伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2020年6月25日: 末期高齢者の運命と宿命 GP生

 前期高齢者や後期高齢者の名称は、健康保険制度から生まれたが、末期高齢者は、福島山中に居住する羽鳥湖仙人の命名である。彼自らも末期高齢者と称している。末期高齢者とは、余命幾ばくも無い老人のイメージだ。羽鳥湖山中に独居する仙人Sa君は、晴れた日は山野を歩き、咲く草花の写真を撮るのが趣味である。気が向けば、近郊の山々へ日帰り登山を行っている。病や体調不良に縁が遠い仙人は、傘寿を迎えても高齢者とは程遠い生活を送っている。彼は自らを鼓舞する気持ちで、末期を名乗っているのかも知れない。老後の運命は、自らが切り開く強い意志を秘めている様に感じられる。

 平成30年度の調査によれば、日本人の平均寿命は女性87歳、男性81歳である。昭和35年度では、女性70歳、男性65歳であったから、僅か半世紀の間に、日本人の寿命は大幅に伸びたことになる。驚異的な伸びと言って良いだろう。平均寿命より長ければ長寿と言われることになる。羽鳥湖仙人が、自らを末期高齢者と称するのは、男性の平均寿命まで僅かであるとの自覚もあるからだろうか。羽鳥湖仙人が山中に独居し、惰性に流されること無く、自らを厳しく律して生きる姿こそ高齢者の鑑である。

 高齢者の生き方は、十人十色、千差万別である。違いは、持って生まれた個性と、人生の軌跡にあるのだろう。兄弟姉妹が何人居ても、高齢期に置かれた状態は、一人として同じ者は居ない。自分の姉弟は何れも健在であるが、自分を含め全く異なった老後を生きている。生まれ持った宿命と、運命の然らしめる結果であろう。人が何時の時代、何処で、誰を両親として誕生するかは、宿命であると思われている。この世への誕生は、自らの選択ではないと考えられているからだ。広辞苑によれば、宿命とは「前世から定まっている運命」と記されている。幼少期から自我が確立するまでの運命は、両親の手に委ねられ、初めて運命を選択する機会は、高校進学であるのかも知れない。

 自分の中学進学は、担任と親との相談の結果、郊外にある中高一貫校に決められた。小学生が進路の決定を出来る訳がない。この6年間の学校生活は、その後の運命に、大きな影響を及ぼした事は、高齢期を迎えての実感である。進学した学校で、生徒は「健康・真面目・努力」を自己目標とし、同時に「心の大切さ」を説く人間教育を受けた。意識することは無かったが、成長しても心の底に中高時代の教えがあった様に思える。感受性豊かな少年期の学びが、身体に染み込んでいたのだろう。50歳を過ぎた頃、ある人と偶然出会い、釈尊の教えを学ぶ機会があった。中高時代に受けた心の教育は、釈尊の教えを説いたものであったと理解出来た。中高6年間の下地が有ったからこそ、教えが抵抗なく心に染み込んだように思える。もし、この出会いが無ければ、自分の老後は違った物になっていたかも知れない。予期せぬ偶然は単なる偶然では無い。目に見えない力に導かれていた様に思える。

 人は日々の生活の中で、何回も岐路に遭遇し、進むべき道の選択を迫られる事になる。いわば運命の選択である。進学、就職、結婚は、成長してから遭遇する、運命の大きな分かれ道である。幾つもの選択肢が有る場合も、右か左か二者択一の場合もあろう。自分もこれまで何回も岐路に立たされてきた。自分自身の事のみならず、年老いた両親や家族に関してもだ。何れの選択も、心が大きく影響した様に思える。振りかえると、その時々に下した選択の積み重ねの先に、今がある事は間違いは無い。岐路に立たされた時、心の底に中高時代培われてきた教が有ったように思える。

