伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2020年6月4日: 旧い写真による記憶の覚醒 GP生

 加齢の進行は、体力や代謝力を低下させるだけでなく、記憶力も衰えさせる。固有名詞をど忘れすることが嚆矢である。先日もお世話になった建築士の名前を思い出せ無かった。旧いドラマを見ていて、見慣れた役者の名前を思い出せないことも多い。如何しても思い出せず、ネット検索して役者名を見つけた時、「そうだったのか」とため息をつくことになる。この傾向は後期高齢期に入って著しくなってきた様だ。漢字もそうだ。文章を書くのはPC画面上になり、ペン類を持たなくなった昨今、たまに手書きで文章を書くと、一瞬漢字を思い出せなくなることがある。PCでの漢字変換に慣れた弊害である。目による記憶は、手書きより劣るのだ。とは言っても、加齢による記憶力低下は間違いない事実である。

 ワンダーフォーゲル部時代、数多くの山々を歩いてきた。山歩きの前に山岳ルートは勿論、アプローチや帰還ルート、列車の時刻等を含め詳細に計画をした。いざ山行が始まれば、途中の休憩時間や宿泊地の到着時間、翌朝の出発時間、気付いた事や印象等を山日記に記載するのが常であった。1年生時、山行での写真は殆ど存在しない。現在のようにスマホで、簡単に高精度の画像を撮影できる時代ではない。フィルムを買い、専門店で現像とプリントする費用は、貧乏学生には無理な時代であった。カメラ自体も高額であった。だからこそ、山日記に詳細な記録を残したのだ。

 先日、秋田駒ヶ岳から八幡平縦走の思い出を伝蔵荘日誌に投稿した。自分は、その時の写真を所有していない。写真が趣味の羽鳥湖仙人たるAt君なら、この山行の写真を所有しているのではとの思いで電話をした。残念ながら、彼は参加していなかった。TG君に相談したら、「あの時の写真はないのでは」と言われた。誰もカメラを持っていなかったのだ。三年生時にカメラを購入したが、このカメラによる写真やフィルムは、山日記と共に、寮の火災で焼失してしまった。合宿や山行の記憶は、印象の強い思い出を除き、時の経過につれ、次第にぼやけるのは仕方ないことだ。山日記や写真が残っていれば、記憶を覚醒することは可能であっても、叶わぬ夢であった。

 ワンダーフォーゲル部時代、最も記憶に残っている山行は、一年生時の北海道中央高地合宿である。学生時代の出発点に当たるこの合宿の事は、何回か伝蔵荘日誌に投稿している。材料は全て記憶だけであるから、思い違いは避けられない。昨日、TG君は、その時の写真26枚をメールに添付して送ってくれた。ワンダーフォーゲル部50周年記念式典時、合宿に参加した先輩のUmさんから、写真のCDを貰ったそうだ。白黒写真全盛時に全てカラーであった。

 写真は赤岳山頂の集合写真から始まっていた。残雪を抱いた大雪山系の主峰、旭岳をバックにした一枚である。縦走開始直後であるから、全員溌剌とした表情である。集合写真は、これとトムラウシ山頂の2枚のみであった。トムラウシ山頂の写真は、十勝岳への縦走を断念した時のものである。深いガスに包まれた山頂で、憔悴しきった姿が映っていた。心に残る一枚である。送られた写真をHDに移し整理すると、写真の撮影年月日が書かれていた。赤岳頂上の写真は7月15日、トムラウシ山頂の写真は7月26日であった。この11日間は悪天候も重なり、北海道の山々は我々を消耗させたのだ。出発したばかりの赤岳山頂は、快晴に恵まれ、縦走継続を断念したトムラウシ山頂では、濃いガスに覆われていた。極めて象徴的な2枚である。

