伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年6月10日: 非常時用井戸ポンプの復活 GP生

 非常時用井戸ポンプが機能を失ったのは4月末であった。井戸ポンプは手動であり、幾ら動かしてもスカスカ音が空しく響くのみで水は出てこない。呼び水を入れても筒先から呼び水が排出されるだけで後が続かない。昨年初め頃から呼び水が抜け、ポンプが機能しないことが多くなった。井戸ポンプはマンションのゴミ集積所の裏に設置してあり、直ぐ隣が駐車場である。車に乗る度にポンプを動かし、機能を確認すると同時に呼び水を満水にしておくことが日課であった。定期的にマンションの清掃業務を行っている業者には、井戸ポンプを出来るだけ使うようお願いしていた。業者は使い終わるとハンドルを垂直に立てる事が多く、この状態で一日おくと呼び水が抜けてしまうことがしばしばあった。万が一大震災に見舞われ電気水道がアウトになったとき、非常時用井戸はマンション住人の命綱になる。その井戸ポンプが機能を失った。

 平成7年1月17日に発生した阪神淡路大地震は、神戸市を中心に周辺の都市を壊滅状態に陥れた。もし東京が同等規模の地震に襲われたとしたら、被害規模の大きさは想像外だ。この時、東京都民1300万人を誰が救援できるだろう。非常用食料と飲料水を備蓄し、家屋の損壊を免れたとしても、トイレ用洗浄水が確保できないとしたら生活は困難になる。自分は自身の家族のみならず、賃貸マンション住人の生活環境維持に責任がある。万が一の不安を解消するために井戸を掘ることを決心した。

 問題は井戸掘り業者をどうやって探すかだ。当時ネット検索という便利なものはなかった。現役時代に埼玉県にある大手酒蔵の廃水処理設備を手がけたことがある。設備のメンテナンスも常時行っていた。この酒蔵は醸造シーズン開始時に蔵開きの行事を行うのが常で、駐車場への車の誘導やお客さんの接待に出入りの業者が動員された。この時ポンプ関連業者と顔見知りになった。この昔の伝で探した業者に、井戸の掘削を含む設備全てを依頼した。

 自分の住む街は武蔵野台地東の一角に在る。地層は上部から腐植土である1bの黒土、2b近い関東ローム層、6,7b下に2bの砂利層があり、更に2bの粘土層、その下が武蔵野砂礫層の本層である。マンション建設時のボーリングは15b迄しか掘っていないので、本層の厚みは分からない。地下水は上部砂礫層から下に溜まり、水量は極めて豊富であった。北を流れる善福寺川の上流では、川底からの湧き水が何カ所から見ることが出来る。家の近くにあったヤマダの池と呼ばれた池は、善福寺川への傾斜地からの湧き水が水源であった。現在は住宅地になり、当時の面影を偲ぶことは出来ない。

 子供の頃、家には水道はあったが、風呂は井戸水に頼り、バケツに汲んで風呂桶に入れるのは自分達子供の仕事であった。この井戸は現在マンションのエントランス近くに在り、息抜きのパイプが顔を出している。不要になった井戸を埋めてはいけないとの言い伝えの為だ。パイプは井戸が生きている証でもある。子供や孫の代になれば、このパイプは?となるは必定であろう。

 井戸は深さ13b迄掘られた。地下7b迄は75o、それ以下は50oの塩ビパイプが設置された。砂利層を大口径で掘削するのはコストが上がる為である。配管下部には逆止弁が設置され、水の逆流を防いでいる。歳月の経過は、逆止弁の機能低下やポンプ本体の錆の発生等で、本来ポンプ内部をはじめ配管上部に溜まっていなければならない水が、抜け落ちる結果を招いたようだ。ポンプ機能復活を最小限のコストで抑えるのは、下部の逆止弁交換ですむ筈だが、部品交換で済むか否かは、専門家である井戸業者との相談になろう。

 問題は井戸業者である。24年前の業者に何回か電話をしたが繋がらない。時間をずらしても駄目であった。既に廃業したのかも知れない。出入りの設備業者に相談しても、井戸業者に心当たりは無いと言われた。地方ならいざ知らず、都会地では業者が少ないことが予想される。最後の手段はネット検索である。東京23区及び周辺地区の井戸業者が6件ヒットした。一番近い地区の業者に連絡したところ、詳細はメールに記載して貰いたいとのことであり、連絡は全てスマホに頼むとの事であった。暫くして、現場確認の立合依頼の連絡があった。5月の連休明けのことだ。

 現場では業者がポンプを分解し、下部配管の全てを引き上げ、詳細な点検を行った。同時に、地下水の水位の測定も行った。機能停止原因は、下部逆止弁の不具合と地下水位の低下にあった。設置時より2b近く低下していたのだ。この地区は何れも地下水位が低下しているとのことで、降水量と相関がある様だ。部品交換では回復はおぼつかなく、地下水低下に対応出来る設備が必要であった。ポンプ本体は錆が激しいため、全てを更新する見積を依頼した。送られてきたメールに添付された設備仕様と見積書を検討した結果、発注メールを送信した。工事日程を相談した結果、最短で6月初めと決まった。1ヶ月近いブランクになる。何事も起こらないことを願うのみであった。

 工事は当日朝8時から始まり、午前中に完了した。ポンプ本体は従来と同じ岡本工業のSUN STARである。汎用品であり、学校をはじめ公共用地に設置されている機種でもある。地下水は地下9b迄低下している。今回の設備は更なる低下にも対応できるよう、配管内に部品が取り付けられた。全てか終わり試運転で、筒先からほとばしる水を見た時は感激であった。地下では2ヶ月近く地下水が動かなかったため、ポンプの錆が蓄積して最初の水は赤水となった。以前のポンプに比べハンドルを上下するとき少し重く感じた。地下水水位の低下に寄り、ポンプに負荷が掛かったためだ。

 今後この地区での地下水位が上昇する事は考え難い。地下水の水源は雨水である。道路がアスファルトで覆われ、雨水はマンホールに吸い込まれる。民家の庭に降った雨は水源となるが、旧い民家が取り壊され、マンションや分譲住宅として敷地いっぱいに建てられ、庭が消滅して居るのが現状である。自分の井戸の深さは13bであるから、水位は4bの余裕しかない。地下水位が更に低下した時は如何するか井戸屋に問うと、「20b迄掘り直し、ステンレス製の井戸ポンプを設置するしかない」との返事であった。現在のポンプは鋳物製である。この深さの吸い上げには、強度が耐えられないからだ。次の井戸更新は、自分の代では起こらないだろう。

 ポンプ更新後も車に乗る度にポンプを動かしている。呼び水を満たすためではない。重くなったハンドルを片手で上下させるのは、格好の筋トレになるからだ。このポンプは今後20年以上機能を発揮してくれるに違いない。自分の生存中、地下水が更に低下したとしても、汲み上げ不能になることはないだろう。マンションの住人からも、何時治るのかと聞かれることもあった。やはり、非常時用井戸ポンプは、住人にとって最後の砦なのだ。輝きを放つ新品のポンプを動かす度に、何時までも作動してくれる事を願っている。

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