伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2020年5月27日: ワンダーフォーゲル部遙かなり GP生

 昨日パソコンで検索している時、偶然旧友Ta君の氏名を見つけた。Ta君は姓はともかく、名は滅多にお目に掛かることの無い漢字の一文字が組み合わさっているから、別人の可能性は薄い様に思えた。住所は福岡市であった。電話番号も記されていた。Ta君とはワンゲルの同期であるだけでなく、ゆえあって自分の下宿先で隣同士、一年間暮らした仲でもあった。彼との別れも忘れることが出来ない記憶である。

あれから55年が経過している。昔のワンゲル仲間達もTa君とは音信不通のままだ。期待を込めて電話をしてみた所、「お掛けになった電話は、現在使われていません」とのメッセージが空しく響いてきた。サイトを確かめると、住所・電話番号は2012年の情報であった。受話器を置きTa君の事を考えていると、当時のワンゲルの記憶が蘇ってくるから不思議である。入部以来、60年の歳月が過ぎ去り、老化とともに記憶力の低下しても、入学した年は忘れられない事が多かった。生涯の友人関係が形づくられた年であったからかも知れない。

 自分がワンダーフォーゲル部に入部したのは、昭和35年4月である。当時は同好会であり、先輩達の努力により部に昇格したのは翌年であった。中学高校6年間、山岳部で山歩きしてきた者にとって、東北地方の山々は未知の魅力があった。親からは「山岳部だけは止めて欲しい」との強い要望もあり、ワンゲルへの入会を選択した。長い浪人生活からの開放感も手伝って、授業が終えてからの部室通いが続いた。

 部室で新入生同士が毎日顔を合わせても、直ぐに親しくなるわけでは無い。お互いの名前を知る程度である。この頃、Ta君の記憶は全くない。新入生歓迎登山や夏合宿は制度化されておらず、仲間同士が好きな行動を取っていた。テントを始め装備も貧弱であった。当にワンダーフォーゲル同好会であった。教養部に同好会を作ったのは、2年先輩達であり、自分が入学したときは既に学部へ進学して、卒会していた。教養部だけのサークルであったからだ。同好会は2年生のTdさんが責任者で、SgさんやIkさんが協力して同好会の運営を行っていた。

 ワンダーフォーゲルとは「渡り鳥」を意味する。発祥地はドイツで、野山を歩くことで自然に親しみ、心身を鍛える運動であった。日本では、第二次世界大戦前のドイツとの友好関係もあり、昭和8年、文部省は健全な青少年運動としてワンダーフォーゲル運動を推奨した。昭和10年、立教大学にワンダーフォーゲル部が日本での最初に設立されたと伝えられている。戦後、登山の大衆化を背景に、各大学にワンダーフォーゲル部が設立された。我が国では自然が色濃く残っているのは、山岳地帯しかないため、「ワンダーフォーゲル=山歩き」となったのだろう。岩登り等の厳しい登山を求める山岳部と異なり、我が国のワンダーフォーゲルは、山々の尾根を歩く渡り鳥であった。

 この年の夏合宿を如何するかで、2年生の意見が分かれた。高校生時代、山岳部に所属していたTdさんを中心にしたグループは、北海道中央山地の縦走を計画した。一方、Sgさんのグループは三陸海岸のワンデルングを計画していた。当時は山派と平地派に分かれていたのだ。

 北海道中央高地合宿は、層雲峡から入山し、大雪山・旭岳、忠別岳、石狩岳、トムラウシ岳を経て、十勝岳に至るルートを走破する計画であった。出発から帰着まで20日間に亘るプランでる。当時の実力からすると並外れた計画であったが、Tdさんの強い意志が有ったこその合宿計画であった。この合宿参加に手を上げたのは2年生は6人と、1年生はTG君と自分の2人だけであった。合宿は悪天候も重なり、目的地の十勝岳には至らず、トムラウシ岳が最終地となってしまった。沼ノ原湿原の先にそびえる石狩岳山頂からの眺めは、勇壮極まりなく、北海道の半分近くが眼下に広がっているように思えた。生涯これ以上の景観を経験したことは無い。

