伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2011年11月3日: 腎経の鍼灸治療を始める GP生

 左腎臓に発症した腎盂ガン治療のため、腎臓摘出手術を行ってから1年3ヶ月が過ぎた。残された右腎臓が命綱である。主治医は腎臓一つでも正常時の最大70%の機能を発揮すると説明しているが、残された腎臓が過負荷に晒される事は間違い無い。腎機能を現すマーカーに、血液中のクレアチニン値がある。正常値は0.65〜1.07である。手術前は0.75〜0.74と安定した値を示していた。5年前の前立腺ガン治療後以来、継続してきた定期検査の結果である。それが腎臓摘出1ヶ月後の値は、1.33の高値には跳ね上がり、その後の定期検査でも1.3台が続いた。正常値の最大に対して20%以上高い値である。主治医の診断は、「腎機能は悪くはないが、良くもない」であった。主治医にとっては、術後予想される値であったのだろう。この程度なら腎機能は維持できるとの診断であったのだ。

 腎臓は水分の排出のみならず、余剰のナトリウムやカリウム、更にタンパク質由来の窒素分等の老廃物排出を担っている。人工透析患者の食事で、タンパク質と野菜・果実に厳しい制限が課せられているのは、腎機能への負担を軽減する為である。亡き父は74歳で腎不全になり、6年間週3回の人工透析を行った末、心不全でこの世を去った。人工透析は全血液を濾過し老廃物を除去するため、心臓に過大な負担が掛かることになる。この結果心臓は肥大し、心不全を発症したと思われる。健全な心臓の持ち主であった父でさえ、6年が限界であったのだ。しかも、週3回何時間もベッドに横たわる人工透析は、高齢者の体力を著しく消耗させる。透析を終えた父を抱え、車まで乗せる時、人工透析だけは御免との思いを強くしたものだ。

 その自分が腎臓一つで生きなければならなくなった。主治医は「腎機能は悪くはなっていない」と言うが、加齢の進行により、体力も他の臓器機能も低下していくだろう。今後、腎臓に負担が掛かり、人工透析に頼らざるを得なくなる可能性は捨て切れない。腎臓摘出以来、ジムでの短時間の水中歩行を除き、好きで行っていたマンションの改修工事や車の長距離運転など、身体に負担を掛ける行為一切を封印した。作業衣も処分した。高カリウム含有食品や低質タンパク食の摂取を制限した。必須アミノ酸の豊富なタンパク質は、体内での代謝に必要であり、この際の代謝産物である窒素化合物はともかく、不使用アミノ酸由来の窒素化合物による、腎臓負担を軽減させるためである。自分で出来る腎機能維持には限度かある。現代医学は検査と治療はしても、日常での腎機能維持には回答を出せない。父の最期を看取っただけに、手術以来残された腎臓が過負荷により、機能不全に陥る不安が心から離れなかった。

 隣町にある漢方薬局では、80歳を越える高齢の漢方薬医が患者の相談にのっていた。経験豊富の漢方医のアドバイスと漢方薬選択は適切であり、体調不良に悩まされていた家人は救われてきた。この漢方医の息子さんが、同じ街で鍼灸院を開業した事を最近知る事になった。全身の体調不良に悩まされ苦しんでいた家人は、3が月前鍼灸院の門を叩いた。治療を重ねるに従って、家人の苦痛は薄皮を剥ぐような感じで少しずつ薄れていった。完治までには時間を要するだろうし、完治出来るかどうかも不明だ。それでも日常生活が少しでも安定方向に進むのであれば、治療は成功と考えている。高齢者の身体不調が完全に戻る事は少ないからだ。

 治療院の院長は中国で中医学を学び、修行してきた40代の鍼灸師であり漢方医でもある。父親の血筋を引いているのか、患者の立場に寄り添う穏やかな人柄と優れた技能を思えば、まれに見る鍼灸師であると感じた。自分の住む街には駅から徒歩10分範囲に10軒以上の鍼灸院、整骨院が軒を並べている。整形外科での治療に不満を持っている患者が、いかに多いかを示している。複雑な機能を有する人体の治療は、現代医学では限界があると言うことなのだろう。家人は、この内の何軒かで治療を経験したが、家人の苦悩を和らげた治療師は一人として居なかった。

 家人の治療経過を見、鍼灸師と話をして、この人なら腎機能に対する自分の不安に、何らかの回答を出してくれるのではないかと思い、治療を申し込んだ。10月初めの事である。治療に際して、最初は問診である。5年前の前立腺ガン治療後の状態、腎盂ガンにより左腎臓摘出手術後の状態、膀胱ガンのステージと治療及び経過等を詳しく説明し、残された腎機能維持が治療目的である旨話した。治療師の解答は「腎機能の向上は可能である。治療は漢方薬を主とし、鍼灸は補助的となる。同時に鍼灸時に腎機能状態を確認する事も目的とする。」ということであった。治療は週1回がベストであると言われた。腎経の治療は何回も経験しているので、心配しないようにとも話してくれた。

