手先生の勉強会の魅力には及ばず、以後、勉強会には参加していない。70台半ば以降、3回の泌尿器系ガンを発症してから、伝蔵荘の例会は欠席している。継続しているジム通いも、現在は短時間の水中歩行を楽しむだけになってしまった。加齢の進行により、行動範囲が縮小していく感じである。

 スポーツジムで親しくなった仲間達も、随分少なくなった。高齢のため通えなくなったり、病により亡くなられた方も多いのだ。脳梗塞によりジムで倒れ救急搬送されたまま、意識が戻ること無く亡くなられた女性もいる。以前、「プールサイドの女神」の表題で日誌に投稿したことのある魅力的な女性であった。歩きながら親しく話していた女性は、認知症進行により退会した。最近も、親しい高齢者男性も同じ病で姿を消した。奥さんの介護のため退会した90歳の男性は、特に親しくしていた仲間である。15年近くジム通いを続けていると、新たな出会いは少なくなり、別れが多くなった。新型コロナ以降、何人かの仲間は姿を見せなくなった。

 退職者は加齢が進行すれば新たな人付き合いを始めるのが難しい事になる。縁があり付き合いが始まっても、深い付き合いは望むべくもない。心を開き忌憚のない会話が出来るのは、学校時代の友人達と山仲間に限られてしまう。彼等との付き合いとて自然の流れに任せていれば、途絶えてしまう。歳をとると日常生活に色々の制約が生じがちである。人付き合いも同じである。若い時気心の知れた友人であっても、時を経ればお互い昔のままではない。旧友との交流は、新たに関係を復活させる努力が必要なのだ。

 ワンダーフォーゲル部の一年先輩であるWaさんに電話を掛けるようななったのは、10年近く前であった。Waさんは先輩であっても、当時から相通じるものを有する希有な関係であった。平成22年の正月、Waさんから突然電話を貰った。Waさんは脳梗塞により失明し、その後肺ガンまで発症した事を知った。Waさんの苦境を知った事を契機として、定期的に電話を掛けるようになった。電話口のWaさんは、病に対しても前向きの姿勢で、昔ながらのWaさんの姿が目に浮かんできた。励ましの電話が、逆に自分の方が励まされる事も多かった。電話の後、Waさんと親しかったTG君とAt君に、Waさんの近況と病状をメールで伝える事が習慣となった。この電話は3年8ヶ月で終了した。Waさんが急逝されたためだ。

 これを契機として、70歳の半ば頃から何人かの友人達に電話を掛けるようになった。自分の行動力がそがれた為もある。メールで意志の疏通は出来ても、肉声に勝る物はない。午前中に電話をすれば殆どの友人は在宅している。繋がらないことは希であった。顔が見えない声だけの関係を続けていると、声の感じから相手の状態が良く分かることも多い。高齢者には話題が少ないように思えても、話している内に会話は発展していった。例え雑談でも、お互いが刺激し合うことで話題が展開していくのだ。顔が見えないだけに、脳細胞が刺激を受けているに違いない。

 新型コロナが何時収束するかの目途は立っていない。高齢者の感染は命取りになりかねないから、外出自粛は当分続くであろう。お互いの健在を確かめ、話に花を咲かせる友人達の存在は、高齢退職者にとって生きる元気に繋がるのだ。60歳を過ぎてから、親しい友人達を随分失ってきた。あの世に電話が通じれば良いのだが、叶わぬ夢である。このような思いに駆られるのは、自分が歳をとった証であろう。例え電話であっても人と付き合う努力は、これからも続けるつもりでいる。何時でも何処でも話が出来るスマホは、高齢者には有難いツールである。

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