伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年5月8日: 高齢者の同窓会 GP生

 毎年5月になるとクラス会や同期会が開催されることになる。何故か5月に集中している。小学校のクラス会や高校同期会、鉱山親睦会、鉱山工学科同期会、それに伝蔵荘例会等、多彩な会合だ。鉱山親睦会は就職した会社の旧鉱山勤務者の会合である。当時の課長クラス以上の管理職は既になく、係長クラスも現存者は80歳半ばを過ぎている。当時中堅技術者養成のため、会社が設立した鉱山学苑に入学した地元の中卒者達も高齢者となっている。その彼等が一番の若手だ。その他の会合も、高齢者の集会になってしまった。新たなメンバーが増えることはなく、一人減り二人減りで、何れの会合も出席者の減少は免れない。アガサ・クリスティーではないが、「そして誰もいなくなる」のかも知れない。高齢者同窓会の宿命でもある。

 小学校のクラス会もその例に漏れない。昭和21年入学、27年卒業だから、今年、クラスメイトの殆どは傘寿を迎える。当時のクラス編成は一クラス50人以上、5クラスの大人数であった。教室が足りずに二部授業すら行われていた。現在、自分の母校は健在であるが、一クラス30名前後、2クラス有れば上々が現状である。終戦直後の日本は貧しかった。東京では食料確保に苦労し、皆生きるのに必死の時代であった。学校給食は進駐軍放出の物資が多く、コッペパン給食が始まったのは大分経ってからだ。学校生活は、教室や校庭での遊びが主体で、帰宅してからも庭や道路での遊びに夢中になった記憶がある。勉強を強要する親はいなかった。子供達はお腹を空かせていても、皆、伸び伸びと毎日を過ごしていた。日帰りの遠足時、出発前の校庭で手つなぎ鬼ごっこに興じたのも懐かしい思い出だ。

 5年、6年時の担任は美術担当のGt先生であった。長い教員生活でクラス担任になったのは、自分達の学級を含め2クラスのみと聞いている。自分の進学に際して中高一貫校の私学を勧めてくれたのがGt先生であった。もし公立中学、高校受験の道を進んだとしたら、大学も就職も異なり、当然結婚相手も、その後の家族も違っていたであろう。振り返れば、Gt先生のクラスに編入されたのは、大きな運命の分かれ道であったのかも知れない。クラスは平穏でまとまっていた。大きな声で生徒を叱責することなく、何時も優しく生徒に接していた先生の人柄による結果だと、今にして思う。

 小学校のクラス会が始まったのは、平成3年の秋口であった。この年の春に、五クラス合同のクラス会が有り、出席した有志がクラス会を開く事を決めたようだ。自分は何れの会合にも出席していない。この頃は50歳を過ぎたばかりであり、鉱山時代の先輩と一緒に社内起業した工場廃水処理事業の後を託され、事業の発展に邁進していた。とても過去を振り向くゆとりがなかった。自分は第2回目から誘われて出席をした。クラス会にはGt先生が毎回出席された。クラス会の開始は、先生による出欠の点呼から始まった。欠席者の名前が呼ばれると、全員で「欠席です」と唱和したものだ。そのGt先生も平成9年のクラス会直前に、ご逝去された。享年87歳。前年秋、Gt先生の米寿を祝うクラス会を開催したばかりであった。会場はGt先生がこよなく愛した横浜中華街の一角にあるお店だ。同級生のSyさんが営むお店でもある。この年、クラス会は先生を偲ぶ会合になってしまった。

 先生亡き後のクラス会運営を相談した結果、クラス委員長、副委員長、事務担当の三者による運営が決まり、自分は事務担当に選ばれた。担任亡き後のクラス会を盛り上げるために、都内や横浜の景勝地を散策後、会食のパターンが定例化した。Gt先生健在時のクラス会には、常時20名前後の仲間が出席したが、先生没後は次第に減少していった。17回目頃のクラス会から出席メンバーが次第に固定化され、同時にメンバーの結束が強まったように思える。クラス会の方向を決めるのは常に女子達である。高齢者の家庭で、方向を決めるのは妻である事と似ているのかも知れない。時が経つにつれて、男子に比べて女子達の元気さが目立つようになってきた。早くして連れ合いを亡くした女子の溌剌さは見事である。

