伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年4月2日: 高齢者の孤独 GP生

 先日の新聞に、「中高年引きこもり61万人」なるタイトルの記事が掲載されていた。内閣府の調査によると、自宅に引きこもっている40歳〜64歳の引きこもり人数は、全国で61万3千人、内男性は76.6%、期間は7年以上が46.7%に上がると有る。生計を自力で立てているのは30%弱、50%以上が父母や配偶者に依存していた。就職氷河期世代に当たる40〜44歳の3人に1人は20〜24歳で引きこもり状態になっており、就職活動のつまずきが原因の可能性があるとの衝撃内容である。

 引きこもりは若者特有の現象と思っていたが、中高年の引きこもりがこれ程多いとは想像外であった。この年齢では年金の受給資格はないから、生計は親や連れ合いに頼るのだろう。今の世の中、人手不足で仕事を選ばなければ、働き口はあるはずだが、働くことなく引きこもりが続くのには、相応の理由があるのだろう。記事には、引きこもり状態になるきっかけは、「退職」が36.2%と有った。人間関係も大きな要因であったことが記事から推測できる。親に生計を依存しても、歳とともに親は高齢化し病に倒れることもあるだろう。親と共に生活が困窮する例が書かれていた。記事では40〜64歳までの中高年を対象にした調査結果に基づいて書かれていたが、65歳以上を対象にすれば人数は更に増加すると思われる。これら中高年は独居高齢者の予備軍である。年金や生活保護により生計は何とかなっても、今後、孤独に生き、1人でこの世を去って行かざるを得ないとすれば、人は何のためにこの世に生まれ、生きるのかと考えざるを得ない。

 引きこもりは外からは自宅に籠もる状態に見えても、当人は心を閉ざし自分の殻に閉じこもっている状態であろう。当然、外部との接触を避ける事になる。第一原因になっている退職にしても、退職後、自分に適した仕事を探すのが通常であろうが、再就職意欲の喪失の原因は何なのだろうか。社内や社外の人間関係の悩みが、心の奥底まで浸食し、再起する意欲を失っているのかも知れない。社会生活が苦手な所謂発達障害の為なのだろうか。引きこもりを続ける人の心は、外部からは窺い知れない。

 誰しも生きていく過程で分岐点が何回も訪れる。進学、就職、結婚はその最たるものだ。大小の分岐点で立ち止まったとき、どの道を選ぶかにしても、その先にあるものが見えないのが普通だ。人生経験が未熟で、少ない判断材料を元に迷いながらの選択であったとしても、選ばなければ前に進めない。選択責任は自分自身にある。選択を放棄した状態が引きこもりなのかも知れない。若い時はそのまま幾らでも生きられると錯覚しても、中高年から老齢期を迎えれば、誰でも人生の終焉を意識せざるを得なくなる。引きこもりを続ける中高年はどの様な気持ちを持って日々を過ごしているのだろうか。

 中高年の孤独者が残された長い人生を如何生きるかは、それぞれの問題だ。心を閉ざし引きこもっているのは、甘えにすぎないのだろうか。大東亜戦争中や戦後の世で、引きこもりは精神を病む者を除き、居なかった。皆、日々食べるのに精一杯であり、生存する事が目的であったからだ。明日に希望が持てた高度成長期の時代でも、引きこもりが話題になったことはない。若者の引きこもりが社会問題となったのはいつ頃からだろう。その若者が歳をとり中高年に至っている。紙面の引きこもり中高年者が70歳を過ぎ、高齢者の仲間になったとき、まだ引きこもりを続けているのだろうか。

 日本の家族制度が崩壊して久しい。例え貧しくとも、年寄りを家族全体で面倒を見るのが我が国の習いであった。それを怠れば、世間から後ろ指を指されたものだ。その時代、老人の孤独死は例外中の例外であった。内閣府の統計に依れば、祖父母、親、子の三世代世帯数は、1965年には50%であったものが、2015年には全世帯の12%に激減している。夫婦のみの世帯は、16%から31%に増加し、単身世帯は2.6倍の増加である。夫婦のみの世帯は、連れ合いの何れかがこの世を去り、単身世帯となるから、単身世帯の増加は続くことになる。今後出生率が低下し、寿命が延びれば高齢者が増加するのは必然だ。

 65歳以上の高齢者でも、男性と女性では事情が異なるようだ。2015年の統計では、男性の場合、配偶者の死去割合は10%だが、女性の37%が配偶者と死別している。身勝手かも知れないが、男にとって心強いデーターである。自分の周辺でも、男の友人は配偶者が健在で有り、逆の場合は配偶者の死別例が多い。樹木希林の夫、内田裕也の例ではないが、妻に先立たれた男が、後を追うように世を去って行く例が多いのは何故だろうか。妻に頼る度合いの多い男は、生きる意欲を喪失してしまうのだろうか。自分の周囲を見ても、高齢期を迎えた老人は、女性の方が逞しく思える。

 独居老人でも、子供や孫との交流が頻繁な家族は多い。自分の友人達でも、娘が遠隔地に独居する父親を案じて訪れる例や、娘が母親に頻繁に接する幸せな独居老人の例を見聞きする。親族でも連れ合いを亡くした80代の女性は、独立した生計を営む娘達からの献身に希望を見いだしている。縁あり結婚した夫婦が、授かった子供の育て方は千差万別であっても、子供と気持ちが通じ合う関係を築けるか否かは、親の姿勢と努力以外にない。子育て中の親は、歳をとった先の自分たちの姿を思いやるゆとりはなくとも、中高年を迎え老後を意識せざるを得なくなったとき、子供達との関係を改めて考える事になるのだろう。どの様な老後を過ごすかは、自らの生き様の結果であり、自身の責任に属する事だ。

 人は一人では生きられない。多くの人達との関わり合いの中で、人は自身の成長を促して生きるものだ。家族を含めて、心が通じ合う人達が多ければ多いほど、生きる意欲は湧いてくる。引きこもりを続ける中高年者や独居せざるを得ない高齢者達は、人との繋がりを何処かで放棄したのだろう。人がこの世に生を受け、明日の見えないこの世で生きなければならないとすれば、孤独の生活ほど辛いものはないだろう。引きこもりは、この世で生きる労苦を放棄したとしても、人の幸せから縁遠い所に居る事は間違い無い。

 高齢者にとって、この世で残された時間は多くない。係累もなく話し相手も居ない孤独な老後を迎えないためには、人との接触を増やす努力が必要であろう。会うことが叶わなければ電話でも良い。現在はスマホや携帯電話等、便利な機器がある。歳をとると誰しも前向きの意欲を失い、日常の些事に対処するのも億劫になるものだ。為すがまま流されれば、意識しなくとも心は引きこもり状態に陥るかも知れない。高齢者の日々は、変化に乏しいのが通例である。少しでも良い。変化を求めようとする姿勢が独居生活を孤独から救う道と信じている。人は生まれる時も一人、死ぬときも一人なら、この世に生有るときこそ、多くの人達との繋がりを大事にしたいものだ。

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