伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2018年5月12日: 無限の樹形図とは GP生

 7年ほど前、テレビ東京で放映された連続ドラマに「最上の命医」がある。一昨年と昨年、ドラマスペシャルとして2時間番組が放映れている。自分は、最近再放送されたこの2本を見る機会があった。「最上の命医2016」と「最上の命医2017」である。主演は小児外科医・西條命(命をミコトと読ませる)を演じる斎藤工だ。西條命が勤務する病院内での医師、看護師、それに患者達の人間ドラマである。西條命が数々の困難を乗り越え、子供の命を救うパターンは医療ドラマの約束事でもある。斎藤工は派手さがないものの、何故か存在感を感じさせる個性を持っている。自分の好きな俳優の一人でもある。

 主人公の西條命は「子供の命を救うことは、10年先20年先の未来を創ることだ」、「子供は一人に見えて一人ではない、その子供がまた子供を産み、その子供がまた次の子供を産む。どこまでも広がる無限の樹形図だ。」、「医者は目の前の患者だけでなく、その家族や子孫のつながりである無限の樹形図を救うことになるのだ。」と小児外科医としての使命を熱く語っている。無限の樹形図を救うことが、このドラマの隠れたテーマになっている。

 人の命は、その人個人に属することは間違いではない。けれど日常生活に目を開き、良く見れば、個人が単独で存在するものでないことを自覚する事は多い。自分は、春秋のお彼岸には、菩提寺にある墓に参拝することにしている。墓標には、先祖全ての名前が刻まれている。墓前で手を合わせ、先祖に心の中で感謝の思いを捧げている。自分自身がこの世に存在し、現在の生活が営めるのは、先祖との繋がり無しには考えられないからだ。いつの日か自分も名を連ねる時が来るのだろう。

 2年前、終活の一環として我が家の歴史を書き残した。基本資料は、仏壇に並ぶ位牌と祖父母や親から聞かされた先祖の伝聞である。自分が書き残さなければ、自分一人の記憶に留まり、息子や孫たちに伝わることは無いからだ。子や孫は、今は先祖に関心を持つことはなくとも、いずれ高齢期を迎え、自らの先行きが見えて来た時、読んでもらえばよいと思っている。祖父母には、自分が子供の頃に接しているので、実感として理解できるが、それから先の代は、主については大よそのことは知れても、連れ合いは名前しかわからない。祖父母は養子養女である。先代の母親は、目が見えなくなった夫を捨て、作男と駆け落ちした。親戚が集まって協議し、祖父母が家を継いだことで我が家の樹形図は、別の樹形図に転移したことになる。駆け落ちした彼女のその後を知る者は誰もいない。それでも、本来の樹形図を構成している一人であることに違いない。子孫の有無は知るよしも無い。

 先日、車の運転中に義兄が亡くなったとの電話を受けた。要介護5の義兄は2週間ほど前から、下痢と嘔吐を繰り返していた。原因は不明だが食事は摂れず、通いの看護師による点滴だけで命を保っていた。亡くなる何日か前から意識が無く、持病である心臓の薬さえ飲むことが出来なくなった。死因は心不全による突然死と思われる。享年83歳。葬儀は行わず、簡素化した家族葬にするとの事であった。当日、夜に家族全員が集まり、自宅マンションでお別れの会を催し、翌日荼毘にふす予定であると知らされた。

 お別れの会には、故人の子供三人と孫達総勢7人が集まった。老人は姉と自分の二人のみだ。孫達の最年少は大学生で、他は社会人であった。一番若い社会人は、今年三月、大学の教育学部を卒業し、小学校三年生の担任として働いていた。活発な女の子で、一人で雰囲気を盛り上げていた。現在、家庭訪問中とのことであったが、明るく人見知りしない性格は、生徒の父兄から受け入れられる事だろう。個人の生前における人付き合いを思えば、真逆の人柄であった。子供の頃しか知らない自分は、彼女の成長ぶりに目を見張った。長い介護疲れで憔悴しきっていた姉は、成長した孫達の談笑にどれだけ心が癒やされたことだろう。

 人の死は悲しむべき事だが、肉体を使い切って亡くなる高齢者の死は、目出度いことなのかも知れない。認知が進み、自己の状態も家族の介護も理解の外にあったとすれば、自らの死によって家族を解放することに繋がるからだ。義兄は安らかな最後であった。家族に看取られ、眠るようにこの世を去ったと聞いている。義兄も苦しみから解放され、救われたのではないだろうか。7人の孫達は社会に一歩踏み出したばかりか、踏み出そうとしている男女である。義兄は樹形図に7本の枝を残して、自分の役割を果たしたのだろう。孫達の明るい会話は、故人にとって、僧侶の読経以上に供養になったと思われる。未来へ繋がるお別れの集いであった。

