伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2019年1月22日: ヘンデルを聴きながら T.G.

 陽当たりがよい、サンルームのようにぬくぬくと暖かい201号室で、ロッキングチェアにもたれて久し振りにヘンデルの合奏協奏曲を聴く。心地よい弦楽合奏に身を委ねていたら、まだ息子が小さかった頃、伝蔵荘でこの曲を聴いたときのことを想い出した。幼い息子がベランダで遊んでいる。離荘するためにヘンデルのこの曲をかけて暖炉の始末をしていたら、開けっぱなしのガラス戸から秋風が吹き込んで、暖炉の灰が風に舞った。ヘンデルの合奏協奏曲作品6は好きな曲の五指に入るが、何十年経っても聴くたびにこの時の情景を思い出す。201号室は二階のパソコンとオーディオが置いてある小部屋で、もっぱら家人がそう呼んでいる。

 音楽の想い出は数々ある。はじめて安物のステレオ装置を買った高校生の頃、なけなしの小遣いをはたいて当時は高価だったLPレコードを数枚買った。今でも憶えているが、その中にベートーベンのピアノソナタ第8番「悲愴」と14番「月光」が入っていた。8番の悲愴が大好きで、擦り切れるほど聴いた。メロディーが頭に刷り込まれた。後年、西ドイツの首都、ボンに赴任していた通産省のお役人に依頼されて、日本製トーンアームを買って行ったことがある。ドイツのオーディオマニアの友人に頼まれたのだという。当時の価格で10万円。絵に描いたような密輸である。案の定、デュッセルドルフ空港の税関検査で見つかって、しこたま関税を取られた。お礼に食事に招待されたら、壁際に高価なオーディオが置いてある。好きな曲を聞かれて、ボンがベートーベンの生誕地であることもあり、ピアノソナタ8番と14番を注文したら、食事の間中この曲を流してくれた。料理が生まれて初めてのオイルフォンデュだったのを憶えている。40年以上前の話である。

 なんと言っても一番の想い出の曲はモーツアルトのアイネクライネナハトムジークである。まだクラシックなど聴いたこともなかった高校生の頃、風邪で熱を出して布団を被って寝ていたら、枕元に置いてあった安物の5級スーパーラジオから世にも美しい音楽が流れてきた。熱にうなされていたこともあって、甘美極まりない旋律に聞こえた。それまでクラシック音楽など聴いたことがなかった。いわばクラシック音楽の初体験である。解説者の説明でモーツアルトの名曲であることを知ったが、この経験が後にオーディオとモーツアルトにのめり込む切っ掛けになった。

 最も好きなモーツアルトはピアノ協奏曲である。特に後期の20番から27番が素晴らしい。クラシック音楽の最高傑作と言っても過言でない。何度も飽きるほど繰り返し聞いた。無人島に流される時に持っていきたいものを三つ挙げろと言われたら、その中にこの8曲のCDが入る。ピアノ演奏はアシュケナージに限る。アシュケナージはソ連生まれのユダヤ人で、迫害を受けてアメリカに亡命した。当時から当代屈指のピアニストと評価されていたが、ピアニストの登竜門である5年に一度のショパンコンクールではなぜか優勝しなかった。ユダヤ差別と噂されている。音楽界にも人種差別はあるらしい。

 バッハも好きである。特に管弦楽曲が大好きだ。音楽の父、バッハの作品は数多いが、ほとんどが宗教音楽で管弦楽はそれほど多くはない。有名なブランデンブルグ協奏曲と管弦楽組曲を除くと、いくつかのチェンバロ協奏曲、バイオリン協奏曲ぐらいである。

 仕事がうまく行かず、客先のクレーム処理から暗い気持ちで帰社する途中、気晴らしに通りがかりのレコードショップに立ち寄った。当時はまだLPのみでCDはなかった。ぼんやりレコードをめくっていたら、バッハのカンタータ140番「目覚めよ、と我らに呼ばわる物見の声」が目にとまって衝動買いした。それまでバッハの宗教音楽は聴いたことがなかった。家に帰ってプレーヤーにかけたら、実に素晴らしい演奏である。アーノンクールの指揮で、間奏を挟んで男声と女声のソロと合唱が繰り返されるが、女性のパートを少年合唱団が歌う。澄み切ったボーイソプラノのソロが美しく、管弦楽の間奏も魅力的な旋律で、いっぺんにカンタータが好きになった。今ではネットプレーヤーのアルバムにこれを含めて数曲入っている。30年前に買ったLPの140番と同じ演奏のCDを図書館で探したが、見つからなかった。同じアーノンクールのものはあったが、女性のパートは女性が歌っていた。それでもバッハの傑作カンタータには変わりない。

 バッハの管弦楽組曲はよく聞く。特に2番が好きである。美しいメロディーとバッハらしいリズム感が際立っている。明るい曲想で、聴いていると心が浮き立ち、楽しくなる。時々メロディーが鼻歌に出る。仕事でシンガポールに行ったとき、オーチャード通りを散歩していたらCDショップが目にとまった。そこでバッハの管弦楽組曲全曲の2枚組CDを見つけて買った。すでにLPで持っている大好きなネビル-マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団の演奏録音をCD化したものである。特に有名なのが3番の第2楽章、「アリア」である。美しい旋律で、「G線上のアリア」として単曲でも演奏される。中でも好きなのはジャック・ルーシェのジャズ演奏である。フランス人ジャズピアニスト、ジャックルーシェによるピアノトリオ演奏は、ある意味クラシックの原曲より味があって素晴らしい。クラシックのジャズ演奏はいろいろあるが、原曲を凌いでいるジャック・ルーシェだけだ。

 歳をとっても楽しめる音楽趣味が持てたことを、ミューズの神に感謝したい。

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