 1年生の2人はエッセン担当を命じられた。アプローチを除き、山中での16日分の献立をTG君と一緒に考え、食材を調達した。栄養と低価格を上手に調和させるかが大事であった。更に軽量化が課題であった。それでも全てを持参することは叶わず、一部の食料を天人峡温泉の旅館に送付した。TG君とは山中で同じテントで寝起きし、共に食事を作り、苦楽を共にした。食料補給のため下山した天人峡温泉で、自分は蕁麻疹を発症し2日間寝たきりとなった。昼夜を問わず身体を冷やしてくれたのはTG君であった。十勝岳に至らなかった要因の一つは自分の蕁麻疹であったのだ。完全に回復しないまま、再度トムラウシを目指す登坂の苦しさは、過去にもそれ以降も経験したことは無い。北海道合宿で親しくなった仲間は、TG君と2年生のWaさんである。共に生涯の友人となった。Waさんは6年前、還らぬ人となってしまった。

 この年の山行で、忘れられない思い出がある。2学期の試験終了後、試験休を利用しての一年生だけの山行である。TG君とTo君、自分の3人で秋田駒ヶ岳から八幡平への縦走を計画した。女性のYdさんとNaさんの2名を含む10名と記憶している。1年生だけの山行きは、試験後とも相まって開放感に溢れ、素晴らしいものであった。

 乳頭山の手前でテントを張った翌朝Naさんから、「実は今朝、生理が始まってしまい、今日は長い間歩けない」と打ち明けられた。さらに「他の人には言わないで欲しい」と口止めもされた手前、TG君やTo君と相談する訳にいかなかった。朝の日課であるラジオ情報で天気図を作成していて、今日の午後、天候が崩れる可能性を感じた。西の空遠く黒い雲も見えていた。その日の行程は一番の長丁場である。TG君とTo君に天候悪化の兆しを説明し、乳頭温泉郷の黒湯に避難しようと提案した。彼等の了解のもと、一気に黒湯に向かった。

 当時一軒しか無い温泉宿で身分と事情を話すと、格安の値段で泊めてくれた。大学生が、社会的に信頼されていた良き時代であったのだ。食事は無論自炊である。午後に降り出した雨は翌日まで続き、結局、黒湯滞在は2泊となった。仲間からは「おまえの判断は良かった」と褒められたが、怪我の功名である。Naさんの体調も落ち着き、無事八幡平までの快適な山行を楽しんだ。口外無用を約束したが、60年も前の事である。既に時効であろう。Naさんは卒業後結婚されたが、40代に難病を患い、最後は自分が誰であるかも判らず亡くなられた。教えてくれたのは、ワンダーフォーゲル部50周年記念に参加した、旧性Ydさんであった。あの時の思い詰めた彼女の顔が、今でも目に浮かぶ。

 部に昇格してからは次第に組織的な活動となり、各季節の合宿も制度化されてきた。合宿以外の仲間同士による個人山行も活発に行われた。当時の新人は卒業時に13人の仲間が残ったが、加齢の進行は厳しく、4人が既に他界し、先のTa君は行方知れずである。現在も交流が続いているのは、4名になってしまった。自分を除く3名は、70歳を過ぎるまでヒマラヤトレッキングを毎年行い、現在に至る迄、機会あれば山歩きを楽しんでいる。

 自分は卒業と同時に山歩きから足を洗った。卒業年の3月、3年間生活した寮が後輩の不始末により焼失した事に拠る。自分は卒論の追い込みのため研究室に寝袋を持ち込んで生活をしていたので、火事を目撃することは無かったが、学生時代の品物一切が焼失してしまった。書籍や山の道具だけで無く、山日記や写真類全てが灰になり、ワンダーフォーゲルの記録は記憶のみとなってしまった。卒業直前、自分の誕生日に学生時代の物一切を焼失したのは、「学生生活に区切りを付けろ」との天の配剤であったのかも知れない。人は心に積み重ねた記憶だけしか、あの世に持って行けないのだから。

 ワンダーフォーゲル部は部員数が減少しても未だ健在であるようだ。60年以上、人から人への繋がりが続いたことは素晴らしいことである。自分にとってワンダーフォーゲル部は遙かなる存在であっても、現在も当時の仲間達との友誼が続いている。早くして、この世を去った仲間達が健在なればとの思いは、今を生きる仲間共通であろう。何れ我々も彼等の後を追うことになろう。余命を数えられる歳になり、あの時代があったからこそ、現在があると感じている。遙かなるワンダーフォーゲル部は、心の中では身近な存在であったのかも知れない。

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