伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2017年9月2日: 英和中辞典 H.A.

 (瑞鳳寮の大先輩、岩見沢の哲学者から投稿をいただきました。冒頭、小生が大学1年の時過ごした懐かしき瑞鳳寮と瑞鳳寺の風景が描かれています。 T.G.)

 20代前半わたしは仙台の瑞鳳寺という禅寺で過ごした。本堂と廊下でつながる古い庫裏が学寮になっていて、伊達家の菩提寺であるその寺は仙台市街を見下ろす高さ7,80メーターほどの経が峰という丘陵の中腹にあり、境内から樹齢数百年の杉の古木が両側に林立する、昼でもなお暗い緩やかな石畳の参道を数十段登ると伊達政宗以下三代の墓がある。丘陵の一角は広瀬川が削った断崖になっていて、青葉城址はその断崖沿い、指呼の間に迫っている。寮には水道などはなく飲み水も鐘楼傍の井戸から毎朝交代で汲んで庫裏まで運ばなくてはならなかった。風呂のように大きな桶にはよく窓から飛び込んだ蛙が泳いでいたり、澄んだ水底には透き通るようなピンク色のミミズが何匹も沈んでいた。不便ではあったが、めったに人の姿もない樹木に囲まれた寺域は学校まで歩いて10分くらいということもあってまたとない環境だった。

 長い夏休みなどは学生たちもあらかた帰郷して寮は閑散としていたが、たまたまわたしが居残っていた夏休みのある昼下がり、日傘をかざした一人の若い御婦人が訪ねてみえた。寮で世話になった先輩が結婚のため寮を出て寺の近くに居を構えていたが、新婚の先輩夫人がその御婦人と女学校以来という親友でよくその新婚夫婦を尋ねてきていた。その家が留守だったりすると境内まで足を伸ばし、わたしが散歩のお相手を仰せつかったりしていた。いつも和服姿で、風呂敷には道すがら立ち寄る、仙台では有名な老舗「賣茶翁」で求める上品な和菓子が包まれていた。留守のおかげで常には口にできないお菓子に与れることはまだ食糧難で甘いものに飢えていた貧乏学生にとってはありがたいことだった。

 木立を縫って起伏のある経が峰をぶらつくと小一時間はかかった。歩きながらよく歌を歌って聞かせてくれた。ふくよかで澄んだソプラノだった。「庭の千種」や「時計台の鐘」はそのとき教えてもらった。そのひとに教えていただいた歌が情けないほど乏しいわたしのレパートリーとなった。父親の勤務していた病院の関係で女学校は北海道で、先輩夫人とは女学校で同級だったそうだ。旧制女学校だったからわたしよりは4,5歳年上になる。

 その日、本堂の巨きな屋根や生い茂る境内の樹木で真夏でもひんやりとした庫裏の広い廊下に陣取ったわたしの傍に腰を下ろしたそのひとは、机の上においてあった英語の辞典の表紙を覗き「アラ、秀三郎?お使いなの」と驚いたように呟いたが、どうして秀三郎などと呼び捨てにしたのだろうかとわたしの方こそ驚いた。

 秀三郎と親しげに呼び捨てにした理由がわかったのはその後お宅にお邪魔するようになってからだった。瑞鳳寺から歩いて30分ばかりの大学病院の近くにそのお宅はあった。通りからちょっと奥まったところの邸宅は仙台の典型的な武家屋敷の面影を色濃く残す、庭木に埋もれるようにして建つ平屋でほかに二階建ての離れがあった。広い玄関を入ると当時仙台では珍しい煙突のついた薪ストーブのあるフローリングの居間があった。北海道暮らしの名残だった。平屋の大部分は和室で離れに通じる一番奥の和室の高い天井と長押の間には二筋の槍が掛けてあった。床の間には黒光りのする堂々たる甲冑が置かれていた。そしてこちらを睨んでいる兜の暗い眼窩にはその部屋に飾ってあったどんな肖像画の眼光も及ばない威圧感があった。

 その甲冑の主は伊達政宗の家臣団として戦陣で生死を共にし、主君に殉じて切腹を許された20人の家臣の一人だった。「いでるより 行方も知らぬ 旅の道 照らしたまえや 弥陀の来光」という辞世のうたを残したそのご先祖の名は今でも松島の瑞巌寺本堂裏の廊下に認めることができる。享年41歳だった。

 秀三郎はその家の現在の当主の伯父だった。当主がよく秀雄さんと呼んでいたのは秀三郎の次男で桐朋学園の斉藤秀雄のことで二人は仲のよい従兄弟だった。秀三郎は、やはり仙台藩士で運上方を勤めていた斉藤永頼の嫡子として慶応2年に生まれている。秀三郎の実家はそこから歩いて10分ほどのところにある。

