伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年11月24日: 高齢者にとっての雑事と雑談  GP生

 人は高齢化が進むにつれ身体機能が劣化し衰え、機能が停止した時、人生の終焉を迎えることになる。人は過去を振り返ることを出来ても、行く末を見通す事はできない。何時も手探りで生きざるを得ないのが人なのだろう。人は高齢期を迎えても、自分の終焉が何時になるか見える訳では無い。過去に70歳の坂を越えられず、多くの友人達がこの世を去った。彼等も、その期を早くから予測してたとは思われない。自分も友人達も、これから更に厳しい峠を目前にしている。悲しいかな、人は歳月の進行には勝てないのだ。それでも有意義な日々を過ごすべく、多くの友人達は前を向いて生活している。

 人は車椅子になっても、寝たきりの生活を強いられても、頭さえ正常であれば、人としての矜持は維持できる。頭脳に異状が生じれば、心の想いを現す術も無くなる。他の身体機能が衰え、病を発症すれば、心は萎縮し平常心を失う事もあろう。高齢者が身体機能を維持するには、日々努力が必要である事は論を待たない。流れに任せれば楽ではあるが、それでは厳しい70歳の坂の前で力尽きる事になる。

 肉体の健康は維持できても、高齢者にとっての問題は気力の低下である。所謂やる気が起こらなくなるのだ。好奇心の低下は、その最たる物だ。ある時、突然意欲が低下するのでは無く、気がついた時に、その状態になっていることが多い。大きな病がきっかけになることも多いはずだ。自分は、70歳の半ばに発症した前立腺ガンの治療終了時には、それまでと同じ気持ちで生活が出来た。しかし昨年7月、腎盂ガンにより左腎臓を摘出し残された腎臓機能の低下を防ぐため、身体に負担の掛かる事一切を封印せざるを得なくなった。好きな長距離ドライブも同様である。更に、11月の膀胱ガン発症と治療は、自分の気力低下に追い打ちを掛けた。それまでと同じ生活が不可となったからだ。身体不調と心の萎縮は、前向きの意欲を失わせることになる。気力の低下の原因は、病だけでは無く、加齢の進行が大きく影響している。

 救いの一つは、日々生じる雑事に対処せざるを得ない事である。マンション管理は、生活の糧でもあるから手抜きは許されない。予定された事は、黙々と処理するしか無い。それでも始める時には、気力を振り絞る必要に迫られる。やるのは今なのに、一日一日引き延ばしたくなる気持ちを抑える必要に駆られる。マンションでは色々な問題が突然生じる。住宅機器であるエアコンやボイラー、トイレ、調理器具の故障もある。連絡を受ければ直ちに対応せざるを得ない。現物を確認し、修理か交換かの即断を迫られる。現場で入居者と話をしていると、忘れかけていた事に臨む意欲が、湧き上がってくるから不思議である。

 備品の破損による修理・交換は金で解決できても、近隣間のトラブルは厄介である。同じ建物に居住し、エレベーターやエントランスで常時顔を合わす関係であるからだ。新しい入居者には、初対面の挨拶の後、「近隣の人達に対する問題は直接交渉をせず、必ず自分を等して下さい。」とお願いしている。発生するトラブルは些細なことが多いが、それでも双方に感情の凝りを残さず解決するには、神経を使うことになる。苦情が持ち込まれた時、衰ていた意欲が瞬時に復活するのを感じる。解決を後には伸ばせないからだ。問題が生じないのに越したことは無い。けれど、衰え掛けている脳神経細胞復活に繋がることは間違い無い。有難くない老化防止である。

 日々の生活に雑事は付きものである。掃除、洗濯、買い物に台所作業、それに犬の世話もある。歳の取った夫婦にとって家事分担は、何処の家庭でも行っていることだ。連れ合いが体調不良になれば、病院通いや薬の手当も生じる。119番通報だけは願い下げだ。特別な仕事が無くとも、生きている限り日常の雑事は途切れることは無い。車椅子やベッド生活になれば、自らが出来る事は極めて限定されてしまう。雑事を前にして対処出来ることは、心身共に正常である証である。そうは思っても、事に際して意欲や気力を奮い起こす事は避けられない。高齢者が生きるとは、日々の雑事をこなす事なのかも知れない。

 単調になりがちな高齢者の生活にとって、会話は心の活力の源になることが多い。家族間の会話、特に連れ合いとの会話は、長年のなれ合いの結果、心を和ませたり、奮い立たせたりすることは少ないのが通例である。友人達の中には、仲間同士でトレッキングや温泉旅行を行っている者も多い。伝蔵荘での年2回の例会は、かっての山仲間と旧交を温める場所である。自分は諸事情で何年も参加をしていないが、何十年間に及ぶ会合の結果、新鮮な会話が少なくなったと聞き及んでいる。夫婦間の馴れ合いの友人版なのかも知れない。

 新鮮な雑談は、衰えがちな心を蘇らせる力を秘めている。午前中のスポーツジムは老人天国である。長年のジム通いは多くの雑談仲間を増やすことになった。短時間の雑談であっても、人が替われば話題も変わり、しばしの和みの一時を楽しむことが出来る。エントランスやエレベーターでマンションの住人に出会うとき、挨拶の後に一声掛けることを心がけている。商売心がそうさせているだけではない。高齢者にとって雑談の機会は中々つ創れるものでは無いからだ。

 立ち話的雑談は、短時間で終わることが通例である。その点、電話での雑談は顔が見えないだけに、長時間の会話となることが多い。友人達は殆ど現役をリタイヤしている故、一定の時間帯に電話をすれば、長時間の雑談が可能になる。普段顔を合わす事は少なくとも、定期、不定期に電話を継続することで、かっての交友が蘇り、回を重ねる毎に話題も広がってくる。小学校のクラス会で再会した苦労人の女性とは、ひょんな事が契機となって定期的に電話雑談を楽しむ間柄になった。明るく心の広い彼女との会話は、一服の清涼剤になっている。

 電話相手の最年長は、離島に居住している92歳の女性である。自分が中学生の時、自宅の二階に下宿したのが縁であった。彼女は、自分の家を出てから同じ街に長く居住していた。彼女とは、年の差は大きいのに、何故か気が合う存在であった。彼女は歳をとり、生まれ故郷に戻っていったが、年賀状だけは続いていた。何年も前、如何しているかと思い電話したのが始まりで、以来、年2回程度の会話が続いている。彼女は、自分の両親の事を知っている数少ない存在でもある。電話の度に、両親のことが話題になった。会話の終わりは、「何時までも、続けられると良いですね」が、決まり文句である。

 雑談は話題が次々に替わる為、刺激を受ける脳細胞の部位が変化するのではと推測している。お互い顔を合わせての会話は、よほどのことが無ければ発展は少ないものだ。電話雑談は、言葉だけのやり取り故、脳裏に浮かぶ事柄を言葉に現すことで、更に会話が発展する事になる。自分の想いを文章で表すよりも、更に想いの領域が広がるのかも知れない。雑談を終え受話器を置いたときに、心に張りが生じている事を感じる。

 人は高齢化が進めば、話し相手が少なくなるのが通例である。親しく話しが出来る何人もの友人は鬼籍の人だ。人は独りでは生きられない。もし独り長寿を達成しても、話し相手が誰も居なくなったとしたら、生きる張り合いは無くなるだろう。高齢者同士のささやかな雑談は、生き甲斐に通じるのだ。雑事と雑談は高齢者にとって間違い無く生きている証である。

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