伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年9月12日: 父と息子の繋がり GP生

 父がこの世を去ってから26年が経過した。つい先日の事のように思えても、光陰は矢のごとしである。自分もいつの間にか、その時の父と同い歳になってしまった。父は腎不全を患い、6年に及ぶ人工透析から心不全を発症し、この世を去った。父の跡を追う訳ではないが、自分も昨年、左腎臓を摘出した。遺伝子のなせる技かも知れない。この歳を迎え亡き父に想いを馳せるのは、終活の気持ちがあるのかも知れない。

 父親と息子の関係は、理屈抜の繋がりである母親と息子とは異なる様に思える。息子が成長するにつれ、父親との一歩踏み込んだ会話は少なくなり、話がかみ合わない事も多くなる。息子が高齢期を迎え、当時の父親と同じ年齢に近づいた時、初めて父親の気持ちが理解出来るのかも知れない。その頃まで、父親が存命なのは稀であろう。息子が父親を思うことは少なくとも、息子を思わない父親は居ないものだ。

 自分は10歳になるまで父の存在に実感を持てなかった。自分が生まれた時、父は支那事変で北支に出征中であり、4歳の時、再び大東亜戦争で出征した。物心付く前から父は家には居なかったからだ。床の間に飾られた軍服姿の写真に、母は毎日お茶を供えていた。母に叱れた時、写真の前で「お父さんごめんなさい」と声を上げながら、頭を下げさせられた。これが父を意識した最初であった。家族が父の出征先も生死も知る術は無かった。父が何処かで生きていて欲しいとの母の願いが、床の間の写真であったと思っている。出征兵士の留守家族は、いずこも同じ思いであったのだろう。

 父の生存が知れたのは、突然届いた一枚の葉書からであった。昭和21年の事である。手紙は全てカタカナで書かれており、発信地はシベリアであった。この手紙は、現在も都合4枚残っている。父は千島列島の択捉島に駐屯し、敗戦とともに進駐してきたソ連軍の捕虜となった。シベリア奥地に抑留され、強制労働に従事させられた。年に一度、留守家族に葉書が書けたのは、ノルマを達成するための人参であったのだ。身体頑健な父であったから生還できたのだろう。

 父は昭和24年11月、復員船興安丸で舞鶴に上陸した。NHKの帰国者便りで父の名前を聴いた時、家族3人が抱き合って喜んだ記憶は鮮明である。戦後まもなく祖父母は相次いで他界し、残された家族は母姉と自分の3人になっていた。引揚援護局からの連絡で、品川駅に到着する父を出迎えに行った記憶は忘れられない。シベリアの分厚い防寒具に身を包んだ父は、床の間の写真とあまりにもかけ離れた姿であった。母から「お父さんよ」と言われも、実感は湧かなかった。これが物心ついて以来、初めての父と出会いであった。小学4年生の時である。

 父の本職は印刷工である。技術は極めて優秀であったようだ。何枚もの賞状が残されている。シベリアでは家業は農業で通したそうだ。「印刷技術を持っている事が知れると、帰還が遅れるから」と話していた。父はシベリア時代の話は滅多にしなかった。あまりの過酷さ故、口にするのは辛かったのだろう。生きている事を知らせたい一心で、懸命に働いたとは話してくれた。帰国後父は出征前に勤めていた印刷会社に復職出来なかった。「シベリア帰りはアカに染まっている」と言う風評の為である。別の印刷会社に就職した父は、出勤は早く、帰宅は夜遅く、顔を合わせる機会はたまの休日だけであった。敗戦直後は、皆生きるのに必死であった時代であったのだ。

 家から歩いて15分ほどの所に200坪の畑があった。祖父は、家が絶えた隣家から永代供養を頼まれ、畑はその供養料であった。現在もお寺さんでは、二家分の供養を行っている。休日は家族4人総出でリヤカーに農具を乗せ、畑仕事に精を出した。小学生である自分の仕事は、耕作と収穫であった。陸稲、薩摩芋、ジャガイモを栽培した記憶がある。生きるため皆で働いたからこそ、家族の繋がりを深まったのだろう。

 中学高校の進学に際しては、父は一切何も言わなかった。全て母任せであったのだ。父は家のことを万事母に任せていたように思えた。両親間でどの様な相談がなされたかは、子供には知るよしもない。父は子供を叱ることは滅多に無かった。只一度だけ父に怒られ、二階の押し入れに放り込まれた事があった。今では懐かしい思い出である。父は家族のために黙々と働き続けているようには思えた。父は下戸で、三三九度の杯で顔を赤くした写真が残っている。日頃の気晴らしは如何していたのだろうか。

