伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2018年10月13日:アーネスト・サトウの西南戦争 T.G.

 長らく読み続けてきた「アーネスト・サトウ日記抄ー遠い崖」(朝日新聞社)がやっと第13巻の「西南戦争」までたどり着いた。明治10年2月に始まった西南戦争はいわば明治維新の歴史的総括であり、近代日本への真の出発点でもある。

 イギリスの外交官、アーネスト・サトウは、彼の日本滞在中、独自の視点で明治維新を見つめ続けてきた。その過程で薩長側の総大将である西郷隆盛と何度も交流面談し、西郷の生き方や価値観を理解し、感銘を受けてきた。そのことが彼の日誌の随所に書かれている。その西郷が維新後の政府で居場所、働き場所を失なったことを常々不審に思い、気にかけてきた様子も書かれている。その敬愛する維新の雄、西郷が、征韓論騒動を切っ掛けに、大久保利通や岩倉具視らの維新政府と袂を分かち、鹿児島に引き籠もってしまった。彼が西郷に再会するのは数年後の、何と西郷が反乱軍を率いて出陣する直前の鹿児島においてである。歴史の妙というか、偶然だろう。

 サトウは明治8年に賜暇を取ってイギリスに一時帰国している。2年の賜暇期間が終わって日本に戻るとき、イギリス大使パークスの指示で上海から長崎経由で鹿児島に立ち寄っている。当時鹿児島県庁に雇われて病院の経営に当たっていた元同僚の医師ウイリスと久しぶりに再開し、旧交を温めている。その最中に思いもかけず突然西南戦争が勃発する。そこからの彼の日誌はまさに西南戦争観戦記の趣があり、とても興味深い。西南戦争の正史は維新政府側の視点で書かれたものしかないが、偶然現場で立ち会ったイギリス外交官の視点と客観的立場で書かれた記述は貴重である。

 西南戦争は明治10年2月17日、西郷軍の熊本進撃に始まる。それ以前に私学校生徒の火薬庫襲撃事件が起きたり、政府による西郷暗殺計画の噂が出たりして、不穏な状況にはなっていたが、本格的な戦争に至ったのはこれが手始めである。その決起直前の2月11日に、突然西郷が自分の方からサトウとウイリスに会いに来る。気心の知れたあたかも維新の同志のような、信頼の置けるイギリス外交官サトウに、何か伝えたいことがあったのだろう。そのときの様子をサトウは日誌に次のように書いている。

「西郷には20名の護衛が付き添っていた。彼らは西郷の動きを注意深く観察していた。そのうちの4,5名は西郷が入るなと命じたにもかかわらず家の中に入ると譲らず、一緒にウイリスの居間に入ると言い張った。結局は居間の入り口で見張りに付くことになった。(西郷との)会話は取りに足らないものであった。ウイリスは(病院の同僚である)三田村が医師団長として従軍するつもりでいるので、三田村に明確な地位を与えるよう西郷に伝えた。西郷と私も2,3言葉を交わした。西郷は下士官と兵の数は1万を超えるだろう。出発日は未定であると、我々に語った」

 これが西郷との会合の一部始終で、サトウが西郷と会った最後になる。ここに書かれている西郷の姿は異様である。反乱軍の首領ではなく、あたかも虜囚のそれに似ている。この兵士達の尋常ではない警戒ぶりは、西郷を監視下において、妙なことを口走らせないようにしている様にも見える。サトウもかねてから大戦略家と認めている西郷が、なぜこのような不利な戦いにあえて決起するのか、理由を図りかねているようだ。もしや担がれているのではと言う心証すら持ったに違いない。事実反乱軍における西郷の立場は、終始そのようであったと書く歴史家もいる。

 西郷軍が熊本に向け出立した翌日、サトウも帰京のために長崎に向かっている。辿るルートは西郷軍と同じである。所々で西郷軍の将兵と行き会う。西郷はかっての役職である陸軍大将の盛装を身につけ、舶来の葉巻をくゆらせていたという。いまだ天皇の忠実な臣下であることを示したのだろう。後にサトウは公式の覚書の中で、道中出会った西郷軍の様子を「全員が同じ型の先ごめ銃と刀で武装しており、我々と先になり後になりして進んだ。兵士達は実に規律正しく、整然と行進し、我々外国人に対しても極めて規律正しく振る舞った」と書いている。おそらく今は反徒となった西郷への想いとシンパシーがそう書かせているのだろう。いずれにしろ、西郷軍の動静を現地でつぶさに見た外国人はサトウだけなのだ。彼が八代から舟で長崎に渡る前、西郷軍の熊本城総攻撃が始まる。その際の戦況を耳にし、熊本城天守閣の炎上を遠望したりしている。

 サトウの帰京後も戦況は一進一退で続いた。東京政府の岩倉等は、サトウが現地鹿児島で見聞したことを聞きたがったが、西郷軍が規律正しく行動したこと以外は何も話さず、西郷と会ったことにも触れなかった。西郷に対する大久保ら東京政府の仕打ちに反感や疑念を持っていたのだろう。政府軍が城山を包囲しつつあった時点で、サトウは北関東を巡る山旅に出ている。その道中に西南戦争は終結した。3週間後、旅から帰宅した日のサトウの日誌には次のように書かれている。

「10月13日: 9月24日朝城山への官軍総攻撃で薩摩の反乱は終わった。西郷は両足を弾丸で打ち砕かれ、動くことが出来なくなったので、別府晋介が首を落とした。他の指導者達も皆殺しにされた。約400名が投降し、わずかが逃走した。官軍から助命の申し出はなかったが、それは予想されたことだ」

 実に淡々とした記述であるが、かって維新を戦った同志である西郷に対し、大久保や岩倉等がとった冷酷な仕打ちに反感を覚えているようである。事実サトウは昵懇な勝海舟などを通じ、戦いの仲裁や西郷の助命などを画策していた。それが果たせなかった落胆も感じられる。この翌年の明治11年、東京政府の首魁大久保利通が不満士族の一味に紀尾井坂で暗殺された。そのときのことをサトウは日誌に次のように書いている。

「5月14日: 今朝大久保利通(別名一蔵)が紀尾井坂において不平士族によって暗殺された。大久保は民衆から非常に憎まれていたので、誰もが彼の死を喜んでいるように見受ける。大久保が間違いなく政府の中心人物であった事は間違いない。生麦事件でリチャードソンが殺害されたとき、彼は島津の行列の中にいたのだが、私は今日までそのことを知らなかった。大久保は自分の役に立つ場合を除くと、外国人の助言を求めたり友情を深めるようなことをしない。多くの人々は大久保暗殺がもっと早く起こらなかったことを驚いている。暗殺者は斬奸状を携行していたが、政府がすべて押さえてしまったので、何が書かれていたのか誰も分からない」

 西郷に対する暖かみのある記述と違い、実に冷たい、突き放したような筆致である。いずれにしろ明治維新が抱えていた矛盾や混乱が、この戦争で丸ごと解消されてしまった。西南戦争は維新によって既得権益を奪われた士族達の不平不満や怨念が引き起こしたものである。そうした負のエネルギーが吹き飛んでしまったのだ。西郷は征韓論でそのエネルギーを発散させようと試みたが意叶わず、やむなく承知の上で反乱軍の指導者に祭り上げられたのかも知れない。そういう意味で、維新の立役者、西郷と大久保の二人を犠牲にしたこの戦争は、明治維新の真の総括だったのだろう。

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