伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年8月29日: 古地図に見る我が故郷 GP生

 ここに一枚の古地図がある。「明治20年二万分ノ一の地図」である。昨年、隣町のデパートに出店する紀伊國屋書店の特売で購入した東京近郊図七枚組の一枚である。店員と話をしていて興味をそそられ、衝動買いをした。七枚全てを眺めて目に付くのは、曲がりくねった街道と畑、樹木記号である。人家は街道沿いに黒い点で繋がっていても、後は点在である。所謂市街地が殆ど見られない。都心部の地図を見ると、皇居の東側から隅田川東岸、北は上野近くまで市街地が表示されていた。市街地は旧江戸の中心地と重なっていた。明治維新から20年にして、かくも精巧な地図を作り得た日本人の能力に感慨を覚えた。

 古地図は暫く本棚に置いたままにしていたが、久しぶりに自分の故郷でもあり、現在も居住する地域の一枚を取り出し、暫く眺めていた。地図には武蔵国東多摩郡と表示され、現在の町名になっている村名が点在していた。東西に走る街道は、北は青梅街道、南に五日市街道があり、遙か南方に、黒い2本線が描かれていた。よく見ると街道ではなく玉川上水であった。当時の村役場は青梅街道に面しており、集落もここに密集していた。青梅街道は、この地域の物流と往来の中心であったのだろう。時代の流れとともに街道の拡張工事が進み、現在は片側3車線の幹線道路になっている。大幹線である甲州街道は遙か南であり、当地の居住者には縁は少なかったと思われる。

 武蔵野台地東側の窪地からの湧水を水源とする河川は、北から石神井川、善福寺川、そして神田川と続く。何れの河川も水源地には池を擁している。現在、何れの池も、後に掘削拡張された新池を伴った公園となっている。新池でボート漕ぎが出来るのも共通である。河川の周辺には水田を有するが、他は畑である。武蔵野特有の雑木林もかなりの面積を占め、住宅が密集した現在の街から想像出来ない田園風景が広がっていた。明治を迎えても、この辺りは江戸時代の武蔵野そのままの姿なのであろう。若者に人気の吉祥寺は、畑と雑木林の中に民家が点在する吉祥寺村として描かれていた。

 我が家のある周辺には、人家が幾つか点在していた。親が残した旧い写真に、藁葺き屋根の建物がある。農業を営んでいた頃の家である。その後、昭和10年頃、木造2階建てに建て替えたと聞いている。自分が子供の頃育った家でもある。1922年・大正11年、現在のJR駅が、当時の鉄道省駅として開業した。これに前後して、当時の村長が村全体の区画整理を起案実行し、現在の町並みの基礎が作られた。翌大正12年、関東大震災で罹災した都心の人達が大挙して転居し、人口は大幅に増加し現在に至っている。

 祖父母の畑は、区画整理により駅からの道路で東西に分断され、家業である農業を営めなくなった。祖父は、道路沿いの畑を進出してきた商家に土地を貸し、生計を立てたと聞いている。現在のJR中央線は大久保から立川まで東西一直線である。鉄道省の管轄である当時の国有鉄道の権力を見る思いである。この一本の鉄路が武蔵野の風景を根本から変える原動力になった。現在の街並みを古地図から想像できないように、古地図からも現在の姿は想像外である。武蔵野の古地図には、当然鉄路の表示はない。

 古地図に目をこらすと、青梅街道北側に広い敷地を擁する寺がある事が分かる。この寺は、以前我が家の菩提寺であり、子供の頃、親に連れられて墓参りをした記憶がある。この寺は、今川氏の菩提寺であり、墓地の中心部には、今川氏累代の墓が鎮座している。桶狭間の戦いで敗れた今川氏は、徳川家康に庇護を求め高家として仕えたそうだ。知行地は、この寺を中心にした一帯で、領地の一部は、今川町の名を今に残している。寺の建立は慶長年間の1597年と伝えられている。

 一族の菩提寺は、本来遙か北に位置する石神井池の南側にあった。鎌倉時代・1394年の建立と伝えられている古寺である。寺は、当時この地方を支配していた豊島氏の庇護を受けていた。豊島氏が太田道灌に滅ぼされた後、徳川氏の庇護のもと栄えたと伝えられている。寺の正門が御成門の名が付けられているのは、その名残であろう。寺発展の証は、広い境内に散在する各種仏跡に残されている。鎌倉時代に武蔵野の一角に居住したと思われる一族の先祖は、この寺を菩提寺としたのだろう。

 この寺は、居住地からすると遠隔地にあり、墓参は大変であったと思われる。そこで、近場に建立された今川氏の寺に墓石を移したそうだ。爾来、昭和30年代まで500年以上、この寺を一族の菩提寺としてきた。我が家の墓地もその一角にあった。祖先は江戸末期に本家から分家して、現在の地で農業を営んでいた。自分から数えて5代前である。当然、他の親族に比べたら新参者であった。墓地は広く、南側には墓石がポツンと建っていた。土葬が通常であった時代、広い敷地が必要であったのだろう。

 昭和30年代中頃の事だ、本家の当主が、本来の菩提寺である由緒ある古寺に一族の墓を移転する指令を発した。移転費用は全て本家持ちであった。古寺には一族10家の墓地取得のために多額の寄進をしたと聞いている。亡き父は隠坊と一緒に墓を掘り、先祖の遺骨を回収し、新しい墓地に埋葬した。骨の中に長いすねの骨があったそうだ。長身と伝えられている初代の骨と思われる。何れ自分も、先祖の中に混じることになろう。

 地図には、青梅街道に面して二つの神社が存在している。その一つ、東側の神社が旧村の鎮守社である。建立は旧く、1100年以上前と伝えられている。源頼義が奥州安部氏征伐の際、この神社に宿陣し戦勝を祈願した史実がある。所謂、前九年の役である。凱旋の折、神恩に感謝し当社を厚く祀ったと言われている。太田道灌が豊島氏との戦いの前に、故事に倣い、この神社に武運を祈願した。この時植えた槇の一株が、今に残る「道灌槇」と名付けられた巨木である。自分の家は村民の一人として、代々氏子に名を連ねてきた。神棚やお釜の神様、稲荷社の御札は鎮守社の授かり物である。秋の祭礼時の寄進は、氏子の義務でもある。

 親の話では子供の頃、自分の敷地内に竹林が在ったそうだ。関東大震災時、家族はその竹林に逃げ込んだと聞いている。現在、辺りを見回しても、その面影は何処にも残っていない。鬱蒼と茂った杉林は、マンションの敷地に変貌している。細分化された邸宅地が分譲販売され、駅前には高層マンションが林立している。近年、街の変貌は著しい。武蔵野の面影は、見る影もないのが現状である。

 温故知新なる言葉がある。古地図を眺めながら、昔を温ね、当時の情景に想いを致すことは、先祖の暮らしを想像する事に繋がる。子どもの頃、親から聞いた農家の生活を思い出す。神社仏閣や湧水池は、当時の面影を今に色濃く残していても、周囲の林は既に無く、住宅が密集しているだけである。時代とともに激しく変貌する街を見るにつけ、古地図を眺めながら昔に想いを馳せるのは、一服の清涼剤になるようだ。

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