伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2018年3月5日: 我が街のシャツター商店 GP生

 自分は都内の外れに住んでいる。この街で生まれ、大学に進学するまでここで過ごした。家を出た時は一人であったが、21年後、家族と共に4人で戻ってきた。両親が歳をとった為だ。祖父母の住まいは、藁葺き屋根の農家であった。両親が結婚したのを期に、木造2階建てに建替たと聞いている。昭和10年前後の事だ。自分は、この家で生まれ、この家で育った。今は、鉄筋コンクリート建ての味気ないマンションに変貌している。この二階家と祖父が丹精込めた植木で埋められていた庭は、一本残ったモチノ大木を除いて記憶に残るのみだ。時代が進むにつれ、いつの間にか、人も家も替わっていく。流転は世の常であるにしても、振り返れば、懐かしさと同時に、寂しさも覚えるものだ。同じように、自分の住む街も、時と共に大きく替わってきた。

 昨年の半ば頃からだろうか、街中にシャツター商店が増えてきた。戦前から営んでいた薬局が無くなり、和菓子屋が消えた。小学校の同級生の実家である時計屋が店を閉め、冠婚葬祭の仕出し屋が営業を止めた。最近では、終戦直後から営業していた駅前の食品店が、「長らくのご愛顧有難うございます」で始まる閉店お知らせを、シャツターに張り出した。シャツター商店は地方の専売と思っていたが、我が街でも生じていた。

 閉店の最大理由は、後継者が居ないことだ。店主は、自分が子供の頃から知っている人ばかりだから、皆高齢者だ。土地と店が自分の物であるから、家賃・地代は発生しない。最大コストが発生しないのだから、商売は可能なはずだが、如何せん跡継ぎが居なければどうにもならない。子供達は居ても、親の商売を継ぐ気はないから廃業するしか無い。地方の集落で農家が廃業していくのと同じ構図だ。

 閉店した商店は、店内を改装して貸店舗に替わるのが常だが、借り手が現れない事が多い。今までは、自宅兼用であったから問題にならなかったが、水場やトイレが無く、しかも、店舗スペースは、今の世では中途半端だ。借り手にとっては不便な環境である。しかも、駅前商店街だから賃料もそれなりだ。自分の街での新規商売は難しいと言われている。借り手が現れて開店しても、2,3年で店をたたむ例は尽きない。

 昨日、旧いマンションの住人から解約通知書を受け取った。47年前、亡き父が住宅と店舗の賃貸借契約を交わしたのだから、最古の居住者と言える。営んでいる不動産業は、後継者たる息子さんが業務を行っており、父親は時々店に顔を出すだけになっていた。5階建てのこの建物にはエレベーターが無い。今では、エレベーター無しは三階までが相場だが、当時は五階でも普通であった。四階に住むこの住人は、高齢化に伴い、階段の上り下りが無理になってきたのだ。郊外に所有するマンションに常住するとのことだ。また一人、旧い付き合いが消滅する。

 自分が営む賃貸マンション業は、リホームが付きものだ。最近ではリノベーションと称して、室内を根本的に改造し、顧客の求める物件にする例が増えてきた。旧いマンションを改造するには、職人さん達の力を借りることになる。不動産屋や設計者と相談した計画を実現するには、経験豊かな職人さんの力が物を言う。この職人さん達が高齢化しているのだ。60代はざらである。先日も外壁修理用の高い足場の上で、65歳の職人さんが作業をしていた。自分も若い頃は、鉱山での高所作業を何の不安も感じないでこなしていた。今では、不安と恐怖心から、脚立の天辺に立つことは出来ない。

 人は毎年歳をとっていく。20代、30代の頃は、老化した自分を想像すら出来ないし、40代、50代は油の乗った働き盛りでもある。自分の息子達はこの世代を生きている。自分もそうであったように、老化を意識するのは70歳を過ぎてからだ。70歳の坂は厳しい坂だ。自分の親しかった友人達の多くが、この坂を超えること無く、世を去って行った。自分にしても、坂を越えたと思ったとき、前立腺ガンに見舞われた。街のシャッター商店主達は、高齢か病魔に見舞われたかのいずれかだ。

 子供の頃、商店街の歩道は遊び場であった。当時、商店街の子供達は幾つかのグループに別れ、群れを作って遊んでいた。今と違って塾は無い、稽古事などする子供も居ない。昭和20年代初めの東京では、親たちは食べ物を確保し、飢えを凌ぐ為に必死に生きていた時代だ。子供達は、勉強も学校の成績も関係無く、元気に商店街の歩道で遊んでいた。当然、商店主達とも顔馴染みになる。彼等が子供達を呼ぶのも、全て下の名前だ。子供達が成長しても、顔を合わせれば、この名前で呼ばれることになる。大人になってもだ。

 商店主が代替わりして隠居に近い身になっても、街で会った時、下の名前で呼ばれれれば懐かしさを覚えるものだ。商店主達が高齢化し、一人、二人とこの世を去って行くのは淋しいことだが、人の寿命に限りがあれば致し方なしだ。何人の葬儀に参列した事だろう。今、自分を下の名前、しかも愛称で呼んでくれる商店主は、八百屋のYKちゃんのみになってしまった。彼とて80歳を大きく超えている。店舗はリニューアル出来ても、人は改装が不可だ。老いるのみだ。

 自分にしても、サラリーマン退職後24年が過ぎた。前立腺ガンの定期検査が続くとは言え、止められていた男性ホルモンも幾らか戻っているのを感じる。日常生活に不自由を感じることも少なくなった。けれど最近、空き部屋の小修繕やルームクリーニングを行うのに、億劫さを感じるようになったのは歳のせいだろう。朝、「よし、今日やるぞ」と自らに気合いを入れ、作業着に着替えればエンジンはかかる。問題は、何時までエンジンをかけられるかだ。老いを感じる昨今である。

 最近、意識して自分より若い人達と付き合う様にしている。マンション工事の業者達も同様だ。自分が生きている限り付き合いが可能だからだ。家業に定年は無くとも、何れ限界が来るのは間違いない。それが何時になるかは、定かでは無い。日々の管理業務をこなせ無くなった時が、リタイヤの時だろう。幸い、我が家にはシャツターはない。

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