伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2020年4月7日: ABC予想の証明 T.G.

 コロナの暗い話ばかりなので明るい話を書く。

 テレビや新聞で、京都大学数理解析研究所の望月新一教授が数学の最大の難問「ABC予想」を証明したというニュースが話題になっている。ABC予想に詳しい東京工業大学の加藤文元教授は「数百年に1回の革命的な成果で、世紀の大偉業だ。ノーベル賞を1つや2つあげても足りないくらいではないか」と賛辞を惜しまない。今時めでたい話である。

 数学は神の領域に近い深遠な学問で、古来幾多の難問が人間を悩ませてきた。それを一つ一つ解決しながら人類の英知が磨かれてきた。数学という学問が文明を進歩させてきたと言って過言でない。ABC予想は数ある数学の難問の中では比較的新しい命題である。1985年にイギリスの数学者によって問題提起されたと言う。だから60年前のオールドタイマー数学科はとんと知らなかった。新聞で読んでびっくりした。そんな難問があったのかと。実に情けない数学科である。

 記事によれば、ABC予想とは、「「共通の素因数をもたない自然数a,b,cがa+b=cを満たすとする。積abcの素因数分解に現れる互いに異なる素数すべての積をrad(abc)と書く。このとき任意の整数εに対して、a,b,cに依存しない整数K=K(ε)が存在して、C<K(rad(abc))**1+ε が成り立つ。」と言う命題なのだそうだ。これがすこぶる難しくて、今まで世界中の数学者が誰一人として証明できなかった。それを望月教授が8年前に証明して、8年後の今になってやっとその証明の正しさが確認されたのだという。しかも証明の正しさを理解できる数学者が世界に11人しかいないのだと言う。命題も難問だが、その証明もすこぶる付きの難解だったのだ。数学恐るべし。

 ABC予想と同じような、自然数に関する代表的難問にフェルマーの定理がある。誰でも知っている世界一有名な難問である。内容は「3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理で、400年近く前にフランスの数学者フェルマーが問題提起した。ABC予想と違って定理自体はしごく簡明である。小学生でも理解できる。これがすこぶる付きの難問で、400年後の1995年にやっと証明された。そういう意味ではたったの27年で証明されたABC予想よりはるかに難問である。フェルマーはこの定理をメモに書いた際、「この定理に関して私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。」と書き残したと言う話は有名である。

 数学には代数学、幾何学、解析学などいろいろな分野があるが、その中で自然数を相手にする整数論は特に難解である。だからABC予想やフェルマーの定理が生まれる。ドイツの数学者ガウスは「整数は数学の女王」と言った。「女王は美しいが使われることがない」と言う意味である。数字の1、2,3を相手にする整数論は取っつきやすいが、難しいのではまり込むと抜け出せなくなる。だから数学の先生は生徒に、一生を棒に振るから決して整数論には手を出すなと忠告した。その言いつけを守らず、一生を棒に振った数学者は少なくない。

 整数論に関わる超難問にリーマン予想がある。19世紀にドイツの数学者リーマンが言い出した素数の分布に関する推論である。いまだに証明されていない。望月教授は自らが確立した「宇宙際タイヒミュラー理論」を用いてABC予想を証明したが、この理論は他の分野にも適用可能で、これを使えばリーマン予想の証明も出来そうだという。証明方法が多分野へ広く応用できる可能性がある点が、ノーベル賞をいくつももらう価値があると評される由縁である。残念ながら数学にノーベル賞はないが。

 同じような有名難問に「5次以上の代数方程式には一般解がない」という定理がある。2次方程式の一般解は公式として中学で習うから誰でも知っている。3次、4次の一般解もある。5次以上にはないと言う数学史に残る超難問である。フェルマーの定理と同じで、存在しないことの証明はすこぶる難しい。悪魔の証明とも言われる。それゆえ19世紀半ばまで誰も証明できなかった。それを20歳の若さで亡くなったフランスの天才的数学者ガロアが証明した。証明方法が実にユニーク、かつ難解で、当時のフランス数学界の大御所コーシーですら理解できなかったという。ABC予想の証明に似ている。その際ガロアが用いた群(グループ)という概念は、「群論」としてその後の抽象代数学の基礎となった。これも望月が証明に用いた「宇宙際タイヒミュラー理論」に似ている。

 大学3年の時、代数学の講義で群論を習った。教科書に使ったファン・デル・ヴェルデンの「現代代数学」の第二巻に、群論を応用したこの定理の証明が出てくる。読んでそれが理解できたときは感激した。数学がすっかり好きになった。ABC予想のニュースに触発されて、本棚の隅から古ぼけた「現代代数学」を引っ張り出して目を通してみたが、なんと書かれていることが一言一句理解できない。かって群論の素晴らしさに感激した数学科が、ただの凡人になっている。つくづく60年という歳月は恐ろしい。

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