伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2018年6月25日:遠い崖、「大分裂」、「北京交渉」を読む。 T.G.

 10年以上前から読み続けてきた 萩原 延壽 (著) 「遠い崖、イギリスの外交官アーネスト・サトウ日記抄」の第10巻「大分裂」を読み終わり、第11巻「北京交渉」を読み進めている。

 10巻「大分裂」の主要テーマは、維新直後の明治政府に生じた大分裂騒動である。明治4年に岩倉具視、大久保利通等が使節団を組んで海外視察に出た後、留守政府を任された三条実美や西郷隆盛等の間で征韓論が巻き起こる。いくつかの議論ややりとりを経て、首相格の三条実美等は西郷を使節として朝鮮に派遣することを決定する。帰国した岩倉や大久保は、維新直後の未だ体制の整わない日本が海外と紛争を起こすのは時期尚早、今は内政に傾注すべしと反対し、紆余曲折の末にこの決定を封じてしまう。その結果生じたのが明治政府の大分裂である。

 征韓論を引き起こした原因は、明治新政府に対する李氏朝鮮の対応にあった。維新後の明治政府がただちに隣国朝鮮に使者を送り、新政府発足を通知し、国交を求める交渉を行おうとすると、朝鮮政府は従来から江戸幕府との間で行われてきた、対馬経由の通信使以外の交流は認めないと、これを拒絶した。明治政府を独立国日本の政府として認知しなかったのだ。それだけにとどまらず、日本が釜山に置いていた施設を改築しようとすると、官憲主導の妨害やボイコットが巻き起こった。国主である大院君は、「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」という布告を出し、日本との交際を禁じた。これらの国際常識を欠いた不条理極まりない朝鮮政府の対応が、明治政府の中に征韓論を巻き起こした原因であり、後の日韓併合に至る流れの源流にもなった。

 この頃の西郷は明治政府の中で陸軍大将兼参議という要職の地位に就いていたが、内政外交中心の政府の中で居場所がなく、ほとんど政治家らしい活動をしなくなっていた。サトウ等外国大使館とも交流がなくなり、あれほど書かれていたサトウの日誌にもほとんど登場しなくなっていた。この「大分裂」に描かれている明治政府の動静も、もっぱら西郷や大久保、木戸、岩倉等の書簡、覚書の類いからの引用にもとづいており、サトウの日誌はまったく取り上げられていない。

 その西郷が表だって動いたのが、唯一この征韓論議論である。西郷は征韓論の言い出しっぺではなかったがそれに理解を示し、彼の存在感と影響力の大きさもあって征韓論派の首領に担ぎ上げられる。その際西郷は、ただちに軍隊を差し向けるのではなく、まず自分を使節としてソウルに派遣するよう求め、そうすればおそらく自分は殺されるだろうから、それを踏み台にして軍事力行使に出ればいいと暗に主張した。朝鮮との軍事紛争が目的ではなく、征韓論を奇貨として自らの死に場所を求めたのだろう。

 これはカストロと共にキューバ革命を成し遂げたチェ・ゲバラが、盟友カストロと袂を分かって、とても勝ち目のないボリビアの革命運動に飛び込み、死に場所にしたのと似ている。カストロや大久保利通は革命家である以上に政治家であるが、西郷やゲバラは政治家ではなく、心底生まれつきの革命家なのだ。革命家には政治は出来ないし、やる気もない。政治しかやることがない政府に、革命家である西郷やゲバラの居場所はない。そのことが二人に革命家としての仕事場、死に場所を求めさせたのだろう。

 共に維新を戦ってきた盟友大久保利通に、政治手腕と手練手管で征韓論を封じられた西郷は、大久保、木戸、岩倉等が取り仕切る明治政府と袂を分かち、維新の同志、桐野利秋等を引き連れ、鹿児島に引きこもってしまう。いわば明治政府の大分裂である。やがて起こるべくして起きた西南戦争は、この大分裂の歴史的総括となり、革命家西郷の真の死に場所になった。大久保は彼が得意とする政治能力を駆使して西郷の征韓論を封じたが、西郷は最後まで自らの朝鮮派遣を愚直に求め続けるのみで、一切の政治的な駆け引きをしなかったという。いかにも革命家西郷らしく、政治家大久保らしい。西南戦争の最中、死期が近づいた木戸孝允が、病床で「西郷、いい加減にせい」とうわごとでつぶやいたと、司馬遼太郎が「翔ぶが如く」の中で書いているが、明治維新は、成る前も成った後も波瀾万丈で、ある意味ロマンチックな出来事だったのだ。

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