伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】 2020年8月15日: 高齢者の平常心 GP生

 平常心とは「普段通りに平静である心」を意味する。普段通りとは、心を悩ます問題が起きず、想定外の事態も発生しない状態である。これならば心は平静である。高齢者の生活に悠々自適があり得ないと同様、心を乱し、悩ます事態が生じない事はあり得ない。心身とも元気な若い時代は、如何なる状態でも前向きに対処出来た。明日に希望を持ち得たからだ。高齢者にとって、当時と同じ平常心を保つ事は困難である。平常心を保つ努力すら出来ない事もあろう。

 昔は「人生七十古来稀なり」と言われたが、今は男性ですら平均寿命81歳の時代である。後期高齢期を迎えれば、無病息災は夢であろう。羽鳥湖仙人たるAt君のように、傘寿を迎えても、大病とも小病とも無縁な高齢者は希である。薪割りで腰を痛めるのが精々である。通常、高齢者の平常心が乱れるのは発病を知った時であろう。生命や寿命に直結する事態に直面したとき、平常心を保つのは極めて困難である。しかし、高齢者が病を克服するためには平常心を保つ事は必要なのだ。

 自分も70歳の半ばを過ぎてから3回のガン治療を経験している。この経過は伝蔵荘日誌に何回も投稿した。投稿するのは自分の闘病を記録するだけが目的ではない。病を克服するため、平常心を保つ手段の一つであったからだ。高齢者ならずとも、ガンを宣告されれば誰しも平常心を保つ事は困難になる。不安から目の前が真っ暗になる場合もあろう。心を乱し、心配すれば病が快癒する訳ではない。医師から病状と治療法の説明を受けても、不安は完全に解消されない。平常心を取り戻すには、まず自分の病の実態を出来るだけ客観的に知る事が必要なのだ。いわば第三者の目で病を眺める事だ。このためには学習をしなければならない。医師に問うことも必要になろう。患者の疑問に真摯に答えてくれる医師は信頼にたる医師である。自分にとって幸だったのは、それぞれのガンに対応した三人の医師は、真摯に答えてくれただけでなく、治療でも優れた技量を発揮してくれた事だ。

 伝蔵荘日誌に不特定多数の読者が存在する事は、伝蔵荘主であるTG君から聞いていた。第三者を意識すれば、不安の感情だけを表現する事は出来ず、客観性をもった記述も要求される。ガンは発症から最終結果に至る迄、長い時間の経過が必要である。その間、患者は一喜一憂する事になる。終着がこの世の別れである事も避けられない。深刻な悩みが生じた時、頭だけで思考すれば堂々巡りに陥りがちである。文章を書くことは、意識せずに思考を発展させることが可能である。治療中の悩みも、文章にする事で客観視する事に繋がるのだ。書いている内に、何時の間にか平常心を取り戻す事さえ出来た。伝蔵荘日誌は救いであった。

 高齢者を襲う悩みは病だけで無く多岐に亘っている。不測な事態に対処するには、感情に走らず、平常心を保つ事が必要である。事態に直面したとき、自分は真っ先に「命の有無」を確認する事が習い性になっている。「命別状無し」なら、心にゆとりが生まれ、平常心を保つ事が出来るのだ。この感覚が身体に染み込んだは、若い時の鉱山勤務に起因している。

 自分は卒業後、故あって鉱山会社に就職した。坑内作業は、鑿岩、発破、埋め戻し、運搬等を薄暗い電灯やカンテラの炎を頼りに行っている。厳しい作業環境では、少しの油断が事故に繋がり、人は簡単に命を失うのだ。組長から事故の一報を受けた時、「生きているか!」が第一声であった。「生きています」との返事で心にゆとりが生まれ、平常心で対処出来た。10年近いの鉱山勤務は、平常心を保つ修練の場でもあったのだ。この間、自分は一度も死亡事故を経験していない。優秀な組長達に恵まれた事を今でも感謝している。お陰でかっての同僚のように悪夢に悩まされる事は無い。事が起きた時、「命の有無」の感覚は鉱山を離れてからも消えることは無かった。その後の仕事でも、客先からどの様な厳しい苦情を受けても、上司から叱咤されても、命まで取られる事は無いと腹をくくれた。命の心配が無いことは平常心の安定につながり、解決策を見つけ失策を挽回する事に繋がった。

 自分の前立腺ガンは激しい血尿に見舞われたことがスタートであった。検査が進むにつれ、深刻な症状が明らかになっていった。主治医は最新の放射線治療を提案し、治療法と予後について詳細に説明してくれた。完治の可能性を尋ねると、「可能性は高いが、100%確約できない」であった。当然の回答である。前立腺ガンは局所に留まれば、完治する可能性は高いが、全身に転移すれば、唯一の治療法であるホルモン療法も何れ効果を失う。高齢者が病に見舞われた時、年齢ゆえ深刻になるのは当然である。先日も近隣の女性が突然吐血し、救急搬送された。彼女はその3日後に死亡した。87歳であった。高齢者の病は、命に直結することを意識しなければならない。高齢者は病を客観的に理解しただけでは不安を解消し、平常心を取り戻す事にはならず、覚悟が求められるのだ。

 前立腺ガンの客観的病状を知るにつれ、完治しない可能性があることも認識した。その先に死がある事も覚悟した。そこに至るには時間を要することも理解した。その上で腹をくくり、ガン治療に全力で取り組む決意を固めた。迷いは無くなり、平常心を取り戻した。伝蔵荘日誌には心の整理の為に投稿をした。自分の病を見つめながら、残された時間を如何に生きるかが命題となった。治療開始から6年が経過した今、PSA値は安定しているが、傘寿を目前にして腎盂ガンと膀胱ガンが相次いで発症した。この時も前立腺ガン発症時と同じ心構えで、平常心を失うこと無く対処出来た。

 人はいずれこの世と別れなければならない。加齢を重ねる事は日々別れに近づく事でもある。高齢者が発ガンすれば、命に不安を感じるのは当然である。命に異状無い病であれば、平常心を保つ事は可能であろう。命の保証がされない深刻に場合、心の平静を保つことは困難になる。高齢者と言えども、死が早まる事を恐れない者はいない。しかし、人の死とは何かを知れば病に対する覚悟に繋がるのだ。

 人は肉体に魂を宿して生きている。人の死とは肉体がこの世での役割を終える事であり、心即ち魂の死では無い。肉体はこの世限りの存在であっても、肉体から離れた魂は、あの世に戻り、何時かは再び別の世に生まれる事になる。魂が永遠の存在であると信じれば、死を徒に恐れる事は無い。人は仏教で言う「色身不二」の存在であり、魂は「輪廻転生」する存在であるのだ。父の臨終に立ち会った時、その瞬間、顔から一切の表情が消え、物体と化すことを経験した。魂の旅立を象徴する荘厳な光景であった。

 高齢者にとって必要なのは、この世での貴重な人生を如何に生きるかであり、悔いの無い余生を過ごす事だと考えている。不測の事態に直面しても、平常心を失わぬ事だ。平常心を失わない努力が、余生を全うする事に繋がると信じている。

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