伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2018年10月18日:アーネスト・サトウと日本アルプス T.G.

(針ノ木峠)

 前の日誌にアーネスト・サトウと西南戦争のことを書いた。この「アーネスト・サトウ日記抄」第13巻はほとんどが西南戦争にまつわる話で、読み終わったら図書館に返すつもりだったが、最後の15ページに北アルプス登山に関わる日記が少しだけ出てくる。とても興味深い内容なので、稿を改めて伝蔵荘日誌に抜粋を書き記すことにした。

 西南戦争の翌年、明治11年7月17日、サトウは友人のホーズと二人で信州、奥飛騨への旅に出る。東京を出発して大宮、上尾から中山道を辿り、軽井沢、小諸、上田を経て青木村から峠越えで大町に至る。そこから針ノ木峠を越えて黒部谷に下り、ザラ峠から立山室堂を経て麓の芦峅寺に至る。その後高山、木曽福島、松本、諏訪を周り、8月13日に帰京する、約1ヶ月近い大旅行である。当時は鉄道や自動車など交通機関は皆無、極めつきの僻地旅行である。街中でたまに馬車や人力車を使う場面も出てくるが、それ以外のほとんどは徒歩である。サトウは旅行好きでしばしば箱根や日光などに出掛けているが、辿った距離と言い、道中の険しさと言い、これはその域をはるかに越えている。

 その中でも特に白眉は、大町から針ノ木峠を経て北アルプスの中心部を横断し、立山、室堂、芦峅寺に至る4日間の山旅である。このルートはかって武将佐々成政が自領富山から浜松にいる家康の元へ向かうために冬の北アルプス越えをした、いわゆる”さらさら越え”と呼ばれる山岳路で、当時も踏み跡やわずかながら小規模な山小屋もあったようだが、現在の様な整備された登山路や有人の食事付き山小屋は皆無である。さぞ険しい山岳ルートだったに違いない。それをろくな登山装備もない時代に、たったの4日間で踏破している。

(針ノ木雪渓)

 現在これと同じルートを辿るとすると、1日目、大町からバスで扇沢まで入り、針ノ木雪渓を登って標高2500mの針ノ木峠小屋で1泊。二日目、黒部ダムに下り、渡し船で対岸に渡り平ノ小屋泊。3日目、五色ヶ原からザラ峠を経て立山室堂。4日目、バスで芦峅寺と言うことになるだろう。前後のアプローチをバスに頼ったとしても4日かかる。それをすべて足で歩いたのだ。まだ30代という若さとはいえ、すこぶる付きの健脚である。

 1日目の針ノ木峠越えである。大町の外れの野口の宿を出発している。ここでサトウは草鞋と脚絆を登山装備として購入している。日誌の描写は次のようである。

「7月23日、午前5時に野口を出発。雲が徐々に晴れ上がり、左から右に数えていくと、ヤハズガ岳、蓮華岳もしくはゴロク岳、爺が岳、それからツベタもしくはツメタが姿を現してくる。我々が越えようとしている針ノ木峠は蓮華岳の真北にある。高瀬川の左岸の大出を通り過ぎ、川を渡る。それから荒れ地を抜け、森の中を登り、白沢の小屋、黒石沢の小屋を過ぎ、雪渓を登り、1950mの地点で昼食をとった。(標高2540mの)針ノ木峠に着いたのは午後3時頃である。雨が降り出した中、二股の小屋を過ぎて午後7時に黒部に着いた。この夜の泊まりは平の小屋になった。ここの人々は峠の道程は15マイル(24キロ)に過ぎないと言うが、そういう短い距離なのにこれほど時間を要するとは到底信じられないことである。この道を開いた人たちは、旅行者を驚かせないようにわざと距離や所要時間を控えめに述べていると結論せざるを得ない。」

(黒部上ノ廊下)

 現在の普通の健脚登山者でも、野口よりはるかに谷奥の扇沢バス停から歩き始めて針ノ木峠に至るのがやっとである。そこからさらに黒部川に下って平らの小屋まで足を伸ばすのはかなりきつい。当時は黒部ダム湖がなく、黒部の急流を歩いて渡らねばならなかった。橋でも架かっていたのだろうか。それを15時間かけて1日で歩き通したのだ。このときの黒部の急流の様子をサトウは次のように書いている。

「黒部は、激しい急流の傍らのブナの原生林の中に、ロマンチックとしか言いようのない具合に位置していて、それを木々で覆われた高い山々が取り囲んでいる。しかしこれらの山々といえども、この地方の巨大な高山群の一部にしか過ぎないのだ。夕食の時、岩魚という実にうまい魚を食べた。鶏の羽で作った毛針を使い、黒部川で釣ったもので、重さが4分の3ポンドもあった。」
 荷運びに同行させた案内人が釣ったのだろう。

 サトウはこのあたりの山が巨大な飛騨山脈の一部であるという認識をすでに持っていたのだ。飛騨山脈から南北に伸びる山系を、はじめて「日本アルプス」と呼称したのは大阪造幣局お雇いのイギリス人技師のガウランドだそうだが、その出所はサトウとホーズの共著「中部および北部日本旅行案内」にあるという。この著書の中に「越中と飛騨の境界の東側を走る山系は、この帝国の最も重要なものであり、おそらく日本アルプスと名付けてもよいであろう」と言う記述があり、その引用だという。つまり日本アルプスの名付け親は、かの有名なウォルター・ウェストンではなくアーネスト・サトウなのだ。サトウの次男で植物学者の武田久吉博士は日本山岳会の創設者でもあるが、息子もさぞ山好きだったのだろう。

(五色ヶ原)

 山旅の二日目は黒部峡谷の平の小屋から現在の五色ヶ原に登り、ザラ峠に下ったあたりの“立山下の温泉”に泊まっている。この温泉は現存しないが、有人の温泉小屋だったようで、そこの主人との会話も日記に出てくる。五色ヶ原頂上から見た風景を日誌に次のように書いている。
「午前9時45分、頂上(ザラ越え)に着いた。振り返ると我々の頭上に針ノ木峠が見え、前方には越中の平野、湾曲する能登半島の青い山々、それらに接する青い海が見え、その中を白線のように神通川が真っ直ぐ走っている。」
 おそらく現在の五色ヶ原頂上からの俯瞰であろうが、サトウは日本本州の正しい地形と位置関係を正確に把握できていたのだろう。ほとんど見たことも歩いたこともない異国の地理にこれほど精通しているのは、驚くほかない。

 三日目にたどり着いた立山室堂では、雨の中地獄谷の見学をしている。翌日立山に登るつもりで、その夜は室堂の山小屋に泊まっている。その様子を次のように書いている。
「参詣人のために作られたこの小屋は、木造で風がやたら吹き込む。松(おそらく這松)を燃やして暖をとるので、煙が目にしみて痛い。寝具も食器もその他の用具もない。食物として手に入るのは米と水だけである。通常参詣人が立山に登れるのは7月20日から9月7日までの50日間であり、今年はすでに百名が登っている」

 明治初期の立山信仰登山の様子を垣間見ることが出来る貴重な記録である。翌日4日目に立山に登る予定だったが、天候が悪く、諦めてそのまま弥陀ヶ原を下り、麓の芦峅寺に到着している。このサトウの山旅日誌の一部始終が1978年刊の「富山県史」に全文掲載されているそうなので、一度読んでみたいものだ。

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