伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年3月27日: 高齢者の夢見 GP生

 明日を夢見るのは若者の特権であっても、高齢者の夢見は文字通り就寝中に見る夢のことである。最近は毎夜夢を見る。頻尿のため、夜間、夢見の途中に何回も目を覚ます時、夢の一部を記憶していることが多い。若い時は、一旦寝付いたら朝まで目を覚ますことはなく、起床しても夢見の記憶が全く無いことが多かった。人は誰でも就寝中に夢を見る。加齢が進行した現在、夢見の記憶が多いのは熟睡出来なくなった証かも知れない。

 就寝中、夢の内容は極めてリアルに感じても、覚醒と同時に内容の殆どは思い出せないのが通常である。微かに記憶に残る夢でも、楽しいこと、心躍るような内容は極めて少なく、辛い内容が多い。簡単なことが出来ず、同じ事を何回も繰り返す夢もある。日常生活で心に残る経験をした時、その夜の夢は予想外の展開になる事が多い。夢の中の風景や光景は、自分の記憶にない物が現れる事がある。それが漠然と現れるのではなく、極めて具体且つ詳細にイメージされるから不思議である。

 夢に故人が登場することがある。自分の場合、ほとんどは父であり、母は極めて稀である。祖父母が現れた記憶は無い。自分の心に父への強い想いがあるのだろう。父親と息子が理解しあえる関係は、少ないのが通例の様だ。子供の頃は父親の存在は絶対的であっても、成長するにつれ反発することも多くなる。成長した息子が父親と話をしても、価値観や人生経験の相違から考えが合わないことも多い。時の経過とともに、父親との話し合いは次第に少なくなるものだ。自分の場合も中年に至るまで、父と真剣に話し合った記憶は無い。大学選択や就職でも父と相談したことはなく、全て事後報告であった。進学のため家を出てから、親元に戻ったのは24年後であった。長男が家に戻り、父が黙って迎えた感じであった。

 同居が始まっても、父と会話交わすことは少なかった。父と心を開いて話す切掛は、父が人工透析治療に通う病院送りの車中であった。6年間に及んだ車中での会話は、父と息子間の理解を深めるのに十分な時間であった。今でも父への想いが、心に深く刻み込まれている由縁であろう。夢の中の父は、何時も穏やかで、生前の頑固な面影は微塵もなく生き生きとしていた。父の夢を見た朝は、目覚めても暖かい想いに包まれていた事を感じたものだ。間違い無く父はあの世から自分を見守っていてくれている。

 人は何故夢を見るのだろう。昔高校時代に読んだフロイトの夢判断によれば、夢の根源は性にあると書かれていた。当時はそれなりに納得したが、今では間違いであると思っている。夢に現れるリアルな光景は、自分が経験したこともない映像である事が多い。夢は潜在意識の現れであると考えれば、納得出来る。亡き父が登場する場面でも、自分の記憶に無い光景が多かった。人の記憶はこの世に誕生した時から白紙状態の脳に蓄えられ、その後に見聞きした物事は脳に蓄積されていく。潜在意識とは、自覚されないまま潜んでいる意識と定義されている。では潜在意識は何処に存在しているのだろうか。

 潜在意識は心と不可分の関係にあると考えている。心と身体は一体となって人を形づくっていることは間違い無い。人が死を迎え心臓が停止した瞬間、顔から一瞬にして人が持つ属性の全てが消え、物体と化すことは何回か経験している。この変化は一瞬にして起こるのだ。心が身体から抜け出たとしか思えない。恐らく心は人体と重なり合って存在しているのだろう。ならば脳は心の翻訳器官である事になる。天才的な閃きと称する現象がある。人が経験したことの無い思いの発露は、潜在意識が一瞬紐解かれたと考えれば納得できる。

 人の心、即ち魂は輪廻転生する存在であると信じている。何回もこの世に生まれ、その時代で経験した全てが潜在意識として心に閉じ込められているのだ。輪廻転生を数多く重ねた人は、それぞれの世で心が磨かれ、少ない人は心の錬磨が未熟となろう。潜在意識に隠された自身の過去世や過去の経験が常時顕在化すれば、人がこの世に生まれ生きる意味がなくなる。何故自分がこの世に生まれ、何のために生きるのかを模索し、悩み、模索する事は、人に課せられた使命であるからだ。懸命に何かを追求し求める時、突如閃く天啓は別にして、常時潜在意識が開かれることはない。だからこそ意識をコントロール出来ない夢の中に、潜在意識の一部が現れるのかも知れない。毎夜見る夢にはテーマが有ると思えることが多い。夢見のテーマは如何に選択され決められるのだろうか。現世で蓄積された意識に比べ、潜在意識の方が遙かに多量であろう。潜在意識と現世意識の混合が、形を持って現れるのが夢であるとすれば、高齢者は現世での経験、知識の蓄えが多いゆえ、より複雑な夢見に繋がるのかも知れない。熟睡が出来難い身体状態は、夢の記憶をより鮮やかにするのだろう。

 夢は魂の修行だとの説を聞いたことがある。ならば、修行の一環として混合された潜在意識と現世意識が夢の中で展開されるのかも知れない。だからこそ楽しい夢は少なく、心に痛みを感ずる夢が多いのだろう。父の夢のように心温まる思いを感じる夢は、心の試練だけでなく、時には安らぎを与える役割を果たしているのかも知れない。前述の通り、夢の記憶は曖昧であり、記憶に残らないことが多い。覚醒した瞬間は記憶に残ったと思っても、次の瞬間に忘却の彼方に去ってしまうのが夢である。高齢期を迎えても日常の悩みがなくなる事は無い。さらに身体上の問題が重なれば、悩みは更に深いものになろう。人は生きている限り、寝ても覚めても心の鍛錬を求められている事になる。

最近、今夜はどの様な夢見となるのかを想像することが楽しみになった。脂汗をかくような厳しい夢とは縁が遠くなった。波瀾万丈の夢見であっても、魂の修行と考えれば納得出来る範疇である。夜間頻尿で何回か目覚めても、前回の夢の続きを見ることも多い。映像は異なっても、テーマは同じなのだろう。そう考えると頻尿もまた良しなのかも知れない。夢を見ることは生きている証でもある。心の翻訳機能に障害が生じた認知症患者は、恐らく夢見はないだろう。夢を見られることは、高齢者にとって幸せな事なのだ。残り少ない余生を生きる高齢者は、夢見を楽しみにして一日を過ごすのも一興である。

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