 自分は70歳半ばから5年間に三回のガン治療を経験した。予後が安定し、心の平穏を取り戻した時、病院と三人の主治医に恵まれた結果である事を自覚した。この大学病院は、隣町にある開業医の紹介であり、この開業医を紹介してくれたのが、自分と同じマンションに居住する薬剤師の女性であった。この女性との出会いは30年以上昔の事である。出会いの連鎖が、この病院に導いてくれたのだ。自分が医師の選択が出来る訳はない。運命に恵まれたと思わざるをえない。

 知人の女性は、生まれ育った環境により、幼少の頃から苦労を重ねてきた。合格した大学進学も諦めざるをえなかった。約束した人との結婚を諦め、親の望む相手と結婚させられた。飲食店を営む夫を支え、店のママとして苦労を重ねた。年老いた舅姑の介護にも専念せざるをえなかった。早くに夫を亡くした彼女は、傘寿を過ぎた今、息子や娘そして孫達に囲まれ、心も経済も満ち足りた生活を過ごしている。自身の運命を他者に委ねたように見えても、彼女は運命の分岐点で、覚悟して流れに飛び込んで行ったのだ。如何なる苦労に直面しても、憶する事無く、新しい環境に適応する努力を怠らなかった。その結果、彼女を理解し、応援してくれる人の輪が広がっていった。彼女を相談相手として求める人は、昔も今も途絶えることは無い。家庭を顧みるゆとりは無かったが、子供達は、母親の後ろ姿をしっかりと見て育っていた。厳しい宿命と他者から強制された運命であっても、彼女は自らの意志で新しい道を切り開き、老後の幸せを自らの力で勝ち取ったのだ。彼女は、幾つになっても末期高齢者では無い。生涯現役が彼女のポリシーであるからだ。

 「宿命は前世から定まっている運命である」としても、誰が定めたのであろうか。「前世」とは、いつの世のことなのだろうか。仏教で言う輪廻転生の「輪廻」とは、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の六界を魂が巡る事であり、「転生」とは次の世で生まれ替わる事を意味する。人間界は魂が肉体と一体となって生きる場であり、他の五界は、肉体から離脱した魂の落ち着き先である。魂は、人間界と五界を繰り返し往復する存在である様だ。人が人間界で生きた時、心のあり方により魂の行く先が決まると言われている。この世で、誤りを犯さず生きられる者は居ない。犯した誤りは、反省という心の修正が必要である。生涯、この繰り返しを続け、悔いを残さずこの世を去った魂は、天上界へ戻り、長い時を過ごすことになると言われている。心と魂の真実を知れば、他の四界に行きたいと思う者は、誰も居ないだろう。人の心は、この世限りの存在では無いのだ。

 天上界で心の修行を続けた魂は、時が至ると、自らの意志で人間界へ戻る事になる。天上界では、潜在意識は全て顕在化し、自分の輪廻転生全てが自覚できるからこそ、前世での人間界での反省から、新たに生まれる時は、違った環境で心の修行をしようと決意をするそうだ。魂が胎児の身体と一体となった瞬間、前世の記憶は全て潜在意識の底に埋もれてしまう。この世に誕生する時代や場所、誰を親として誕生するかは、宿命と言われているが、宿命も自らが選択した運命なのだ。他の四界から、魂が胎児に宿ることは無く、四界へ落ちた魂は、心を修正し天上界に上る努力が必要だ。人は、過ちをこの世で悔い改めるか、あの世で改めるか、何れかの選択となるのだろう。

 高齢期を迎えた時、自分がこの世に誕生した目的を少しでも自覚出来たとしたら、これに勝る幸せは無い。身体機能が衰え、心が萎縮しがちになるのが高齢者の日常である。最近、自分の日常を思うと、面倒事が絶えることが無い。人は生きている限り、悠々自適はあり得ないのだ。それでも心の何処かに、この世に生を受けた目的を求める気持ちが有れば、生きる意欲に繋がるだろう。高齢者にとって、宿命も運命も自らの選択であった自覚が必要なのだ。末期高齢者たる自分も、悔いの無い余生を送りたいと強く願っている。あの世に還った時、後悔だけはしたくない思いであるからだ。

目次に戻る