伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2018年12月8日: 膀胱ガン入院手術とストレス  GP生

 11月23日の日誌の続きである。先月末、膀胱ガン手術のため入院し、翌日午後、手術が行われた。膀胱ガンは腎盂ガンの術後検診で発見され、幸い初期であったため、手術用膀胱内視鏡を尿道から差し込み、電気メスで腫瘍を切り取る処置で対応できた。今回の執刀医は、左腎臓摘出手術を行った医師と同じである。

 手術室では最初に右腕に血圧計、左指に血中酸素濃度測定器の装着、左腕に点滴用注射針の挿入、胸部には心電計の取り付けが行われた。この作業に15分ほど要した。今回の手術は下半身麻酔下で行われた。この麻酔法は3回目の経験である。初回は前立腺ガンの生検時、2回目は放射線治療時である。いずれも背骨下部に局所麻酔を行った後、注射針を背骨に沿って皮下に差し込み、麻酔薬を注入する作業である。注射針挿入時には身体を横向きにし、膝を曲げ、頭は出来るだけ下げる、所謂胎児の姿勢だ。麻酔薬注入後、直ちに身体を動かし仰向けになり、両脚を開き手術の体位をとらされた。この時は麻酔薬注入直後で、下半身は容易に動かせたが、次第に感覚が麻痺して、最後は親指すら動かすことが出来なくなった。下半身麻酔の完了である。この作業に45分を要した。

 手術は手術用膀胱内視鏡を尿道に差し込むことから始まった。通常、検査用内視鏡は尿道に潤滑剤を塗布するだけで差し込まれるため、独特の圧迫感が有り、苦痛により小さなうめき声を発することもあった。手術用内視鏡は遙かに太い器具である。下半身麻酔下では、挿入されたことすら感じる事はできない。手術中、時々器械の作動音が何回も聞こえた。恐らく切除した腫瘍を除去する吸引音であろう。主治医の手術に身を任せている内に、ついウトウトとまどろみが生じた。痛みは全くなく、下半身が何かに押される様な感じを受け、まどろみから醒めても、またウトウトが生じた。手術は45分で終了した。病室に戻り麻酔がとけても膀胱には痛みは生じなかった。今回の手術で直径1p大の腫瘍4カ所が切除された。

 翌日、生理食塩水45ccに混入された抗ガン剤マイトマイシンが、排尿管を通して膀胱に注入され、そのまま1時間排出が止められた。膀胱ガンは転移しやすいガンと言われている。肉眼で識別できる腫瘍の切除は可能であっても、識別できない腫瘍の存在は否定できない。この手術を行っても、再発率が50%ある由縁である。術後抗ガン剤を注入して微小ガンを抑える措置を行っても、再発の可能性は30%近くあるとのことだ。この病院では、昨年150件以上の同様の手術を行っているが、この中にかなりの再発患者がいると主治医から言われた。これから長きに亘って再発の有無を確かめる定期検査が続く事になる。前立腺ガン、腎盂ガン、それに膀胱ガンの術後検査だ。前立腺ガンについては、PSA値の低位安定傾向が続いているので、後2年で終了するだろう。

 術後の管理は血尿と体温上昇がポイントとなる。体温は手術翌日に37.5度まで上昇した。2日目から下降に転じ36度台前半戻ったため、抗生剤の点滴は2日目の夜をもって終了した。3日目の午前中、左腕の起用針は抜かれ上半身は自由となった。排尿は看護師が定期的に量と色をチェックしていた。排尿管に溜まった尿を観察することは、直近の色変化を観察するのに適している。術後3日目、排尿管から血液の赤味が消えた。出血が止まった証である。4日目の午前中、排尿管は抜去され、翌日には退院となった。

 手術入院中のストレスの多くは治療によって生ずる肉体的苦痛である。一番小さな苦痛は麻酔が解けた後の尿道に生じた。尿道には排尿管が挿入されているが、その痛みではない。手術用膀胱内視鏡を挿入され、尿道が無理に広げられた後遺症である。自分の尿道に狭いところがあるから、拡張作業を行ってから手術に入ると、主治医から術前説明があった。我慢が出来る痛みではなかった。看護師を呼び、痛み止めの座薬を入れて貰った。夕方には痛みが消え、座薬効果がなくなった翌朝には、痛みは軽減されていた。夜間に幾らか自然回復したのだろう。

 一番の痛みは麻酔作業中に生じた。全身麻酔は麻酔専門医師が全てを取り仕切って行うが、下半身麻酔は、今までも泌尿器科の医師が行ってきた。過去2回の下半身麻酔では、一瞬の痛みは感じても記憶に残る苦痛は無かった。ただ自分の背骨皮下への注射針の挿入路が狭く、入れづらいとは言われていた。今回は助手の医師が麻酔を担当した。局所麻酔を行ってから、本麻酔用注射針を挿入すると激痛が走り、思わず悲鳴を上げた。背骨近くを走る神経に触れたのだろう。再度、別の箇所に局所麻酔を行い、注射針の挿入を試みたが同じ激痛だ。3回目も同じ結果に終わり、医師は専門の麻酔医師の応援を求めた。現れたのは、中年の女医さんであった。同じように注射針の挿入を始めたが、注射針が差し込まれる不快感はあっても、痛みは生じなかった。経験と技量の差は歴然である。これが本来であれば10分程度で終わる下半身麻酔が45分を要した理由である。この間、自分は胎児姿勢をとらされ続けた。手術本番でウトウトしていたのは、この時生じたストレスの反動であろう。