 裸の上半身上に鍼灸用治療衣を羽織り、ベッドに仰向けになった。治療師は下半身を中心に全身の触診を始めた。いよいよ腎経治療の一歩が始まった。中医学で言う腎経とは、腎臓だけでなく泌尿器系、生殖器官やホルモン代謝、免疫、自律神経などの機能を司る臓器全てを含むようだ。腎臓機能の異常は皮膚の色、特に踝の色に現れると説明された。治療師は、「踝は通常より黒ずんでいて、腎機能の低下が顕著に現れている。足は乾燥状態にあり、血行不良と言える。下腹部は冷たく血行は芳しくない。肝機能も少し衰えているかも知れない。腹部を叩くとその音から、空気が溜まっている。食欲は低下しているはずだ」との診断であった。血行不良は予想外であったが、説明に納得せざるを得なかった。腎機能に対する診断は、血液検査結果で裏付けられている。踝の皮膚の黒ずみは考えてもみなかったことだ。言われてみて気がついたことがある。腎臓手術以来、入院時の筋力低下が解消しても、外での歩行に足の重さを感じることが多くなったのだ。ジムでの水中歩行は定期的に行っているし、一日5000歩前後の歩行は行っている。筋力の著しい低下は解消されている筈なのにとの思いであった。原因は脚の血行不良が原因だったのだ。言われてみて、以前より食欲の低下は感じていた。

 治療は仰向けになった下半身を中心に、ツボに針を刺すことから始まった。腹部に微細な網を張った木箱にもぐさを入れた箱灸が置かれた。冷えた腹部への治療である。腹部の冷えは消化器のみならず、肝機能や腎機能に大きな影響を及ぼす。入浴では表面を温めても、内部まで暖めるのは容易ではない。箱灸を始めて暫くすると腹部に気持ちよさを感じ始めた。内部が暖まってきた証である。次いで仰向けになり、背中から踝までのツボに多数の鍼が差された。モグサがセットされた鍼に火が付けられ、鍼刺激だけでなく温熱も加わった。けだるい気持ちよさに眠気を誘われた。鍼灸治療が終わると、仕上げはマッサージであった。1時間以上に亘る治療は全身の虚脱を招き、治療が終わっても直ぐには起き上がれなかった。控え室で出されたお茶の旨さが喉に染みた。

 治療の主体は4種類の漢方薬である。頻尿には黒色丸薬の「杞菊地黄丸」が処方された。この薬は視力低下にも効能がある薬だ。食前毎に8錠ずつの服用である。二つ目は「鼈甲・亀甲・鹿角のチカラ」と名付けられた漢方薬である。スッポンとクサガメの甲羅、それに鹿の角を煮出し濃縮したドロドロしたエキスである。これは朝食前と夕食前の一日二回の服用である。この薬は腎臓と膀胱の治療効果が高いと言われている。腎臓と膀胱の活性化に期待大だ。三つ目の「冠元顆粒」は血液の流れを良くし、所謂「?血」状態を改善する効能を有する漢方薬である。最期は、保湿用クリーム「瑞花露」。これを風呂上がりに脚に塗り込み、マッサージを行うことで血行が促進する。薬を飲み慣れない自分にとって習慣づける努力が必要であった。

 漢方薬の服用と週1回の鍼灸治療を始めて1ヶ月近くが経過した。治療後、帰宅時の足取りは、今まで経験したことのない軽さであった。時の経過とともに足の軽さは変化していくが、以前の重さとはほど遠い状態である。排尿にも変化が現れてきた。尿に勢いが出てきた事と、排尿間隔が延びる傾向が生じたことだ。治療師からは夜のアルコールは止められた。就寝中肝臓に余計な負担を掛けないためだ。腎臓と肝臓は密接な関係を持っている故だ。アルコールにより、妨げられる睡眠導入の遅れを防ぐ意味もある。11月半に定期検診が予定されている。検査結果に興味津々である。

 以前の日誌にも書いた通り、各ガン治療時の主治医は、大学病院特有の事情により3回とも違う医師であった。どの医師も経験豊富な優秀な医師であり、患者の気持ちに寄り添ってくれた。今回の鍼灸師も同じである。患者にとって、患者の気持ちを理解し、かつ優秀な技能と経験を有する医師や治療師と出会う可能性は高くはないだろう。自分の場合は、医師との出会いは恵まれていたと言える。運命の然らしめる結果と言うしかない。鍼灸院への通院と漢方薬服用は、生きている限り続ける事になろう。腎経のみならず、年々劣化していく身体状態を少しでも正常に保つ鍼灸治療は、効果が期待できるからだ。この歳になって、素晴らしい鍼灸師に巡り会えた幸せを喜びたい。

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