 今年、クラス会は29回目を迎える。出席予定者は23名、卒業時55名であったから、半数以下になってしまった。把握しているだけで、亡くなった仲間は6名、諸般の事情で連絡不要の連絡を受けた仲間は15名、生死不明は11名を数える。小学校卒業後、クラス会に意欲を持つ仲間が多数存在することは心強い限りである。

 しかし現実は厳しい。意欲だけでは乗り越えられない事態に直面している仲間が、何人もいる。戻ってきた返信葉書の近居欄に書かれた文言には、胸を打たれることは多い。4年前に発症した脳梗塞をリハビリで克服したが、また再発し寝たきりの生活を強いられている仲間からの連絡は、「出席して皆と会いたいが、どうにもならない」であった。彼は中高とも自分と同じ学校に進学し、大学卒業後は母校の体育教師として赴任した。何十年ぶりに再会したとき、隆々たる筋骨に圧倒されたものだ。寝たきりの彼が身を起こし、返信葉書に近況を書いてくれたのだ。普段見られない行動に驚いたとは、ご家族の言である。彼の悲痛な想いが伝わってくる。

 今回も、病に倒れたご主人の介護で、長時間家を空けることが出来ない為「欠席」との連絡が多かった。短い文面から、彼女達が置かれた苦しい状況を思うと胸が痛くなる。この歳になれば、何れ我が身の想いがよぎるからだ。老々介護に疲れ果て、施設にと思っても、施設での生活や経済面の負担を考えれば、右から左に進められないのが現実である。返信葉書の中に、仕事があるので欠席との文面に接するとホッとするのも確かである。

 景勝地散策の後に会食のパターンは、3年前から不可能になった。長時間の歩行が出来ない仲間が増えてきたためだ。全体的に食は細ってきたし、アルコール量も減ってきた。そこで隣町の和食専門店が常会場となった。豆腐料理がメインで男子達には物足りなくても、女子達には大好評であったからだ。静かな和室で、雑談に花を咲かせるのがパターンとなった。歳をとっても女性は女性である。無粋な男同士の同窓会と違って華がある。お喋りの主役は彼女達である。昨年のクラス会で、何時まで続けるかが話題となった時、「生きている限りクラス会」と合唱したのは彼女達であった。女性の生命力を見る思いである。とは言え何処かで線を引かなければならないだろう。小学校のクラス会も、そろそろ終焉の時を迎えているのではないかと考えている。来年は30回の記念すべきクラス会でもある。仲間の年齢は殆どが80歳だ。潮時かも知れない。

 人数が減ったとしても、23人中約半数が顔を出してくれる。足腰が悪くショッピングカーを杖代わりにして出席する女性もいる。ご主人と死別し、一人で生活をしているので、クラス会で話をすることが楽しみだと語っていた。返信葉書の戻りも一番早い。返信葉書が早い女性達は、殆どは早くしてご主人と死別した経験を有する。引きこもりがちな連絡不要の男子達に比べ、彼女達は前向き、且つ積極的である。クラス会に出席出来る仲間は幸せな部類に属するのだろう。大分前の事だ。「訳あって逃げています。追いかけないで下さい。」との返信を貰ったときは慄然としたものだ。

 思い起こしてみれば、29年の長きに亘りよく続いてきたものだ。Gt先生が亡くなられて20年以上が過ぎた。委員長のKoさん、副委員長のTa君のお陰だ。クラス会の準備にもたもたしていると、Koさんから叱咤と激励の電話を貰ったことも懐かしい思い出だ。クラス会の仲間は、小学校時代と再会してからの記憶しか無い。青年期、壮年期はお互いに無縁の存在であった。学歴も社会的レッテルも無用の仲間達だ。貧しかったが溌剌とした、あの小学校時代の記憶が絆の基になっている。クラス会はTHE ENDを迎えても、個人的繋がりは「生きている限り」である。

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