伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2011年11月9日: 旧き友人達との会合 GP生

 先月末、中学、高校六年間同じクラスであった旧い友人、二人と新宿で会合を持った。何年ぶりの再会であったろうか。10年前、高校時代の恩師のお宅に一緒にお邪魔したのが、顔を合わせた最後であった事を思い出した。学校は東京郊外にある中高一貫の私立校である。学級編成は入学時と高校進学時の二回のみで、気の合った仲間が六年間同じクラスになったのは、何かの縁であったのかも知れない。もう1人仲間が居たが、体調不良で参加出来なかった。自分を含めて4人は山仲間であった。中学時代は学校の山岳部での登山であり、高校時代は仲間同士でホームグランドであった奥多摩や奥秩父の山々を歩いたものだ。

 会合場所は新宿西口から徒歩10分ほど、都庁近くのホテルラウンジである。新宿西口の改札を出るのは何年ぶりだろう。中高時代の新宿西口は、戦災後に建てられた木造建造物が密集し、西に進めば広大な淀橋浄水場に突き当たった。現在は超高層ビルが林立している。昔を思い出しながら、目的のホテルを目指して西に延びる地下道を歩いた。現在の町並みを見るにつけ、歳を取った事を自覚せざるを得なかった。目的のラウンジは3階にあった。早く着きすぎたので、予約席で友人達を待つことになった。東京生まれの田舎者にとってコーヒー代が気になったので、メニューを見ると通常の3倍以上であった。予約した友人に依れば、コーヒー一杯で3時間はOKと言っていた。殆どが所場代なのだろう。

 予定の時間に友人達は登場した。ともに顔の色艶も良く元気であった。2人とも大学の理工学部を卒業し、大企業の技術屋として定年まで勤め上げていた。安定した職場であったようだ。技術屋として就職しても、四回も違う分野で仕事をせざるを得なかった自分とは、違う世界に生きてきたようだ。サラリーマンとして恵まれた生活を送ってきたことが、言葉の節々に感じられた。それでも6年間、多感な成長期を過ごしてきた共通基盤は脳裏から消え去るものでは無い。

 友人の一人Ka君は、現在でも山歩きをしている。つい最近、彼はカナディアンロッキーへのトレッキングに参加した。麓から山嶺近くまでの往復はヘリコプターを利用し、日本人ガイド二人と女性賄い人が同行した2泊3日の優雅な旅を語ってくれた。彼は若い時から日本100名山の踏破を試み、退職後に達成した経歴の持ち主でもある。最初は社内の山好き達との名山巡りであったようだが、殆どは単独行だそうだ。彼は同期の中でも医者や薬に縁の無い、最も元気な一人である。

 もう1人の友人、Yo君とは山行きの忘れられない記憶がある。2人とも大学受験の浪人時代、奥秩父の甲武信ヶ岳登山を行った。単調で忍耐を強いられる浪人生活の気晴らしのためであった。小海線の信濃川上からバスで麓に行き、北側から甲武信ヶ岳を目指した。甲武信ヶ岳の山小屋で一泊して、翌日は国師岳を経て金峰山を目指す予定であった。山小屋に到着して部屋に入った時、Ya君はよろけてガラス窓に頭を突っ込んでしまった。額の切り口からの出血は応急手当により止血をしたが、とても山歩きを続けられる状態では無かった。受験浪人生活による体力の消耗が酷かったのだ。翌朝、病院を目指し下山したが、彼のザックも背負う自分は、怪我人とは言え空身の彼に歩調を合わせられなかった。彼の後を追いながら、目指す佐久総合病院への無事到着を願った。病院で額を縫い、治療を終えたYo君の姿に安堵した事は忘れられない。歳をとった彼の額には、傷口が鮮明に残っていた。

 Ka君が高校卒業時の同期生名簿を持ってきてくれた。それに依れば3クラス144名中、所在判明者は67名、住所不明者49名、逝去者28名となっていた。卒業後61年の歳月が過ぎ去っていたのだ。逝去者の名前を見ると、当時親しかった友人達何人もが名を連ねていた。

 逝去者の一人、温厚な人柄のMa君はクラスの重鎮であった。成績は優秀、何時もクラストップの存在であった。Ma君は山の仲間でもあり、何時も自分が目標とする親友でもあった。高校3年時にMa君と大菩薩嶺への登山を計画した。Yo君やKo君、そして所在不明のUe君も参加した。国鉄学生割引を利用するため、Ma君とともに学割発行を担任に懇願した記憶が残っている。当時、友人同士の宿泊を伴う旅行は、学校の許可が必要であったのだ。Ma君は大学卒業後、大手電機会社に就職し、アメリカ駐在時に現地ビジネスの基礎作りに活躍したと聞いている。

 Ma君は退職後、悠々自適の生活をしていたようだ。自分が何十年ぶりに、彼に再会したのは同期会の席であった。昔と変わらぬ彼と話し、心が躍ったことを覚えている。その翌年、彼は急逝した。別のクラス会から帰宅して、家に入った途端倒れ、そのまま息を引き取ったと言う。脳梗塞であった。葬儀には親しかった友人達と参列した。出棺時、同期のゼミ仲間達が「みやこぞ、弥生」を唱和し棺を送る姿は、Ma君の人柄が偲ばれる光景であった。

 この学校への進学は小学校の担任と母との相談の結果であり、当然自分の預かり知らぬ所で決められていた。入試の為に一年間塾に通わされた。無事合格し、家から片道1時間近くを要する通学が始まった。最寄りの駅から学校までは2qの道のりである。バス乗車は禁止されており、全校生徒が連なって街道を歩く姿は日常風景であった。下校時には何人もの友人達と雑談を楽しみながら歩いたものだ。6年間の通学により脚力が鍛えられた事は間違い無い。老齢期の今も年齢以上の脚力を有しているのは、往復4qの歩行が無駄では無かった証である。

 学校では「健康 真面目 努力」を目標として掲げ、その基になる人間教育が行われていた。バス乗車禁止による天候の如何に関わらない通学時の歩行は、その一環であったのだ。精神の修養は、週何回か行われた全校生徒による「凝念」と呼ばれる集会に凝縮されている。学苑長の合図により、両手をへそ下に置き、目をつむり、背筋を伸ばし、心を集中する行為である。学苑長の講話の後、人にとって心の大切さを説いた全8章から成る「心力歌」の一つの章を唱和するのが習わしであった。中学生に本当の意味が分かるはずは無い。漢文の素読と一緒で、読み唱えることに意味があるのだ。理解は出来なくとも6年間繰り返せば、文章は脳裏にたたき込まれる。本当に理解出来るのは社会に出てからだろう。心が存在する意義と修養が、人生の目標である事を説いた第二章は、今でも空で唱えられる。ある時から心の指針にもなった章でもある。

 静かなラウンジで友人達と親しく語らいながら、心身共に自分の基礎がこの学校生活で培われた事に想いを馳せた。ここで得たものは、心の修養の大切さと、今に繋がる脚力、そして友人達であった。学校は勉強する場であることには違いは無いが、勉強以上に大事なものを与えてくれる学び舎であったのだ。母校の現状は知るよしも無いが、現在孫が系列の大学教育学部で教師を目指して学んでいる。この大学の教育学部は名高く、教員への就職割合も高いと聞いている。母校の人間教育の精神は生きているのかも知れない。

 3時間近い歓談を楽しんだ後、友人達とは新宿駅西口で再会を約して別れた。再会を期してもこれが最後である可能性を捨てきれないのが、高齢者の悲しさだ。だからこそ、旧き友人達との会合を大事にしたいと心より思う。お互いの健勝を願うのみだ。

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