 三人姉妹の末娘だったそのひとが少壮学者に嫁いで東京に行ってからすっかり寂しくなったその屋敷にわたしは約一年近くお世話になった。その間主からは秀三郎の「伝説」をよく聞かされた。なにせ大変な勉強家で学校にある英語の本は読みつくし、20歳未満でブリタニカを二度読破したこと、23歳で仙台の旧制第二高等学校の教授になるも外国人と衝突、岐阜の中学校の教師となるが校長に教師資格の試験を受けるよう促され「一体誰がオレを試験するつもりなのか」と啖呵を切って辞めてしまったこと、26歳で旧制第一高等学校の教授に迎えられているところを見るとそのプライドも頷ける。子供は7人いたがいちいち子供の結婚式などに出ていたら一生で7日間!も勉強の時間を奪われてしまうと嘆いたという。日曜くらいは休んだらとの進言にも「自然の営みに日曜はない!」といって頑として耳を貸さなかったそうだ。因みに1人の令嬢の結婚相手はわたしの大学の恩師の恩師、塚本虎二だったがその塚本の師内村鑑三は秀三郎を「背教者列伝」に入れている。若いころ仙台で教会に通い洗礼まで受けたのにいつしか足が遠のいたためであった。

 その秀三郎というひとの名前をはじめて知ったのは中学3年のときだった。わたしの学んだ中学校は明治初期日本を旅したイザベラ ベンダが「日本のアルカデイア」と称えた最上川が貫流する山形県南の盆地に在る。南は吾妻、西は飯豊・朝日の連峰、東は白鷹山とぐるりと周囲を囲まれ、最上川は盆地に迫る山々の間を縫うように北の方角に流れていた。小学校と隣り合う中学校は最上川を挟んで五つの集落から成る村のほぼ中央にあった。大雨で最上川の水量が増すと渡し守が立てる旗で川向の集落の生徒たちは引き返していた。典型的な農村地帯で土地柄中学を卒業するとあらかた家業を継いだ。時代は高度経済成長期とやらで集団就職で京浜・阪神方面に行ったひとたちも沢山いた。130名ほどの同学年で隣町にある高校に進んだのは10名くらいなものだった。昔からあった小学校とちがって戦後間もなく建った中学校は、校舎も俄かつくりで授業もよくグランド整備の土運びに変わったりした。先生方も寄せ集めだった。英語の先生が病気にでもなられたのか学期途中で交替となり、代わりに大学進学の準備中だったという飛び切り若い先生が来られた。詰襟の学生服だった先生は勿論教員免許などは取得されていなかったはずだがその実力のほどはすでに伝わってきていた。進駐軍が視察で高校にきたときまだそこの生徒だった先生は沢山おられた英語の教師がたを差し置いて通訳を仰せつかり見事にその役割を果たしたという話だった。われわれの中学校の英語の先生はといえば、修学旅行先の日光でアメリカ人に語り掛けられパニックになって助けを求めようとしたわれわれを見捨てて姿を晦まし、「敵前逃亡」をしてしまうような有様だった。おそらくはラヂオでマスターされたのだろうが、淀みない発音にわれわれはウットリした。堂々たる偉丈夫で、顔はきりりと引き締まり、まるで凛々しい青年将校のようだった。それでいながら詩人のような繊細な手から流れるがごとく繰り出される英語の綴りは美しく、まるですばらしい旋律が今にも響きだす音符のようにも見えたものである。

 きっかけは何だったか覚えてはいないが、贅沢にもそんな先生から個人的に英語の指南を受ける幸甚を忝くするようになった。毎日のように先生は宿題を出してくださった。郷里のわれわれの村に疎開したままだった先生は村の役場や農協、郵便局のある集落の中心部近くに住んでおられた。中学校への通学路から郵便局のところで左に折れて数百メートルのところに停車場があり、その途中が先生仮住まいのお家で、道路を挟んで向かいは村で唯一の劇場だった。といっても年に何回か、旅回りの浪曲師の興行があるほかは映画が年に2,3度上映されるくらいで座席は土間に筵だった。朝、登校時に宿題を持参すると、あまり立て付けのよくないガラス戸をこじあけて先生は待ってたといわんばかりに代わりに用意してある新しい宿題をくださった。それはまるで先生とわたしの交換日誌のようだった。

 宿題は英作文でいつも丁寧に添削していてくださった。訳ではなく作文だったのはその方がはるかに生徒のわたしの注意力を要するからだったと思われる。先生によればどんな日本語でも英語ではすべて五文型に収まるはずだった。飾りの部分はどうでもよい、大事なのは文型の骨格だと口を酸っぱくしていわれた。先生の手にかかるとなるほどどんな日本文もすべて英文では五文型に収まった。それまで国語の授業はあったし、綴り方も教わってはいた。でも文章に法則のようなものがあるなどということは一度も気付いたためしはなかった。褒められても「なんとなく」うまく書けているというだけで、どこがどういう風に良いのかははっきり理解できたたわけではなかった。注意されるときも同じだった。綴り方もその指導は図画のようだった。感受性を育むにはよかったかもしれないが思考を鍛える力にはならなかった。ところがその先生の指摘は理詰めで誤りは算数のようにハッキリ理解できた。