 大学進学は自分の意思で全て押し通した。父に何回も迷惑をかけた後、都外の大学に進学した。卒業する迄の長い間、父は黙って学費と生活費の面倒を見てくれた。これがどれ程大変なことかは、自分が同じ立場に立ったとき良く分かった。在学中、父は自分の住まいに来たことはない。大学の寮で生活していた時、寮生の不始末で寮が全焼し、大学時代の物全てを失った。卒業の年のことである。寮焼失の日が自分の誕生日であったのは、偶然だけではないのかも知れない。その日を境に好きな山行きと縁を切った。この時布団を担いで来てくれたのが父であった。

 自分がまだ30代の初め、離島の鉱山で勤務をしていた頃の事である。熔接の不始末により自分の坑場から出火し、全山の生産を10日間ストップさせたことがある。この間、不眠不休の消火活動を行った。消火が確認されて坑外に上がった時、一本の電話が掛かってきた。「父がくも膜下出血で倒れた。意識不明、直ぐ戻れ」であった。翌朝の船に乗り、空港に直行した。父が倒れた場所が、掛かりつけ病院のであったのは不幸中の幸いであった。医者と懇意の脳外科医が勤務する埼玉県の病院へ父を寝台搬送した。後遺症も残らず全快出来たのは、初期手当に救われた結果であろう。父は齢50代後半であった。もし連絡が消火活動中であったら、身動きが出来ず進退窮まっただろう。父が倒れた日に鎮火したことは偶然とは思えない。運命を司る何か大きな存在を感じざるを得ない。

 その後父の健康は良好に推移した。ところが74歳の時、駅のホームで転倒し大腿骨の骨盤部を骨折した。治療は人工関節を取り付ける大手術であった。入院手続きの時、保護者欄への記載を求められ自分の名前を記入した。立場の逆転に愕然とした思いであった。自分が47歳の時である。この手術後、父の弱点である腎機能が悪化し、人工透析の止むなきに至った。

 人工透析は6年間続いた。週三回、病院へ送る車中での会話は、父と息子の繋がりを強める場となった。叩き上げの職人である父は、頑固で人の言うことを聞かないことが多かった。ところが家族の力を借りなければ生きられない現実は、そんな父を少しずつ変えていったように思える。車中での会話は多岐にわたった。父の関心は自分が死んだ後の家のことであった。多くのことが二人だけの話で決められ、実行するのは自分であった。

 父は祖父が建てた墓石を建て替えたいと考えていた。相談の結果、父は改修を決意し、自分が一切を行った。墓石をお清めする仏事に、父は車椅子で参列した。住職の読経を聴きながら、新しい墓石を眺めている父の姿が忘れられない。生前最後の外出でもあり、最後の父親孝行となった。それから半年後、父は急逝した。父の遺骨は自らが建てた墓へ埋葬された。さぞかし満足であったろう。

 父が亡くなった後も自分との繋がりは切れてはいなかった。家人の知り合いに霊能力の強い女性がいる。彼女を通して父は「仏壇が汚れている。お稲荷さんの周辺が汚い。」など、自分への伝言が何回も届けられた。生前の父が気に掛けてしていたことを、自分が怠っていたからである。間違い無く父の伝言であった。父はあの世から自分を見守っていたのだ。そのうち父からの伝言が届かなくなった。彼女に尋ねると、「あなたの守護霊になったのよ」と言われた。ならば、自分の心の内はお見通しである。潜在意識に働きかけて意思を伝えることも可能であろう。時々夢の中に父が現れることがある。生前と違い、何時もにこやかな顔をしていた。目覚めたとき心が温かく感じるのは、父の愛情であったのだろう。

 父親と息子の繋がりは長い時間を掛けて築かれるものである。息子が父親との強い繋がりを意識することなく、父親と別れる事もあろう。父親の想いを息子が感じ取り、応える事により、深い繋がりが作られるのかも知れない。若い時は父の存在を余り意識することはなかった。父が身体のトラブルに見舞われるにつれ、跡継ぎとしての立場を考えざるを得なくなった時、改めて父を意識する事になった。自らの意思で生きて来たつもりでも、目に見えない力により、進むべき道が運命づけられたように思える。この世を去った父の年齢は超えられそうだが、何れこの世との別れは訪れる。その時まで父は、自分の心の中で生き続けるだろう。

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