 最近、新潟で小学校2年生の女の子が、下校途中に誘拐され、惨殺された。犯人は、子供を殺した上、線路上に放置し列車に轢かせたのだ。残虐極まりない犯行だ。人間がする行為ではない。ご両親の心を思うと、胸が締め付けられる思いだ。犯人は、子供を殺すことで、家族に消えることのない悲しみと苦悩をもたらすだけでなく、無限の大樹として育つべき枝を断ちきってしまったのだ。それが、どれほど残酷なことである事か。犯行の動機や目的は判らない。犯人像も定かではない。営利目的の犯行でないことは確かだ。少年少女を誘拐し殺害した犯行が迷宮入りすることが多いようだ。被害者との関わりや、目撃情報や犯人の遺留物が無い事が多いからだろう。

 どのような悪行であっても、「天知る地知る我も知る」だ。残虐な犯罪を行った者が、どのような気持ちで、その後の人生を送るかは、本人しかわからない事だ。はっきりしている事は、この世で行った事は、この世で清算しなければならないと言う真実だ。新潟の犯人のすべきことは、自首し罪を償うことだが、まず無理だろう。人の肉体は、この世限りであっても、魂は永遠であると言われている。罪を犯し、この世で清算できなかった魂は、あの世で償いを続ける事になる。暗い暗黒地獄の中で反省を強いられる日々日が、永い間続くと聞いている。この時、罪を悔いても遅いのだ。この犯人も無限の樹形図を構成している一人であるはずだ。自らが樹形の枝の1つであるとの自覚があれば、樹形図を汚す行為は行わなかったろう。自らの魂がこの世限りの物でないことを知っていれば、この世での生き方は換わっていたろう。

 最近のテレビは、財務省の福田某やタレントの山口某のセクハラ報道で賑やかだ。社会的責任が有り、影響力の大きな著名人のセクハラは問題だとしても、連日報道する程のこととは思えない。この問題は、個人の人格に由来する事だ。学識や才能は大事な属性である事は間違い無いが、人の本質は心のあり方、心の大きさ、心の形にあると思っている。心の形成は幼児期に始まり、青春期に基礎が形作られる。加齢の進行により肉体は衰えても、心の成長は年齢に関係はないと思っている。「心に力ありといえども 磨かざれば日に滅ぶ」で、福田某にしても山口某にしても、何処かで心の修行を忘れてしまったのであろう。人は心の修行を怠れば、様々な欲望や誘惑に負けてしまう弱い存在だ。

 無限の樹形図は血統の系図であると同時に、魂の樹形図でもあるのだろう。人の誕生には、人知では判らない魂の交流が存在すると聞いている。人と人との出会いや交流にも目に見えない力が働いていると感じることがある。小児外科医西條命が子供の命を救うため懸命に努力するは、魂の繋がりが大事と考えているからだろう。ドラマでは、社会的立場を守ることに汲々とする母親は、高校生たる娘の心を知ることに全く関心がなかった。結果、娘は誰が父親かも知れない子供を身ごもり、母親は愕然とする。家出した娘が劣悪な環境の中で持病により倒れた。母親の献身と西條命の緊急手術で赤子と娘の命を助ける事により、母と娘の心は繋がりを取り戻す事でドラマは終わる。心の繋がりは、ドラマのみならず、現実の世でも生き甲斐に通じる大事だ。高齢者にとってはなおさらだ。

 人の繋がりを示す樹形は、人それぞれの努力無しには、無限の樹形図にならない事を教えてくれる。色心不二が示すように、心と身体は一体として人を成している。心を磨き身体を慈しむ事は必要と思っても、行うことは難しい事だ。しかも、生きている限りだ。菩提寺の墓前では、手を合わせ、ご先祖様に感謝すると同時に、自らの生き様を思い起こし、残された余生を如何に過ごすかを考える事になる。幸い、自分には二人の孫がいる。孫の存在は、年寄りにとって生きる励みでもある。我が家の樹形図が、更に生長していくことは間違い無いからだ。孫達の成長ぶりを何処まで見届けられるかは、自分にはわからない事だが。

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