 送られてきた沢山の風景写真は、忘れていた記憶を蘇らせる力を秘めていた。赤岳から北海岳に向かう途中での休憩中の一枚は、彼方に大雪山連峰がそびえ、手前には、大雪渓が大河の如く横たわっていた。北海道ならではの光景である。忠別岳と大沼池の写真は、沼が大湖水に思える如く撮影されていた。白雲雪渓を歩く姿は、真夏の光景とは思えない写真である。北海道随一の眺望を誇る石狩岳連峰をバックにした、沼ノ原湿原の静寂さは、人の心を和ませる力を秘めていた。我々は、この湿原にテントを張り、素晴らしい環境を独占して夜を過ごしたのだ。

 北海道合宿中、旭岳を過ぎてから、他の登山者と出会うことは一度も無かった。登山者より、ヒグマの数の方が多いとの話を出発前に聴いていた。「見通しのきかない藪に囲まれた道は、ヒグマとの遭遇に注意しろ」とは入山前の忠告である。ヒグマも藪漕ぎをしたくないのだ。全員呼子笛を持参し、藪道では笛を一斉に吹き鳴らした。熊の糞を見つけたときは、音が一段と高くなったものだ。トムラウシ山の手前に、石を積み重ねた独特の構造を有するトラウレ小屋が在る。勿論無人である。この小屋は、登山者が残した残飯漁りに、ヒグマが現れる場所として名高かったった。小屋へは、笛を鳴らしながらゆっくりと接近するのが鉄則である。トムラウシ山周辺は北海道特有のナキウサギが有名で、小屋の周辺では鳴き声だけが聞こえていた。

 この山小屋での宿泊中、忘れられない事件があった。宿泊時の夜は、思いのほか寒かった為、寝袋の上にテントを広げて睡眠をとった。真夜中、Waさんの「ウヒャー」との叫び声に起こされた。寝袋の上で、テントが燃えているではないか。消し忘れたローソクが落下してテントに燃え移ったのだ。慌てて消し止め、大事には至らなかった。Waさんが気が付かなければ、テントは修理不能になり、合宿は終了、下山しなければならなかったろう。

 合宿最後の宿泊はトムラウシ山近くの草地であった。前の晩から降り出した豪雨は、テントの周辺に掘った排水溝から溢れ、容赦なくテント内に侵入してきた。寝袋の下を水が激しく流れているのだ。寝袋は勿論下着も濡れ、一睡も出来ない一夜を過ごした。身体は消耗しても、命には別状がなかったのは、若さの賜である。排水路跡を映した7月27日の写真が、最後の一枚であった。

 旧い写真から呼ひ起こされた記憶を基に、当時の事を書いている時、TG君が「報告3」を送信してくれた。「報告3」はTG君が編集した部誌であり、一年間の合宿や個人山行記録が全て搭載されていた。北海道合宿の行動はTG君が詳細に報告していた。食事係のWaさんや、衛生担当のUmさんの報告を合わせ読むと、合宿の飾り気の無い姿が浮かび上がってきた。但し、前回投稿した秋田駒ヶ岳縦走の日誌と、「報告3」の内容とに大きな違いが見つかった。この報告の筆者は、自分であったのだ。書いた事も、内容も記憶の外であった。合宿中の印象的な出来事が、60年の歳月を経て心の中で肥大した結果である。

 26枚の写真は、北海道中央高地縦走の記憶を掘り起こしてくれた。60年前の記憶が如何に心に深く刻まれていたかを、これらの写真は教えてくれた。振り返れば、仙台での学生生活は人生最高の時代であった。自己責任の基、思うがままに行動が可能であったからだ。両親を始め、多くの人の助けがあったからこそであったのだ。下宿から寮へと生活の場は変わっても、生活の中心に何時もワンダーフォーゲル部があった。多くの仲間達との交友が始まり、今に続く友誼の出発点でもあったのだ。多くの友はこの世を去ってしまったが、北海道合宿に参加した一年生部員は、二人とも健在である。60年が過ぎ去った今も、伝蔵荘日誌を通じて、共に思いを語り合える交友関係は希有なことである。旧き良き時代を呼び戻してくれた写真と、送付してくれたTG君に感謝である。

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