 ある日先生に第三文型、すなわちSVO主語・他動詞・目的語の作文を出されたときのことである。要らざる修飾語に気を取られ、うかつにも欠かしてはならない目的語を書き落としたとき、「目的語!」とノートいっぱいに書かれた真っ赤な字に驚いた。珍しく殴り書きのその筆跡には先生の怒りのようなものさえ感じられた。

 先生がなぜそれほどにまで作文の文型、ひいては文法に拘っておられたのか、その意味がわたしなりに飲み込めるようになったのは、ずいぶん後になって文法や文型に抗いがたい力を与えているのは一体何なのだろうかと考えるようになってからのことだった。 もし仮に見ようとしても見るべき対象すなわち目的がなかったとしたら?それは考えれば考えるほど空恐ろしいことだった。いかに目を凝らしてもどうしても見えない対象をなんとしても見ようとするなら目は見えざる空無に耐えられずに幻影さえ生み出すであろう。そうして謡曲『隅田川』の母御の目は亡きわが子梅若丸の亡霊を現出させた。それでもなお闇を見つめようとするなら目は終には狂いだしてしまうだろう。文型の厳しさが理解できたのはこんなことを考えるようになってからだった。

 文法・文型に逆らうようなことは不可能だった。もし逆らうとしても、やはり文法・文型を以って逆らうほかにない。キュービズムの旗手ブラックが遠近法という視覚の文法を逆手にとって、遠いものほど大きく描くことによってあの衝撃的な空間を生み出したように、「暑き日を海に入れたる最上川」も芭蕉による文型への挑戦である。芭蕉は暑い日が最上川の河口に沈んでゆくというSVの第一文型の自動詞(沈む)を大胆にも他動詞(入れる)にすることによってすなわち第三文型に変換することによって落日の灼熱を何倍も烈しいものとした。

 前衛画家、現代詩人といえども思うままに文法を生み出すなどということはできっこない、できるとすれば文型の置換にすぎない。戯れに偶然生まれる詩などというものがあるとしてもそんなものはチンパンジーが描きなぐる絵(と呼ぶとして)が絵ではないと同様詩ではない。ブラックにしても芭蕉にしても画の、ことばの文法に逆らうには文法を知悉していなければならなかった。そのために彼らは血のにじむような修練、鍛錬を積まなくてはならなかったであろう。

 子供のころから夢想に耽りがちで、神秘的異言に魅せられたりしかねない性癖のわたしにとって先生に教えていただいたことばの型、ことばの矩(法)はその後わたしにとって大事な戒めとなった。石工が弟子にまず道具の手入れを厳しく教えるように、西欧には思考の鍛錬として文法をあらゆる勉学に先立って習得させる長い伝統がある。思考にとって文法は道具の手入れ以上に大事なことであった。夢心地で石柱など立てようとしたらいかに危険であるかは誰にもすぐわかる。(だたし文法にかなっているということと、その内容とは別問題である。悪魔だって巧みに人を欺くときにはちゃんと文法を心得ている)。

 そうして薫陶を受けたわたしは一年足らずして先生とお別れすることになった。最後にお会いしたとき、高校に行ったらぜひ買い求めなさいと薦められた辞書が「辞書と文応の架け橋」と称される斉藤秀三郎の『英和中辞典』だった。文法を重視された先生の卓見だった。そのときの先生の口調は推薦というよりは命令に近いものだった。先生に会えなかったら村のほとんどの生徒たちと同じようにわたしも高校などには行っていなかったかもしれない。

 初めてその辞典を開いたときのことは忘れがたい。中学校を卒業した翌日。はやる心に急かされ、淡雪のちらつくなかマントを翻して隣町の本屋に急いだ。厚さが5センチ以上、2000ページに及ぶ分厚い辞典で、帰路それを抱えて家まで数キロの道のりで、何度か持ちかえなくてはならなかったが、腕に覚えた疲労は辛いというよりはむしろ心地よいといったほうがよかった。家に着くなり、まるで恋文でも開くように辞典のページを繰ってみた。そこから香ってくる真新しい書物特有の強いインクの匂いはわたしをしばしウットリさせた。

 奥付を見ると1952年発行とある。わたしが15歳の年である。爾来60年余、勿論インクの匂いも消え、紙は変色してしまったが、辞典を開くたびに甦ってくるくさぐさの思い出が色褪せることはない。あの夏の日のひんやりとした庫裏の廊下、「庭の千草」、秀三郎を迎えた仙台の武家屋敷・・・そしてなによりもわずか4歳違いなのに到底及ばない遥かな高根として聳えていた貴公子のような若き日の先生!

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