 治療によるストレスはいずれも一過性である。今回の入院で最大のストレスは病室で生じた。今回も病室は4人部屋を申し込んだ。6人部屋は差額ベッド料が生じないが、洗面所、トイレは室内にはなかったからだ。手術前と尿管が外れた後に、排尿毎に量の測定と色の観察が義務づけられている。入院中は膀胱内に何時も新鮮な尿を満たすため、出来るだけ多くの水を飲むよう勧められた。尿が古くなることによる膀胱内感染を防ぐためと推測している。入院中は24時間水を飲み続けた。排尿は排尿管無しの場合、1時間から2時間間隔で生じた。排尿間隔は日中でも夜間でもあまり変わらない。トイレでは備え付の計量カップで計測を行った。室内にトイレがある4人部屋が最適である理由である。個人部屋の施設は至れり尽くせりであるが、差額ベッド料金が4人部屋の4倍であるから、最初から対象外であった。

 4人部屋の患者は自分を含め高齢者3人と若者1人である。カーテン1枚で仕切られた隣の患者は80代の高齢者であった。午前中に入院しベッドに横たわっていると、隣から部屋中響き渡る大声が聞こえてきた。「誰かいませんか!」と何回も繰り返し、「お願いします、誰か来て下さい!」と叫び、更に「脚をさすって下さい!」と繰り返し叫び続けるのだ。ナースコールボタンを押すことはしない。看護師が駆けつけ、脚のマッサージを始めると声は止まった。暫くすると看護師が脚をさすっているにもかかわらず、「脚をさすって下さい!」と叫び出す。看護師が「脚をさすっています。静かな声で話しましょうね」と優しく話しかけると、「はい、判りました」と返事が返ってきた。看護師が帰ってから暫くは温和しくしていても、暫くすると「誰かいませんか!」から始まる一連の大声が再開されるのだ。子供が自分の声をコントロール出来ず、大声で泣き叫ぶ時の高齢者版である。自分は堪らず隣のベッドに行き、枕元にあるナースコールボタンを手に取らせ、用事があれば叫ばずボタンを押すように言い聞かせた。その時はボタンを押し看護師を呼んだが、次は駄目であった。昼食時、夕食時にも看護師を困らせていた。いずれも大声で「食べたく有りません!」と叫び出すのだ。就寝時間になるとさすがに疲れたのか、静かになった。

 翌日午後、手術を終えて病室に戻って来た。下半身麻酔による手術とは言え、全てを終えホッとするのは正直な気持ちである。所がウトウトしていると、突然「誰かいませんか!」と、一連のわめき声が始まったのだ。何時までも止まらない。流石我慢が出来ず「静かにしませんか!」と怒鳴りつけた。一瞬声は止まっても直ぐに再開した。看護師を呼んで何とかなりませんかと話すと、看護師は「患者は10月末に入院して暫くは問題がなかった。最近病状が改善された元気になって騒ぎ始めた。」と話してくれた。暫くして、看護師2人が来て、患者を車椅子に乗せナースステーションに隔離した。時々「脚をさすって下さい!」と遠くから聞こえてきたが、病室は静かになった。その後、病院と家族が話し合い、翌日個人部屋に転室した。恐らく患者は認知症の入り口であろう。個人部屋の差額ベッド料金を考えると、家族にとっても苦渋の決断であったと思う。こうして最大のストレスは解消した。

 考えて見れば入院は非日常状態であり、手術入院そのものが大きなストレスになっているのかも知れない。何時の場合でも自分の病気を真正面から見つめ、病状、治療法、術後状態を主治医から説明を受け、不明なことは質問し、病気を客観視することに務めてきた。病気から生じる不安を解消し、ストレスを縮小する為である。病室のベッドで横になることは、身体状態の回復には効果があっても、非日常的環境内での状態に過ぎない。心が真に安らぐ訳ではないのだ。同じ非日常状態でも温泉旅行と訳が違う。

 今回の治療で全てが終わった訳ではない。術後3週間後に最初の検診が始まり、以降最低5年間続く定期検診への新たな出発点に過ぎないのだ。膀胱ガンの転移し易さから術後10年間検診との話もある。そうなれば検診終了時は齢90歳近くなる。次回の検診で、今後のスケジュールは明確になるにしても、膀胱ガンの性質から再発の可能性を否定できない。再発しても初期の状態で見つかるだろう。今回と同じ手術を繰り返す事を覚悟すればストレスに悩まされることはないと思う。今回の経験から、身体への負担が極めて少ない膀胱内視鏡による手術は、何歳であっても可能であると思えるからだ。想定外の事態が生じた時はいつも通り腹をくくり、最善と思える方策を選択するだけだ。病発症によるストレスの解消は、まずは自分の病を客観視することが出発点であると信じている。

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