伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年11月13日: 海外出張の思い出 T.G.

(ワシントンDCのモール)

 40代後半から60代初めまで海外出張が多く、アメリカ、ヨーロッパ往復のビジネス便にはさんざん乗った。おかげでANAやJALのマイレージがしこたま貯まり、退職後もその余録に与れた。仕事がらみの出張旅行なので特段面白い話はない。それでもいくつか思い出深い話がある。

 90年代の初め、防衛関係の仕事をしていて何度かワシントンを訪れた。国防省のあるワシントンには軍需産業がたくさん集まっている。仕事の合間にモールを散歩した。ちょうど湾岸戦争終結直後で、その記念式典なのだろうか、議事堂からリンカーン記念堂に至るあの広大なモールの敷地に、アパッチ戦闘ヘリ、戦車、1分間に6千発発射するバルカン砲など湾岸戦で使ったありとあらゆる兵器が並べられていた。どうやって運んだのか、F16戦闘機まで並べてある。ないのは航空母艦と潜水艦ぐらいである。いくら米軍でも、海から遠いワシントンに空母は運べない。目を引いたのは湾岸戦で有名になったパトリオットミサイルである。これでイラクのミサイルを打ち落として勇名を馳せた。防衛関係の仕事をしていたが、一度にこんな大量の近代兵器を見たのはこれが最初で最後である。これらを大勢の市民や観光客が取り囲んで兵隊さん達の説明を熱心に聞いている。ヘリや戦車の操縦席に座らせてもらった子供達が、あこがれの眼でで兵隊さん達を見ている。自衛隊に対する日本国民の対応とはまったく違うことに気づかされた。アメリカでは軍人さんは市民から尊敬されているのだ。日本とは大違いである。

(アラスカのマッキンレー)

 これも同じくワシントン出張の帰りである。ダレス空港からのANA便に乗った。当時はANAが東海岸の国際線就航を始めたばかりの頃で、ジャンボジェットの二階席のビジネスクラスには小生ただ一人、ほかに誰も乗っていなかった。飛び立って2〜3時間経った頃、まるで小生専属状態になっていたスチュワーデス(当時は客室乗務員などと無粋な言い方はしなかった)がやってきて、「お客様、ただいまマッキンレー山が見えておりますが、ご覧になりますか」と聞く。マッキンレ−は北米大陸の最高峰で、まだ見たことがない。山大好き人間がご覧にならないわけがない。見たいというと、二階席の最前部にあるドアを開けてコックピットに入れてくれた。パイロットの後ろの席に座らされて窓の右前方を見ると、真っ白なマッキンレーが少しずつ後方に動いていくのが見えた。そのまましばらく見とれていて席に戻ったが、ハイジャックが多発し、飛行安全が極度に重視される今では考えられないことである。当時の空の旅はのんびりしていたのだ。

(壇上のベルルスコーニ
 この後暴漢に襲われた)

 シチリアで開催されたアフリカ問題に関する国際会議に参加したことがある。コンピュータ会社の社員がなぜそんな会議に出たのか、細かい経緯は忘れたが、風光明媚なシチリアの記憶だけは多々残っている。あまりに印象が良かったので、後年家人と二人で旅行したほどだ。

 会議はパレルモの王宮で行われた。歴史的建造物でパレルモ随一の観光名所である。会議の冒頭、当時イタリアの首相だったベルルスコーニが冒頭の挨拶をした。そこへ突然暴漢が現れ、壇上のベルルスコーニに迫ったのには驚いた。ヨーロッパと発展途上のアフリカとの対立をテーマにしたセンシティブな会議であることにあらためて気づかされた。どうするか見ていたら、ベルルスコーニは悠揚として迫らず、おもむろに壇上から手を上げて制止し、二言三言言葉をかけその場を納めていた。とやかく風評の芳しからぬ名物首相だが、肝の据わった人物の大きさが印象に残った。

(マッシモ劇場のエンタランス)

 会議終了後のパーティは有名なマッシモ劇場で行われた。フランシス・コッポラの映画、ゴッドファーザーの最後のシーンのロケに使われた劇場である。メインエンタランスに立ち並ぶ衛兵に見送られて中に入ると、メインホールでクラシックの演奏をしている。フルートとバイオリン、チェロの三重奏である。なかなか見事な演奏で、立ち止まって聴いていたら、年配の紳士が近寄ってきて、演奏しているのはハイドンのフルート三重奏曲だと話しかけてきた。3人の演奏者はいずれも自分の子供達だという。ミラノの音楽学校を出て、今ではパレルモを中心に演奏活動をしているサラディーノ三重奏団だという。ご自慢の娘と息子達なのだろう。

(マッシモ劇場で演奏する
 サラディーノ三重奏団)

 忘れていた頃、会社に小包とメールが送られてきた。例のパレルモ紳士からである。立ち話の時に名刺でも渡していたのだろうか。中にCDが1枚入っていて、家に持って帰ってプレーヤーで聴いたら、あのときのサラディーノ三重奏団の演奏である。今度はハイドンではなくモーツアルトだった。メールは、「ぜひ日本で演奏活動をさせたい。よろしければ、どなたかお知り合いの音楽関係者に紹介してもらえないだろうか」と言う依頼状である。CDはおそらくプロモーション用に作ったものなのだろう。かねてからの音楽好きではあるが、知り合いに音楽関係者はいない。周りの同僚達に聞いても、誰も音楽関係のつてはないという。仕方なしに断りのメール返信を送ったが、あの後サラディーノ三重奏団はどうしたのだろう。聞いたこともないし、ネットで検索しても何もヒットしない。夢破れて解散したのだろうか。

 パリで開かれた国際会議に出席する前、関係業界の親しい友人とスイスに立ち寄り、アルプスのグリンデルワルトで道草を食ったことがある。アイガー直下のホテルに泊まり、登山鉄道でユングフラウヨッホを楽しんだ。当時の我が社は羽振りのいい5兆円企業で、この程度のお手盛り出張は大目に見られたのだ。今では役員でも海外出張はエコノミーだという。企業も人間も、落ち目にはなりたくないものである。

 パリへはスイスの首都、ベルン空港の便を使った。ベルン駅前で誰に聞いてもベルンに空港はないという。駅員も売店のおばさんも知らないという。飛行機に乗りたかったらチューリッヒに行け、そこなら空港があると言われた、狐につままれたような気分でタクシーに乗ったら、さすがにタクシーの運ちゃんは知っていて、郊外の空港へ連れて行ってくれた。ベルン市民さえ知らない、短い滑走路が一本だけの小さなローカル空港である。

 ジェット機は離着陸できないので、飛ぶのは双発の小型プロペラ機である。1万メートルの高度を高速で飛ぶジェット旅客機と違い、小型プロペラ機は低空をのんびり飛ぶ。下の景色がよく見える。パリまで3時間近くかかったが、下の景色は行けども行けども真っ平らな畑と牧草地。日本のような山岳風景はどこにもない。パリに着くまでそういう景色が延々と続いた。山岳地80%の日本と違い、フランスは南の山岳地帯を除き、全土がほとんど平らな農地なのだ。フランスが食糧自給率120%の世界有数の農業大国である理由がよく理解できた。

 今では懐かしい思い出話である。

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